2017年4月21日金曜日

御仲下改所跡(堤町)-仙台城下町の北門-

今回は、筆者の自宅から一番近いと思われる史跡を紹介。近いにも関わらず、存在に気付いたのは割と最近である。


一見、ただの木造看板である。いや、実際にこの看板以外に特に残っているものはないのだが、案内を詳しく読んでみると、ここには以前、御仲下改所なる施設が存在したというのだ。

■ 御仲所とは!?

詳しく調べてみたところ「おすあい したあらため どころ」と読むようだ。看板では「御仲下改所」の5文字に対して「おすあいどころ」とルビがふられているが、「仲」一文字で「すあい」、「下改」で「したあらため」である。

案内板の図。当時の姿をどれだけ反映しているかは
不明だが、街道沿いの雰囲気が伝わってくる。

一番わかりにくい「仲すあい」の意味だが『仙台藩歴史用語辞典』によれば、
すあいやく・すあいどころ 〔仲役・仲銭・仲所〕
「すあい」は仲介者、仲介料のこと。為間銭ともいう。他領および領内に移出入商品に課された取引税(仲役)を仲所で徴収した。...
とある。要は昔の税関みたいな施設である。人ではなく物流に対するチェックポイントであるから、厳密には番所(仙台藩では関所のことを番所と呼ぶ)とは異なるようだが、ここが仙台城下町の北の入り口ととらえてよさそうだ。

■ 奥州街道と台原丘陵

この御仲下改所跡の看板がある場所は大通りからは一本ずれた場所に設置されているが、じつはこの看板の前の細い道こそが、旧奥州街道に相当する。


現在は太い青線の宮城県道22号(旧国道4号)が仙台駅前から直結して通っているが、このラインが開通するのは昭和時代になってからで、それまでは緑の線の奥州街道が仙台の北口だった。

1930年の地図。仙台の北側に伸びる奥州街道はまだ旧道ラインで
現在の宮城県道22号に相当する車道は開通していない。

ちなみに、もっと時代をさかのぼった江戸時代の地図(『仙台城下五釐掛絵図』、元禄4-5年(1691-92)作成と推定)を見てみると、このあたりは仙台城下町の最北端だったことがわかる。上記のふたつの地図を見てもらってもわかるが、平地の仙台城下町がここから丘陵地帯になる。このあたりの丘を台原丘陵と言い、下の地図では、まるで山の合間を抜ける隘路のような描かれ方である。


多少の誇張はありそうな気がするが、この辺りが仙台城下町の北の果てだったことは確かで、南北に延びる奥州街道が東に折れ曲がるあたりは今でも北山という地名が残っている。

話を御仲下改所に戻すと、幕末の文書では七北田・原町・五軒茶屋・案内・八幡町・中田の6ヶ所で確認できるらしい。この記事で紹介している堤町の御仲下改所はその文書に登場しないようだが、上記6ヶ所はどれも仙台の東西南北の入り口に位置している。それぞれ

  • 東:原町、案内
  • 西:八幡町
  • 南:五軒茶屋(現在の広瀬橋仙台側近辺)、中田
  • 北:七北田

の方角になるが、案内、中田、七北田は仙台城下町から離れた場所に位置する。北部方面をみると城下町の御仲所が存在せず、七北田だともう仙台の次の宿場町になってしまう。文書では確認できなくても、やはり仙台城下町の最北端・堤町に御仲所が存在していておかしくはない。

看板によれば平成13年(2001)夏まで建物が残っていたというから、比較的最近まで現存していたことになる。どこかに写真でも残っていそうなものだが、どこかで御覧になった方はいないだろうか?

