2017年11月28日火曜日

飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【悲運の一族・飯坂氏シリーズ③】【資料集付】

奥州合戦後に佐藤一族の領地であった飯坂にやってきた伊達為家。彼が居館としたのは佐藤基治の拠点・大鳥城ではなく、古館と呼ばれる城館だった。

■ 飯坂城(古館、湯山城)と大鳥城

これは地元でも混同されているのだが、佐藤一族の城である大鳥城と飯坂一族が居館とした飯坂城(=古館、湯山城)は別物である。おそらく地元の人に「飯坂城ってどこですか?」と聞くと誤って大鳥城を案内されることになるだろう。


混同されやすい両者を比較してみよう。まったくの別物であることがわかる。

比較① 規模

上の写真を見てもらえば一目瞭然かと思うが、大鳥城は現在「館の山公園」として整備されている一帯で、比高120メートル級の大規模な山城である。一方の飯坂城は温泉街中心の小高い山で、せいぜい比高15メートルの丘だ。


比較② 位置と実態
大鳥城が温泉街の中心街からすこし離れた場所に要塞として居座っているのに対して、飯坂城は温泉街の中心、一番有名な鯖湖さばこ湯からわずか130メートルの距離にある一等地に位置している。古館という名が示す通り、軍事施設としての「城」というよりは領地支配のための「居館」がその実態に近かったはずだ。


比較③ 遺構と現状
なお、大鳥城には曲輪や土塁と思われる設備が今でも見受けられるのに対し、飯坂城には遺構と呼べるものはまったく残っていない。現在は温泉街と住宅地、公共施設に飲み込まれ、「古館公園」として整備された一画に案内板が立つのみである。

...あるいは、これだけ大規模な要塞である大鳥城を破棄するのも単純に「もったいない」気もするので、平時は飯坂城、戦時には大鳥城にこもる、といった運用の想定もあったかもしれない。が、奥州合戦以降、飯坂が戦場となった記録はないので、証明は難しい。


■ 飯坂城の様子を伝えるもの

飯坂城の様子を伝える資料がないかいくつか探してみたのだが、びっくりするほど見つからない。前述のとおり、城というよりも居館が実態に近かったと思われること、住宅や公共施設用地として利用されたことから、遺構もまったくと言っていいほど残っていないし、発掘調査が行われたことがあったかどうかすらわからなかった。

それでも、飯坂城について触れた資料をいくつか集めてはみたので、興味のある方はページの末尾をご覧いただきたい。


近代以降はこの地の用途は割とはっきりしており、小学校、郵便局、電話局、警察署、消防署を経て現在は古館公園として整備されている。


■ 飯坂城のあわただしい正月 -飯坂城と政宗-

まともな記録のない飯坂城について唯一、確かなのは天正19年に伊達政宗が訪問している、ということだ。これは伊達家の正史である『貞山公治家記録』に記載があるのでそのまま引用してみよう。

〇此年 公、信夫郡飯坂城ニ於テ御越年。
(『貞山公治家記録』巻之十五 巻末) 
天正十九年辛卯 公御年二十五
正月庚寅大元日戊戌。御旅館信夫郡飯坂城ニ於テ御祝儀アリ。
(略)
〇九日丙午。飯坂ヨリ米澤ニ御歸城。

(『貞山公治家記録』巻之十六 冒頭)

というわけで、天正18年(1590)~同19年(1591)の年末年始を、政宗は飯坂城で過ごしている。正月とはいえ、この時期の政宗はなかなか忙しい。天正18年(1590)は葛西・大崎一揆が勃発した年で、政宗はこの鎮圧に向かうも蒲生氏郷から一揆の扇動を疑われてしまう。

秀吉への弁明のため、正月晦日(1月30日)には米沢を出発、翌閏正月26日には尾張 清州城で関白・秀吉と対面している。有名な黄金の十字架を背負って入京するシーンはこの直後である。

説明黄金の十字架を背負い、葛西大崎一揆扇動疑惑の釈明をしに上洛する政宗。
実際にはこれに先駆けて清州城で秀吉との面会を済ませている。ザ・パフォーマンス。

そういう経緯なので、正月でありながら政宗の心にはあまり安らぎはなかったかもしれない。普段であれば「誰々、挨拶に参上」といったような記述が並び、ゆっくりと家臣団の謁見をするのが常の正月なのだが、そういった記述も見当たらないし、正月7日には浅野長政との会議のため二本松まで日帰り出張をしたりと、かなり慌ただしい。

