2017年1月31日火曜日

【資料集】大槻館・飯倉館

大槻館。旧仙台藩に特有の
典型的なイグネの風景
戦国時代に大槻泰常の居城だったといわれる、大槻館に関する史料の抜き出し。関連する飯倉舘について記載のある史料についても書き出してある。

ただの資料集、かつ城館としても相当マニアックな部類に入る飯倉城・大槻館についてのものなので、はっきり言って「誰得?」な記事になるが、後日これを元に飯倉城・大槻館についての記事を執筆する予定。

01.『封内風土記』
■ 原文
古壘凡ニ。其一。號飯倉舘。傳云。千葉四朗兵衛泰常所居也。泰常者。寺崎彦九郎淸次之末孫。而葛西家之族臣也。後陽成帝。天正中。戦死于桃生郡深谷荘糠塚。其以前熊谷伯耆諱不レ傳。居之。呼之曰要害。 其ニ。號大槻館。泰常自飯倉舘住于此。稱大槻但馬。今西磐井郡之郡長其子孫也。(巻二十下 千三十三 流同荘飯倉邑の項)
■ 現代語訳

西磐井郡 流の荘 飯倉邑には古城が2つある。
1つ目は、飯倉館という。
伝える所では、千葉 四朗兵衛 泰常の居館である。
泰常は、寺崎彦九郎清次の子孫であり、葛西氏の一族にして臣下だった。
後陽成天皇の時代、天正年間、桃生郡 深谷荘 糠塚で戦死した。
これより前、熊谷伯耆なる者がここに住んでいた。
飯倉館は要害とも呼ばれた。

2つ目は、大槻館という。
千葉泰常は飯倉館からこの大槻館に移住し、大槻但馬と改称した。
現在の西磐井郡の大肝入である大槻氏は泰常の子孫である。

■ 史料情報
仙台藩の儒学者・田村希文が安永元年(1772)に完成させた地誌。詳しくはこちらを参照。出典は『仙台叢書 封内風土記』(第3巻、昭和50年(1975)、宝文堂)に拠った。


2.『風土記御用書上』
■ 原文
端郷飯倉要害
一 飯倉館 堅五拾間 横三拾間
右御城主最初ハ葛西御家臣熊谷伯耆と申御方ニ御座候處其後葛西家御一族寺崎彦九郎淸次之末孫千葉四朗兵衛泰常と申御方ニ而天正十八年葛西家御没落之節桃生郡深谷於糠塚御戦死之由申傳候事 
大槻
一 大槻館
右館當時大槻屋敷仲助居屋敷ニ罷成間數等相知不申候千葉四郎兵衛様飯倉館ゟ此館江御取移御住居被成候處其節槻ノ大木有之候を以世俗大槻殿と申唱候を家名ニ被相名乗候由御子孫西岩井御蔵入大肝入大槻久右衛門先祖ニ御座候由申傳候事
■ 現代語訳
飯倉館
はじめ城主は葛西家臣の熊谷伯耆というものだった。その後、葛西の親族・寺崎彦九郎清次の子孫・千葉四朗兵衛泰常という武将が城主となった。彼は天正18年(1590)、葛西家が滅亡した際、桃生郡 深谷 糠塚にて戦死したと伝わっている。

大槻館
(仲助居る屋敷に罷り成るまじき等 相知れずと申し候=読解不能)、千葉四朗兵衛が飯倉館よりこの地に移り住んだところ、この地には大きな槻の木があったことから、人々から大槻殿と呼ばれるようになり、家名として名乗ることになった。西磐井郡 大肝入 大槻久右衛門の先祖と伝わっている。

■ 史料情報
安永2年(1773)から同9年(1780)にかけて、仙台藩が各村の肝入(庄屋のこと)に提出させた調査書。詳しくはこちらを参照。出典は『宮城縣史 27』(資料篇 5 風土記 西磐井郡 東磐井郡 気仙郡、1959、p.262)に拠った。

