2017年11月20日月曜日

飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家- 【悲運の一族・飯坂氏シリーズ①】

■はじめに

これから数回にわけて伊達氏の庶流である飯坂氏について触れたいと思う。

飯坂氏と言えば伊達政宗の側室となった飯坂御前(飯坂の局、松森御前、吉岡御前とも)や政宗の第3子で飯坂家を継いだ飯坂宗清(伊達宗清とも)あたりが有名と言えば有名になるのだろうが、あまりメジャーな一族であるとは言えない。

飯坂氏の中でも、筆者が一番興味を持った飯坂宗康という戦国時代の武将についてTwitter上で知名度調査をしたことがあるのだが


という結果に終わった。母数は99票(おしい!)。筆者のこのTweetに反応してくれている時点で、仙台や伊達家の歴史に興味をもっている方が相当数のはずである。それでも、半数以上が知らない。飯坂の局の父親、と言えば多少なりピンとくる方が約3割。ストレートな認知度は約2割である。

なぜそんなマイナー一族にスポットを当てようかと思ったかと言えば、まず筆者が飯坂(福島県 福島市 飯坂町)の生まれであり、どことなく「地元の殿様」感があって親しみを覚えることが大きい。

とはいっても、地元の飯坂ですら、飯坂氏なる一族がいたことはあまり知られていないように思う。

飯坂の有名人と言えば、義経主従として知られる佐藤継信・忠信兄弟、『奥の細道』の道中飯坂温泉にも滞在した松尾芭蕉、そして俳優・佐藤B作である。ちなみに筆者の祖母も母も、飯坂氏という地元豪族の存在は知らなかった。

猫御前@秋吉久美子 NHK大河『独眼竜政宗』より
詳細は別項で述べるが、飯坂の局と新造の方をあわせた
空気読めない設定の架空のキャラクターである。
地元でもあまり知られていない飯坂氏だが、その知名度に反比例して、不明点が多い。わからないことや、事実が混同されていることが実に多く、飯坂御前と新造の方を同一人物として扱い、飯坂御前=宇和島藩祖・伊達秀宗の生母とするような言説はその最たるものだろう。

詳しくは別記事で触れるが、本シリーズでは飯坂御前は伊達秀宗の生母とは別人である、と断定するに至った。

さらに後述するように、飯坂氏は仙台藩主・伊達家の庶流でありながら江戸時代初期に断絶したこともあってか、後世に伝わりきっていない情報も多い。

このシリーズでは、飯坂氏について何がわかって、何がわかっていないのかの整理をしつつ、わかっていない点については自分なりの推論を交えた上で、一族の発祥からその断絶までを通史的に描いてみることを目的に筆を進めていこうと思う。


■その起源

伊達氏の庶流・派生支族
宮城が誇るサンドウィッチマン
伊達みきおが大條氏(明治時代に
伊達に復姓)の末裔なのは有名な話。
飯坂氏の祖が誰なのかについては、はっきりしている。伊達為家なる人物がそれである。

これについては飯坂氏の旧臣が書いたと言われる『飯坂盛衰記』及び仙台藩の家臣録である『伊達世臣家譜略記』共に記録が一致している。飯坂氏の分家である、下飯坂家に伝わる系図でも同様だ。

伊達為家は、伊達氏初代・伊達朝宗の第4子である。伊達氏には政宗以前に枝分かれした支族として桑折氏、瀬上氏、大條氏、小梁川氏などがあるが、伊達氏初代の息子を祖とする一族ということで、飯坂氏は伊達支族の中でも最古の部類に入ることになる。

そもそも伊達氏初代・伊達朝宗ともむねといえば、源頼朝の挙兵に参加した関東の豪族である。源頼朝が鎌倉幕府をひらいたのち、鎌倉=源氏政権と平泉=奥州藤原政権が激突した奥州合戦で活躍し、その緒戦である石那坂の戦いでは、平泉方の武将である佐藤基治を破った。

その功績から戦後朝宗は伊達郡を与えられ、以後伊達氏を名乗るようになる。

石那坂の位置ははっきりしないが
候補地のひとつに碑文が残る
もっとも、伊達氏の発祥については、石那坂の戦いでの活躍が伝わる常陸入道念西を伊達朝宗に比定し、同一人物とする説が一般的であるが異説もある。佐藤一族についてもいろいろ検討は必要なのだが、この時代については筆者の勉強が追い付いていないため、あまり深く突っ込まずにスルーさせていただくのを容赦いただきたい。

