2017年11月23日木曜日

こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学- 【悲運の一族・飯坂氏シリーズ②】

さて、奥州合戦ののち、飯坂にやってきた伊達為家。彼の4代目の子孫である政信の時代に「飯坂」を名乗るようになり、飯坂氏の歴史が始まるのだが、そのファミリーヒストリーに触れる前にそもそも為家が居住した飯坂なる場所がどんなところなのかについて触れておこうと思う。

戦国時代の終盤以降、飯坂一族は飯坂の地を離れることになるのだが、それまでの約400年弱、彼らは飯坂の地で暮らしたのだし、その地名を家名として冠したわけである。やはり一族の歴史に詳しく入り込むまえに、飯坂という地について一度きちんと理解しておきたい。


■ その位置

まず飯坂の位置だが、現在の自治体名で言うと福島県 福島市、旧国名で言うと陸奥国 伊達郡、信夫郡にまたがった地域になる。


福島県の県庁所在地である福島市の中心街から約20分の距離にあり、東北自動車道を通行中に飯坂インターの名を目にした方もいるだろう。また、JR福島駅からは鉄道・福島交通飯坂線に乗り換えて終点が飯坂温泉駅となる。

※なお、飯坂地域はおおざっぱにわけると摺上川を境にして東の湯野地区、西の飯坂地区に分けられる。中世の郡分けでいえば、東部・湯野が伊達郡、西部・飯坂が信夫郡に属した。飯坂の地理については信夫郡飯坂だったり伊達郡飯坂だったりと混在しているが、これが原因だと思われる。

■ 奥州最古の温泉地帯♨

そして飯坂といえば、第一に飯坂温泉である。

写真は飯坂のシンボルのひとつ、十綱(とつな)橋摺上川を挟んで多くの温泉旅館が軒を連ねる。余談ではあるが、この川は「すりかみ川」と読む。伊達氏の歴史に詳しい方なら、「摺上」と聞くと政宗の人生のハイライトのひとつ・摺上原の戦いを連想するだろう。こちらは「すりあげ原の戦い」と読む。筆者は摺上=すりかみと読む環境に生まれたせいか、つい最近まで「すりかみ原の戦い」だと思い込んでいた。

その歴史は古く、飯坂温泉オフィシャルサイトの説明によれば
2世紀頃、日本武尊が東夷東征の際、病にかかり、”佐波子湯”に浸かった所たちまち元気になった。とされています。飯坂温泉の歴史
という。古代にヤマトタケルの東国遠征隊が本当にここんな奥地までやってきたのか? とはツッコミたくなるところである。湯治ツーリズムが流行した江戸時代あたりにコマーシャルトークとして誰かが言い出したのではないかという気がするし、せめて「征夷大将軍・坂上田村麻呂も蝦夷征討のときにたち寄って入浴した」くらいなら信じられなくもないのだが、実際のところはよくわからない。



しかし、少なくとも平安時代末期には後述する佐藤基治が「湯の庄司」と呼ばれているので、古くから温泉地として知られた土地柄であるのは間違いない。

湯の庄司=佐藤基治と断定していいかどうかについては異論もあるだろうが、少なくとも平安時代末期には飯坂が「湯の庄」として認知され、それを「司」る地方豪族がいたことは確かだ。

江戸時代には松尾芭蕉も奥の細道の道中、飯坂温泉を訪れており、他に「正岡子規、与謝野晶子、ヘレン・ケラーも入った湯」という説明は飯坂でよく聞く。

飯坂温泉で一番有名な鯖湖湯(さばこゆ、写真はこちらから拝借)。
ヤマトタケルの時代? かどうかはさておき、古くは「佐波子湯」と表記。

なお、秋保温泉(宮城県仙台市)、鳴子温泉(宮城県大崎市)と並んで奥州三名湯に数えられている。「奥州」という割には3つとも場所が南東北に偏っている気もするが、多賀城が陸奥国の北限だった時代からの呼称と考えれば納得がいく。

■ 佐藤一族の拠点

さて、地元飯坂でも飯坂氏についてはあまりフィーチャーされないことが多いのだが、その反面、飯坂が観光資源として推している歴史的有名人といえば佐藤兄弟、すなわち佐藤継信・忠信であろう。飯坂ではいまだにタッキーこと滝沢秀明が義経を演じたNHK大河『義経』(2005年)ののぼりが目につく。あとあんま関係ないけど『八重の桜』も。

チャンネル銀河 大河ドラマ『義経』のページより拝借

佐藤継信・忠信は義経主従として有名で、奥州藤原氏傘下、佐藤基治の息子である。藤原秀衡の命により義経の下に参じ、名臣の誉れが高い。飯坂はそんな継信・忠信兄弟の父・佐藤基治の拠点である。

佐藤基治は飯坂の大鳥城主で、奥州合戦の緒戦・石那坂の戦いで源氏軍に敗れているのだが、息子たちが義経の幕下にいたこと、拠点の飯坂近くの石那坂、あるいは阿津賀志山が戦場になっていることから考えても、平泉=奥州藤原軍の主戦派として戦ったことは間違いない。

