2015年5月13日水曜日

宮崎城 -伊達軍を翻弄した要塞-

みやざきじょう
宮崎城
宮崎城遠景(南東方面から)
別称
特になし
城の格
大崎家臣・笠原氏本城
伊達仙台藩「
城郭構造
山城
天守構造
なし
比高
約70m (ふもとの標高:75約m、本丸約145m)
残存遺構
堀切、曲輪
指定
特になし
築城
築城年
不明(1339年以前、もしくは正平年間(1346-70))
築城者
笠原重広?
城主
笠原氏
(宮崎氏)
笠原重広、為広、為宗、為時、詮時、兼時、
仲沖、隆治、隆親
城預かり
片平親綱、山岡重長、石母田宗頼
(文禄より慶長のはじめ、交代で統治)
牧野氏
牧野盛仲、茂中(?)
石母田氏
永頼、宗存、頼在、興頼(1652-1757)
古内氏
義清、義周、実徳、実道、実直、実広
(1757-1869)
廃城
廃城年
不明(江戸時代は所として存続)
理由
不明
位置
住所
宮城県 加美郡 加美町 宮崎 麓一番
現状
山林
今回紹介する宮崎城は、宮城県内でも有数の天険である。

1.宮崎城の歴史
1-1.笠原氏
宮崎城が建てられたのがいつなのかははっきりしない。『宮崎町史』には「初代笠原重広が延元四年(一三三九)宮崎城を賜って」とある。もともと存在していた城を「賜った」のか、彼が築城したのかは不明だが、少なくとも1339年の時点では存在していたようだ。

一方で『日本城郭大系』には「笠原氏系図」に正平年間(1346-70年)に笠原重広が宮崎城を築いたことが記されている、としている。

現地の案内板には「大崎氏時代には三大名城のひとつといわれ、自然の要害の地であった」と記されている。

笠原氏は大崎氏の家臣で、親族である柳沢(屋木沢)氏、米泉氏、谷地森氏などを従えてこの一帯(現在の加美町北部、旧宮崎町)あたりを支配した。笠原宗家は宮崎の姓を名のってもいる。

大崎氏内部では、氏家氏など、大崎宗家に公然と反旗を翻す一族もあったなか、笠原一党は比較的忠実に大崎家に仕えたようである。大崎家が分裂した天正末期の騒動では大崎義隆の呼びかけに宮崎、屋木沢、谷地森氏が応えて参陣している。

1-2.宮崎城の戦い
宮崎城が脚光をあびるのが、葛西・大崎一揆においてであた。大崎家は葛西氏とともに奥州仕置の際に改易となり、新領主として秀吉旗下の木村吉清・清久親子が入ってくるが、これに対する一揆が旧葛西・大崎領で頻発した。

この一揆の特徴は、単なる農民暴動ではなく、旧領主・大崎家や葛西家の家臣たちが組織的に新領主・木村親子に反抗したことにあった。また、伊達政宗がこれを扇動していたとする説が有力で広く知られているが、実際のところはわからない。

ときの笠原家当主・笠原(宮崎)隆親も一揆に参加したうちの一人である。実は隆親の叔父にあたる谷地森直景の娘(つまり隆親のイトコ)が大崎家当主・大崎義隆の妾であり、嫡子・庄三郎(義興)を生んでいたのである。

嫡子の母親の家系・つまりは外戚として、笠原一党は大崎家中における主流派を形成していた。ともなれば、お家の滅亡を黙って受け入れられないのも必定。笠原党は庄三郎を擁し、大崎家復興のために宮崎城で挙兵した。

浜田景隆の墓宮崎中学校わき)
胸部を撃ち抜かれても「体を城の方へ
埋葬してくれ」と言い残し死したという。
ときの権力者・秀吉から鎮圧を命じられたのは伊達政宗だった。伊達の軍勢は約1万。対する籠城軍は約3000人である。

攻撃は天正19年(1591年)6月24日から開始された。初日から伊達の智将・浜田隆景が討ち死にし、大松沢元実も腰を撃ち抜かれるなど被害甚大な激戦となった。

2日目になると伊達の総攻撃が始まるが、このときの原田宗時後藤信康のエピソードが伝わっている。二人はいつも先陣を競い合っていたのだが、後藤信康が夜にこっそり抜け出して城に忍び入って石壁に取りつくと「えらい早駆けじゃのう」という声がする。みてみると信康よりも先に忍び込んでいた原田宗時が城門の柱にしがみついていた。

城門から敵が攻めてきたが、二人は隠れて城内にとどまった。敵の攻撃がやんで城内に戻ると、二人は城門を開け放って味方を招き入れ、そのまま城は大混乱になったという。

城主・笠原隆親は降伏を申し出たたが政宗はこれを許さず、徹底的な殲滅を主張した。おそらくはここで撫で斬りのパフォーマンスをすることにより、他の一揆勢に対するデモンストレーションとしたかったのだろう。しかし伊達成実が「敵の本拠地は佐沼城にあり。佐沼も堅城である故、宮崎での犠牲は少なく済ませ、早急に佐沼へ向かうべし」と献策した。政宗は成実の意見に納得するも許しがたかったらしく、城は炎に包まれた。

笠原隆親は家臣らとともに秘密の坑道を抜けて脱出。出羽の小国へと落ち延び、舅を頼ろうとしたものの城内に妻子を残してきたためにどうも居心地が悪かったのか、最終的には由利まで赴いている。

宮崎城を落とした伊達勢は佐沼へと転戦。政宗の主張した「徹底的な殲滅」は佐沼にて行われることになる。

1-3.伊達領 宮崎所
葛西・大崎一揆の終結とともに宮崎も伊達領の一部となる。岡千仭『仙台藩史料』によれば「文禄より慶長のはじめ宮崎城は片平親綱、山岡志摩(重長)、石母田宗頼の三人に預けられ交代してここを管理」していたようだ。