03.『仙台領古城書上』
■ 原文

一 飯倉城 東西五十間 城主 千葉四朗兵衛
一 飯倉城 南北三十間
■ 史料情報
延宝年間(1673~1681年)に仙台藩が幕府に提出した古城に関する記録。磐井郡流 金澤村 金澤町の項目に飯倉城についての記載がある。「山」とは山城の意味で、東西50間 = 約90メートル、南北30間 = 約55メートル。

出典は『仙台叢書』第4巻(大正12年(1923))所収の「仙台古城記」に拠った。

04.『小野文書』
■ 原文
    天正十八庚寅年流之内木村伊勢守吉清家人等被指置候覚
一、金沢朝日館ニ居 五十嵐近江 長浜趣前 弓田小平次
   右上下三拾九人
一、峠日形両村 村上道玄国 石田信濃 大内内匠
   右三人上下八拾五人 境ノ城ニ住ス
一、飯倉要害館ニ居 武田志摩
   右上下十人
一、清水村出崎館ニ住 明石式部
   右上下七人
一、中村平館ニ居 大内源内
   右上下六人
一、金森村寺館ニ住 内海玄蕃
   右上下拾人
一、佐沼城 成合平左衛門
一、岩出山城 萩田三右エ門
一、登米寺池城 大将木村伊勢守吉清
一、大崎城 吉清子木村弥市右衛門清久
 天正十八年十月十七日一夜之内、伊勢守家人等ヲ伐殺申候由御届候。
■ 史料情報
岩手県 一関市 花泉町 日形に伝わる古文書。葛西氏の滅亡後、入封した木村吉清時代の統治についての数少ない貴重な記録。飯倉城にも木村吉清配下の武田志摩なる人物が配されたことがわかる。

出典は『岩手県史 第3巻 中世編下』(昭和36年(1961)、p.769,770)に拠った。

05.碑文「大槻但馬守平泰常館址」
■ 原文
陸中西磐井郡金澤村大槻之地實吾家祖但馬守居館址也君葛西氏支族
初稱千葉四郎兵衛居村内飯倉要害後徒此地采地十萬刈館側有大槻樹
里民稱大槻殿天正十六年濱田安房守廣綱反君討平之葛西左京大夫君
加賞七千刈地改稱大槻但馬守十八年葛西氏爲豊臣氏所滅遺臣擧兵明
年伊達氏來討君闘死於桃生郡糠塚子孫住西磐井郡中里村世爲郡長歳
月悠久恐遺址湮没今地主高橋氏爲舊族乃相謀爲建一碑存先世之蹟
   大正三年甲寅十一月   十世孫 文學博士大槻文彦謹記
■ 書き下し文
「大槻但馬守平泰常館址」

陸中 西磐井郡 金沢村 大槻の地、実に吾が家祖 但馬守の居館跡なり。
君は葛西氏の支族にして初め千葉四郎兵衛と称す。
村内 板倉要害に居り、後此の地に徙うつる。
采地十万刈、館の側に大槻の樹有り、里の民、大槻殿と称す。
天正十六年、浜田安房守広綱反す。
君、之を討平す。
葛西左京大夫、君に七千刈を加賞し、大槻但馬守と改称す。
十八年、葛西氏 豊臣氏の滅す所と為る。
遺臣挙兵す。
明年 伊達氏来討し、君、桃生郡 糠塚に闘死す。
子孫 西磐井郡 中里村に住し、世よよ郡長と為る。
歳月悠久にして遺址の湮没を恐る。
今 地主高橋氏旧族為り、乃ち相謀り一碑を建て、先世の跡を存せんと為す。
大正三年 甲寅十一月 十世孫 文學博士 大槻文彦 謹記

