2017年12月27日水曜日

分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族- 【悲運の一族・飯坂氏シリーズ⑤】

この回では、飯坂氏の分家である下飯坂氏について触れる。実は飯坂氏は江戸時代の初期に断絶しているのだが、この下飯坂氏は明治以後も存続した家系で、今も御子孫の方々がどこかにいらっしゃるのではないかと思われる。

前回の記事がそうだったように、断絶した飯坂氏の事跡をたどれるのも、この下飯坂氏の記録に負うところも大きい。


■ 下飯坂氏の誕生

下飯坂氏の祖は、下飯坂豊房という人物で、この人は飯坂氏第9代当主・飯坂重明/重朝の弟である。

当時の伊達家11代当主・伊達持宗は、篠川・稲村御所を襲撃するなど、鎌倉府の足利持氏と対立していた。鎌倉府は二本松の畠山氏に命じて伊達方の大仏城(後の杉目城・福島城)を落とすが、伊達持氏を完全に討伐することはできなかった。これを伊達松犬丸の乱という。

豊房は、伊達持宗を助けてこの乱に参戦、その恩賞によって信夫郡 余目荘・下飯坂・佐葉野・宮代などの土地を与えられ、下飯坂村に移った。以後、彼は「下飯坂」を姓として分家する。

また彼は応永24年(1417)9月、京都で将軍・足利義持の拝謁を受けている。

永享11年(1439)9月28日、68歳で卒なので逆算すると1371年の生まれ。妻は瀬上因幡宗康の娘である。以下、下飯坂家の当主を列挙する。


2代 宗房
九郎、内蔵助。文正元年(1466)12月13日、70歳で没。逆算すると1396年の生まれ。「宗」は伊達持宗からの偏諱だという。

3代 隆房
孫八郎、右馬助。文明7年(1475)6月14日、51歳で没。逆算すると1424年の生まれ。会津において戦死したという。妻は石田民部定信の女。

4代 長房
平八郎、右馬助、摂津。永正4年(1507)5月15日、62歳で没。逆算すると1445年の生まれ。妻は阪本周防敦長の女。

5代 長清
孫八郎、右馬助。大永5年(1525)9月8日、51歳で没。逆算すると1474年の生まれ。相馬との闘いで戦死したという。妻は富塚大炊助資長の女。

6代 長国/宗長
藤三郎、大蔵、弾正、紀伊。永禄元年(1558)2月10日、60歳で没。逆算すると1498年の生まれ。はじめ長国と称したが、伊達稙宗からの偏諱で「宗長」に改名したという。

7代 宗冬
源兵衛、右馬助、紀伊。詳細は伝わらないが、弟の助冬が家を継いでいるので早世したのかもしれない。


■ 留守氏の与力に

転機となったのは、8代・助冬の時代である。

この人は伊達稙宗に命じられ、留守景宗の補佐として、宮城郡の高森(岩切城)へと移った。

留守景宗とは、伊達稙宗の弟で、留守氏に入嗣した人物である。留守氏は伊達の近隣大名で、当時家中は伊達派と大崎派に別れていた。そういう事情から、留守家中における伊達派勢力のテコ入れが必要であり、当主・景宗の与力として下飯坂助冬が派遣された。

留守氏系図。
郡宗、景宗、政景と3度にわたって伊達氏出身の人物が養子として家を継いでいる。

留守家中の伊達派・大崎派の抗争は続くが、伊達政宗の叔父にあたる留守政景が再度伊達家から入嗣し、大崎派を一掃したことで、完全に伊達傘下の大名となる。下飯坂助冬は系図に「留守安房守景宗君・同上野介政景両君補佐」とあるので、こういった留守政景の入嗣にたいする反発(村岡氏、佐藤氏らの反乱など)とその鎮圧や、留守政景の戦闘行動にも従軍していたことだろう。

以上は「下飯坂系図」による情報だが、『水沢市史』によれば
永禄年中留守顕宗が家臣村岡大膳らの反乱で窮地に陥った時、伊達晴宗から加勢として派遣された。永禄10年政景の留守入嗣御も助冬はその後見役となり、そのまま留守家臣になってしまった。(『水沢市史2 中世』昭和51年)
とあり、伊達稙宗に命じられ、留守景宗の時代に派遣されたとする系図の情報とは食い違いがある。

助冬は別名として源三、壱岐の名が伝わる。慶長6年(1601)3月22日、79歳で没。逆算すると1522年の生まれ。戦国時代のど真ん中を生きた人生である。


■ 水沢伊達氏 家老としての下飯坂氏

留守氏は、村岡氏の反乱を鎮圧した後で利府城へ本拠地を移転。奥州仕置後は数度にわたる転封の果てに水沢の領主として定着し、伊達の名乗りを許されたことで水沢伊達氏と呼ばれるようになる。下飯坂氏もこれに従って、以後水沢伊達氏の家老として、江戸時代以降は水沢に居住した。

助冬の子・常冬(源藏、内蔵助、大蔵)は留守政景・伊達政宗に従って朝鮮出兵(文禄の役)にも出陣。「家老嫡子 下飯坂内蔵介」として陣触れの記録に名がみえるので、父・助冬の代理で出陣したのだろう。

また、最上陣(慶長出羽合戦)の出陣記録に見える「下飯坂大内蔵」もおそらくこの常冬のことだと思われる。常冬の妹は同じく留守家中の笠神監物茂延に嫁ぎ、その子(つまり常冬の甥)である寛冬が下飯坂家を継いだ。


下飯坂氏は飯坂氏の分家筋である。しかし、室町時代中期からは少なくとも下飯坂一族の方が伊達家内部で重用されているような印象をうける。また、飯坂本家が江戸時代初期に断絶したのに比べ、下飯坂氏は伊達家内部における序列ナンバー3(一門第3席)・水沢伊達家2万石の家老として家名を存続させた。

本項のサブタイトルを「ある意味本家よりも繁栄した一族」とした由縁である。


■ 悲運の一族・飯坂氏シリーズ一覧

飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家-
こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学- 
飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】
鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる- 
⑤分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族- ← 今ココ
┗【資料集】中世の飯坂氏
⑥飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク-
⑦飯坂宗康と戦国時代 -その功罪-
【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
┗【資料集】飯坂宗清
┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表




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