とはいえ、せっかく飯坂で年越ししているのだから、温泉にひたって汗を流すシーンくらいなら、想像したとしても実像とそうかけ離れてはいないだろう。


■ 初代・為家の晩年

さて、第2回、第3回と続けて飯坂の地理ネタにお付き合いいただいたわけであるが、話を飯坂氏の歴代当主に戻したいと思う。まずはこの記事のテーマ・飯坂城を建てた初代・伊達為家の晩年から。

この人は第1回でも触れた通り、建暦2年(1212)6月7日、「御所侍所に宿直し、荻生右馬允と私闘」したことで佐渡に流されたり、承久元年(1219)には鎌倉で3代将軍・源実朝に拝謁するなど、いろいろと派手に動いている痕跡はみえるのだが、飯坂での活動の実態があったのかどうかについては定かではない。

伊達氏と同じく奥州合戦の功労で奥州に所領を得、「奥州総奉行」となった葛西清重(伊達のお隣さん大名・葛西氏の祖)ですら、実際の活動はほぼ鎌倉で、奥州の所領には代官を送って統治していたのではないかと言われる。

あるいは為家も、鎌倉に常駐して御家人として仕えていたのかもしれないが、少なくとも晩年に飯坂城に住み、この地で没したのは確かなようだ。「藤原姓下飯坂氏系図」によれば建長4年(1252)7月26日に没している。享年78歳、大往生である。


■ 付録・飯坂城に関する資料集
01.『貞山公治家記録』
上記に掲載。伊達家の公式記録で元禄16年(1703)成立。天正18年末~19年初頭に伊達政宗が飯坂城に滞在していたことがわかる。文章は『仙台藩史料大成 伊達治家記録二』(宝文堂、昭和48年(1973))に拠った。


02.『信達一統記』
上飯坂邨
飯坂
町の東に在り小さき坂なり、熊野宮の前坂にて南向也、愚按ずるに昔飯坂右近將監宗貞此地に居住し給へる故に飯坂と云え又邨名も飯坂と云ふなるべし、古は佐波子邨と云へしが溫泉も佐波子邨に在る故に佐波子の湯と云へしなるべし、昔飯坂殿盛なりしときならむ、實に古き溫泉なり、東鑑に佐藤基治を湯の庄司とも書り
(信夫郡之部、巻之五)

天保12年(1841)に村役人・志田正徳が著述した風土記。居館については記述がないが、この項目「飯坂」の丘そのものが飯坂城の場所に当たる。飯坂氏が住んでいたから飯坂の地名になった、という記述だが実際には逆で、飯坂の地名を苗字として名乗ったのが飯坂氏である。文章は『福島縣史料集成第一輯』(福島縣史料集成刊行會、昭和27年(1952)、p473)に拠った。


03.『飯坂湯野温泉史』

古舘址 字古館にあり、現時飯坂(尋常脱)高等小学校舎の在る所にして、築造の年代考ふ可らざるも、永禄年間(一五五八-七〇)飯坂右近将監宗康之に居る、宗康後に伊達政宗に属し、仙台に移住すといふ。

飯坂出身の民間人・中野吉平による飯坂の地理書。念頭には『信達一統記』の改定があったという。大正13年(1924)発行。宗康は政宗の岩出山移封、仙台築城前に亡くなっているので「仙台に移住」は誤り。この年代、用地が小学校として使われていたことは下記案内板と一致する。文章は『福島市史資料叢書 第74輯』(福島市史編纂委員会、1999)に拠った。


04.現地案内板


クリックで拡大可。斜めで申し訳ないが、十数年後にはインクが剥げてそうな看板なので、記録の意味を込めて画像で掲載する。平成16年(2004)、飯坂町史跡保存会により設置。筆者の幼少時の記憶では、確かに以前、ここに消防署があった。


■ 悲運の一族・飯坂氏シリーズ一覧

飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家-
こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学- 
飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】← 今ココ
鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる-
分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族-
┗【資料集】中世の飯坂氏
⑥飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク-
⑦飯坂宗康と戦国時代 -その功罪-
【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
┗【資料集】飯坂宗清
┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表

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