  • 西磐井郡 金沢村 大槻の地:現在の岩手県 一関市 花泉町 金沢。
  • 采地:知行地のこと。
  • 。かり。田畑の収穫高を表す単位。転じて、面積の単位。1刈は4坪。10万刈は40万坪で、約1.322㎢。7000刈は0.925㎢。
  • 葛西左京大夫:葛西氏(戦国大名としては)最後の当主・晴信のこと。
  • 桃生郡 糠塚:現在の石巻市 須江糠塚。大槻泰常殞命の碑がある。
  • :よよ。代々の意。
  • 湮没:跡形もなく無くなること。
  • 高橋氏旧族為り:大槻館の跡地にある屋敷に住む高橋氏は、同じく大槻泰常の子孫という伝承がある家系であり、おそらくそのことを指していると思われる。
  • 先世:せんせい。祖先のこと。または「せんぜ」と読み前世を指すことも。文彦がどちらの意味で使ったのかは不明だが、どちらにせよ意味は通る。
■ 現代語訳

陸中の国 西磐井郡 金沢かざわ村 大槻の地は、実に私(大槻文彦)の家祖・但馬守の居館跡である。
大槻泰常は葛西の支族・千葉氏の出身で、はじめ千葉四朗兵衛と名乗った。
金沢村の板倉要害に住んでいたが、のちにこの場所へ移った。
領地は10万刈。居館のそばに大きな槻の樹があったので、里の民から大槻殿と呼ばれ、それを姓にした。
天正16年(1588)、浜田広綱が主君・葛西晴信に対して反乱をおこした。
大槻泰常は、この反乱鎮圧に参加し、武功をたてた。
よって、葛西晴信は大槻泰常に7000刈を加増し、名乗りを但馬守と変えた。
天正18年(1590)、葛西氏は豊臣秀吉の奥羽仕置により滅亡した。
葛西の遺臣たちは挙兵したが、伊達氏がその鎮圧にあたり、大槻泰常も桃生郡 糠塚で戦死した。
泰常の子孫は西磐井郡 中里村に住み、代々大肝入を務めた。
時の流れとともに居館跡が埋没してしまうことを恐れ、
地主である高橋氏の協力のもとに石碑を建て、史跡の保存に努めるものである。

■ 史料情報
大槻館主・大槻泰常の子孫にして文学博士の大槻文彦が大槻館跡に建てた石碑。大正3年(1914)建立。大槻文彦は同じ時期に大槻泰常が没した地・糠塚にも石碑を建てている。

06.現代の資料

■ 紫桃正隆 『仙台領古城・館』
第1巻, 宝文堂, 昭和47年(1972), pp.395-401

宮城県の郷土史家・紫桃正隆氏の記した旧仙台藩領の城郭事典。飯倉館、大槻館についての記述がある。まだ著作権の切れていない本なので文章の丸写しは避けるが、飯倉城の概略図だけ転載させていただく。

大槻館については、現在は平地になっているが「昔はそれでも高さ三米ぐらいの丘であったと言う」という証言が載っている。また、飯倉城について、本丸跡にある八幡神社が江戸時代に大槻館から遷されたものだとの伝承が紹介されており、江戸時代にも二つの城館につながりがあったことがわかる。

■ 沼館愛三 『伊達諸城の研究』
伊吉書院, 昭和56年(1981), pp.279, 280

元陸軍士官の城郭研究家が著した本で、飯倉城、大槻館についての記述がある。しかし、飯倉城について「南方有間川の低地に臨み清水の花泉舘は指呼の間にあり、北方は尾根続きとなっている」とあるのだが、飯倉城から見て南方の有間川は約2キロ、清水の花泉館(清水城)は3キロの距離にあり、どうも位置情報が一致しない。大槻館についても「舘は大槻部落の北側台地で、比高約20米」、「三方低地に囲まれ、西北は飯倉舘に続いている」とあり、どうやらどちらも場所を誤認している様に思われる。どう見ても比高20メートルもないし、台地ではなく平地である。

また、「平泉或は一の関の属城として(中略)前進陣地としては適当である」との指摘があるが、戦国時代の平泉、あるいは一関にそこまでの戦略的価値はなかった。平泉の黄金時代は平安時代で、一関の発展は江戸時代になってからである。大槻館に支城としての性格があったとすれば、付近に点在した同族・寺崎一族の楊生城・清水城・金沢城に対するものであっただろう。

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