そのうち興味がわいたら詳しく調べて加筆したいと思う。


■ 飯坂氏初代・為家

飯坂氏の祖である為家も、父である朝宗や兄弟たちとともに奥州合戦を戦い抜き、戦後この地にやってきた様だ。『大鳥城記』によればはじめ伊達郡の半田に住み(※)、のちに古館の地に移ったとされる。
※『大鳥城記』(菅野円蔵、1970)に「四番目の伊達四郎蔵人右衛門尉為家は、最初伊達郡半田に住んだが、後信夫郡飯坂の古館に居住し飯坂氏の元祖となった」とある。他の資料で為家が半田に住んだという記述を今のところ筆者は発見に至っておらず、出典は不明。要追加調査。


古館、とは飯坂に今も残る地名で、飯坂温泉街を見下ろせる小高い丘になっている地点だ。飯坂氏が城館を設けたことから、このような地名が定着したと思われる。また、飯坂氏が本拠地とした城館は飯坂城湯山城の名でも呼ばれる。

為家の人生の詳細についてだが、筆者の勉強不足によりあまり詳しくは触れられず申し訳ない。同時代の資料ではないが『伊達略系』と『仙台人名大辞書』から引用して少しだけ紹介したい。

爲家君
左衛門蔵人。石那坂役被創有
功。建歴二年六月七日。宿直于御所侍所。興荻生右馬允闘争。坐配于佐渡後召還。(『伊達略系』作並清亮、明治27年(1894))

ダテ・タメイエ【伊達爲家】 朝宗公子。常陸四郎と稱す、右衛門尉蔵人に叙す、建久年中源頼朝に使へて随兵となる、建暦二年六月七日御所侍所に宿直し、荻生右馬允と私闘するに坐して佐渡に流さる、後ち召し還さる、承久元年将軍源實朝鶴岡に詣す、為家供奉となる、伊達郡飯坂城を賜はり、同地にて卒す、墓は飯坂天王寺境内大作山頂峰にあり△子伊達彦四郎家政△子小太郎宗政△子伊賀守政信、飯坂を以て稱號となす、之を伊達氏の一家飯坂氏の祖となす。(『仙台人名大辞書』菊田定郷、昭和8年(1933)、p675)

石那坂の戦いで負傷したり、御所の侍所で私闘を演じて佐渡に流されるなど、なかなか荒っぽい人生を送った様だ。後に奥州藤原政権の主戦派である佐藤氏の拠点であった飯坂の統治を任されたのも、こういった彼の武闘派な経歴を買われてのことだったのかもしれない。

『仙台人名大辞書』にもあるとおり、為家はあくまで「伊達」為家で「飯坂」の姓を名乗るようになるのは4代目・政信以降の話なのだが、どの資料もこの伊達為家を飯坂氏の祖とし、初代として数えているのは共通している。

ここから飯坂氏の歴史がはじまる。


■ これから書く予定の項目

さて、おそらく飯坂氏についてまとめようとしたとき、記事量でいうと20本前後の記事が必要になるかと思われる。現状、公開済みの記事3本+用意済みの原稿が3本程度あるのだが、だいたいどんな内容になるのか、自分に対する構想メモの意味も含めてあらかじめ示しておきたい。あくまで予定なので、増えるかもしれないし、統合もあるかもしれない。

①飯坂氏シリーズはじめました ← 今まだココ
こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学-
飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】
鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる-
分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族-
┗【資料集】中世の飯坂氏
⑥飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク-
⑦飯坂宗康と戦国時代 -その功罪-
【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
┗【資料集】飯坂宗清
┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表

...うーむ。これだけの大風呂敷を広げるのもなんだか不安になってきた。とても全部書ききれる気がしない。とはいえ、ある程度メドはついている⑧飯坂の局の時代までは勢いに乗って書ききってしまいたい。近世の⑨飯坂宗清以降は、まだメドすらついていないので記事ができるとしても1年以上は先の話になるだろう。

連載やるやる詐欺にならないように頑張るので、過剰に期待せずに見守っていただければ幸いである。


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