石那坂の場所ははっきりとはしないものの、
比定地のひとつが福島市 平石 原高屋にある。

なお、その佐藤基治を石那坂の戦いで打ち破ったのが、伊達家の初代・朝宗(に比定される常陸入道念西)と為家を含む4人の息子たちであった。飯坂は、伊達氏の発祥にも多少なり関係がある土地、ということになる。

というわけで、飯坂氏の祖となる伊達為家が入封した飯坂という土地は、関東からやってきた伊達氏にとっては敵方の最重要拠点であり、そこを抑える役目を授かった為家への期待も大きかったのではないかと推測できる。

ちなみに、飯坂地域にはいまだに佐藤姓の家が多く、佐藤兄弟、松尾芭蕉に続く地元の有名人(?)・佐藤B作もその一例だ。


■ 置賜=信達ルートの入り口

飯坂の地理についてもう少し考察してみたい。奥州合戦での活躍の褒賞として伊達郡に新たな土地を得た伊達氏はその支配領域を徐々に広げ、いつのことかははっきりわからないが、近隣の信夫しのぶも支配下に収めた。

上記の地図右側に、斜めに横たわったひょうたん形の盆地があるのがわかるだろうか? だいたいひょうたんの上半分が伊達郡、下半分が信夫郡のイメージで、二つ合わせて信達しんたつ地方あるいは福島盆地などと呼ぶ。

さらに伊達氏は拡大をつづけ、9代・伊達政宗(戦国時代の独眼竜・政宗ではなく南北朝時代の大膳大夫・政宗)の時代には置賜地方(山形県 米沢市周辺)をその支配下におさめた。元来の本拠地である伊達郡と置賜郡は奥羽山脈で隔たれているため、となればその回廊コリドール、つまり連絡通路が重要になってくる。

通常、置賜(米沢)~信達(福島)間の往来に使えるルートは、今も昔も変わらず、ほぼ3通りで

  1. 栗子峠(国道13号):急な山道で有名。明治時代に土木マニアの鬼県令・三島通庸の工事強行によりようやく栗子隧道が開通。つい最近(2017.11.04)高速・東北中央自動車道と東北最長のトンネル開通が話題となったばかり。
  2. 鳩峰峠(国道399号):舗装がはがれたり積雪・土砂崩れなどによる通行止めも頻発する「酷道」として一部マニアには有名なルート。走行中、猿に遭遇することも。
  3. 二井宿峠(国道113号、七ヶ宿街道):他の2つと比べて一番ゆるやかな道だが、福島=米沢間交通としてはかなり大回りになる。江戸時代には、日本海側の大名たちの参勤交代ルートとして用いられた。

である。置賜の拠点は米澤だが、信達側の伊達の拠点は時代とともに少しずつ移動する。ここでは地図上に伊達の本拠地として高子岡城、梁川城、桑折西山城をポインティングし、他に伊達晴宗の隠居城である杉目城(大仏城、福島城)、伊達成実の居城で政宗も前線基地として何度か滞在した大森城も落とし込んでみた。

そして、それらと置賜を結んでみると



上記の様になる。実際には現在の車道ルートと当時の往来には齟齬もあるだろうが、おおまかな道筋は一緒だ。すると、特に栗子峠(R13)と鳩峰峠(R399)は飯坂がその出入口になっていることがわかる。しかも、険しい山道を降りてくるとそこにあるのは古くから栄えた温泉である。これはひとっ風呂あびていくしかない。

というわけで伊達氏にとって飯坂とは、交通の要衝としての戦略的価値もそれなりにあっただろうと思われる。

その裏付けになるかどうかはさておき、天文22年(1553)に作成された「晴宗公采地下賜録」からは伊達の重臣・中野宗時が飯坂に一部所領を持っていたことがわかる。中野宗時といえば、晴宗・輝宗に仕え、一時は伊達家当主をも凌ぐほどの権勢を誇った人物だ。中野は天文の乱の後、晴宗による家臣団とその所領の再編・整理にかかわっているので、自ら望んで飯坂の土地を得た可能性も考えられる。

以上、交通の観点から飯坂というロケーションについて考察してみた。

しかしながら、栗子峠、鳩峰峠が中世にどれだけ利用されていたかについての実態については具体的な資料をみつけることができておらず、上記内容については我ながら根拠の裏付けが弱い、とも書いていて思った次第。筆者は峠大好き人間でもあるので、引き続き調査を進めたい。


■ 飯坂の地理的要素まとめ

というわけで、飯坂の紹介として3つのポイントを挙げてみた。
  1. 古くからの温泉地帯:古代から人が集まるロケーションだった
  2. 佐藤一族の拠点:進駐軍としてやってきた伊達氏にとっては、必ず押さえないといけない旧敵の根拠地
  3. 米沢=福島間交通の要:奥州山脈を越える峠道の入り口で、人・軍・物資・情報の往来が盛んだったことが想像される
3点目はカッコつきのポイントではあるものの飯坂という土地がどんな場所であるかについてはお分かりいただけたと思う。これらを理解していただいた上で、次回からは本格的に飯坂氏の群像にスポットを当てていこうと思う。

■ 悲運の一族・飯坂氏シリーズ一覧

飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家-
②こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学- ← 今ココ
飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】
鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる-
分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族-
┗【資料集】中世の飯坂氏
⑥飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク-
⑦飯坂宗康と戦国時代 -その功罪-
【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
┗【資料集】飯坂宗清
┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表

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