江戸時代になると宮崎城は伊達四十八舘のひとつ、城郭ランク「所」として領内支配の拠点となる。江戸時代初期の統治者は記録には残っていないものの、『宮崎町史』では牧野家の支配管理下となったが、故あって改易、家断絶となったために伊達家の記録から抹消されたものと推測している。

記録が残っているのは承応元年(1652年)からで、この年に石母田家6代目の永頼が岩ケ崎から転封となって宮崎に入る。以下、7代・宗存、8代・頼在と続き、9代・興頼のころ、宝暦7年(1757)に高清水へと移封となる。

代わりに入ってきたのが古内氏で、5代・義清、6代・義周、7代・実徳、8代・実道、9代・実直と続き、10代・実広のころに明治維新を迎えた。

なお、石母田氏の時代、明暦元年(1655)には領主の館を移している。旧館は狭い傾斜地にあり、町場の形成に難があり、街道からも離れていたので宿場北側に移転したという。『史料 仙台伊達氏家臣団事典』では、石母田氏に代わって入封した古内氏もその館を引き継いだ、と推測している。


2.宮崎城の構造
現在の加美町役場 宮崎支所の裏山、熊野神社の東側一帯が宮崎城の城域にあたる。熊野神社までは道が通っているが、城域には道がないので、雑木林をかき分けて進んでいくしかない。

登山道が整備されていないことも相まって、まずもって言えるのが、一目見ればわかる大要塞である。

以下は、Google map から取得した等高線だ。東西に二つ高台になっている箇所があり、東側の曲輪はすぐに田川へと落ち込む崖になっていることがわかる。


『宮崎町史』には宮崎城の推定図が載っており、これと一致する。


『宮崎町史』では東側を本丸、西側を二の丸としているが、高さはどちらもほぼ同じだった。おそらく当時は、二つの高台が橋で結ばれていたのだろう。

東側本丸から崖にそって、ゆっくりと標高が落ちていく箇所が登城道だったようだ。西側のふもとは今も住宅が並ぶが、ここに侍屋敷が数件立っていた。

2-1.西部二の丸近辺
城のふもとは畑になっていて、私有地っぽくて勝手に入るのも気が引けたので、熊野神社のわきを通る道、城の案内板があるあたりから雑木林の中に入っていくことにした。


すぐに山が段々になっており、曲輪の痕跡が残っていることに気づく。


周囲と比べると少し傾斜がなだらかになっている場所がある。ここが登城道の跡か。


そのすぐ下は、急な斜面で堀になっていた。


二の丸の平坦部。紫桃正隆氏の『仙台領内古城・館』には「東西80m、南北50mの長方形に近い」とある。

2-2.東部本丸


二の丸から降りて本丸へ向かう。その間は空堀になって隔離されている。右が二の丸、左が本丸。


かなり急な本丸の斜面。

本丸平坦部。『仙台領内古城・館』によれば「東西70m、南北50mの楕円形」


頂上部で、石神様を発見。この一帯で初めて人工構造物を発見かと思いきや...


木の根っこの下に洞穴が。写真後ろに映る積み上げられた木の枝もそうだが、どうも人の手が加えられている様な気がしてならない。もしかして誰か住んでた? (もしくは現在形で住んでる?)

こういう山の中で、動物よりも人の気配がすることがなにより怖い。日の明るい時間にきてよかったー、と心から思った。あるいは、これが笠原隆親が逃げたという地下道の跡!?



本丸のてっぺんは約145メートル。麓との比高は約70メートルで、かなり見晴らしもいいはずなのだが、木が生い茂っているせいでいい眺めを見れる場所はない。木の合間からちょこっとだけ見えているのが田川。

写真ではなかなか伝わりにくいと思うが、東本丸から田川へと落ち込む斜面。相当な急角度。


城を歩いていて遭遇したアオダイショウ。冬眠から目覚めたばっかりだろうか。周囲の景色に同化して、あやうく踏んづけるところだった。


2-3.城の周辺


城の西側・熊野神社。こちらは参道が整備されており、わざわざ林の中を歩かなくてもたどり着ける。1320年の勧進。


丸に三つ引きの紋。大崎氏の家紋は通常「丸に二つ引」だが、三つ引き紋が使われることもあったのだろうか。


近くの公園から見た東側の絶壁。ちょうど真上が東側本丸のあたり。田川と崖に阻まれた、まさに天嶮の要害。原田宗時、後藤信康のふたりはまさかこの崖を登って侵入したのだろうか。


山のふもとのあたり。城の南側から。『仙台領内古城・館』によれば大手門跡があるらしいのだが、発見にはいたらず。

この宮崎城、もともとかなりの要害であることは事前知識としてあったのだが、実際に訪れてみるとそれ以上のものがあった。だいたい、どこの廃城跡も登城道くらいは残されているものなのだが、宮崎城ではそれがないうえに草木は生えっぱなしで人の出入りした形跡がまるでない。iPhoneのGPS機能がなければ、スムーズな見学はできなかっただろう。ほら穴で人の気配を感じたり蛇に遭遇したりも相まって、自分の中では宮城県内トップクラスのスリリングな城跡だった。

■参考文献
・紫桃正隆『史料 仙台領内古城・館 第三巻』(宝文堂、1973年)
・紫桃正隆『宮城の戦国時代 合戦と群雄』(宝文堂、1993年)
・『日本城郭大系 第3巻 山形・宮城・福島』(新人物往来社、1981年)
・宮崎町史編纂委員会『宮崎町史』(1973年)


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