ちなみに、一番初めに掲載した写真の看板は、その取り壊された御仲所の廃材を利用して建てられたものらしい。ちょいと粋なはからいである。

■参考資料
・『仙台市史 通史編4 近世2』2003年
・『仙台市史 通史編5 近世3』2004年
・『新版 仙台藩歴史用語辞典』仙台郷土研究会編、2015年
・『江戸時代の仙台を歩く - 仙台地図さんぽ』時の風編集部、2016年
・レファレンス協同データベース 登録番号1000075893

2017年4月13日木曜日

白石城(根白石) -政宗の祖母が眠るもう一つの白石城- 【史料集付】

しろいしじょう
白石城
白石城。城跡にある宇佐八幡神社の鳥居。
城郭構造
平山城
比高
約5m (ふもとの標高:約80m、本丸約75m)
残存遺構
土塁
築城
築城年
不明(室町時代以降か)
城主
白石氏
白石三河(伊達家傘下 国分家中の人物)
裁松院(伊達政宗の祖母)の居館としても利用
廃城
廃城年
不明(戦国時代末期か)
位置
住所
宮城県 仙台市 泉区 根白石 館下
現状
宇佐八幡神社、三十三観音堂
宮城県、旧仙台藩領で白石城といえば、普通刈田郡 白石市の白石城を思い浮かべるだろう。有名な片倉小十郎の城である。しかし、仙台市内にももうひとつの「白石城」があることをご存じだろうか? こちらも、伊達家とゆかりの深い古城である。

■ 白石城の歴史

まずこの白石城についてだが、地名としては仙台市 泉区の北西・根白石ねのしろいしにある白石城を指している。もともとは白石という地名だったのが、やはり藩政時代に刈田郡の白石と紛らわしいということで、泉ヶ岳のふもとという意味で「根」の字をあてて根白石という地名となった様だ。

■ 謎多き白石氏

白石城の築城時期については特に伝えるものが残っていない。しかし、この一帯は中世以降国分氏の勢力圏であり、その配下、白石氏の居城であると伝わっている(刈田郡 白石宗実の白石氏とは別系統)

城主としては白石参河の名が伝わっているが、この人物の素性がはっきりしない。

『伊達世臣家譜』によれば参河を名乗ったのは家祖・白石宗頼と2代目・宗明、4代・政安である。2代目・宗明は宗頼に子がなかったため国分能登守の弟が養子に入った人物。4代・政安はその子で、相馬との戦い(於・駒ヶ嶺)で戦死したという。

一方『宮城郡誌』では白石参河について「黒川安藝守晴氏の弟」としている。後述するが、この城跡には黒川晴氏の孫にあたる黒川季氏の墓もあるため、白石氏と黒川氏の間になんらかの縁戚関係があったのは間違いないようだ。

国分氏はこの地域を領する大名だし、黒川氏も北に隣する大名なので、白石氏がこの両家から養子をもらうことは十分にありえる。総合すると、参河の受領名を名乗った白石氏は複数存在するらしく、それが混同されたうえで「白石参河」の名が城主名として伝わっているようだ。

なお、現在白石城について書かれた最新の出版物であると思われる『仙台市史 特別編9 地域誌』では白石三河を2代目・白石宗明のことであるとしており、城跡の標柱では初代・宗頼のことであるとする。が、どちらも「白石三河」であることは確かだ。

■ 奥州一の美女の墓

もうひとつ、この白石城について特筆されるべきなのは、伊達政宗の祖母である裁松院が晩年を過ごした場所であるということだ。裁松院は久保姫(窪姫、笑窪姫)の名で知られる人物で、岩城重隆の娘である。当時、奥州一の美女とされ、当初、結城家への輿入れが決まっていたのを、政宗の祖父である伊達晴宗が強奪し、文字通りの略奪婚となった事件が有名である。

裁松院の墓
晴宗の死後は杉目城で過ごし杉目御前と呼ばれたが、天正19年(1591)の岩出山移封で杉目城が蒲生領となると、この白石城へ移って余生を過ごした。3年後の文禄3年(1594)に没するが、そのとき遺言で居館跡に宝積寺を建立したというから、このとき白石城は軍事施設としての役割を終えたのかもしれない。

墓は昔、五輪塔だったというが荒廃したため、享保17年(1732)に五代藩主の伊達吉村が新しく建て直したという。今も残るその墓が、左の写真である。

いずれにせよ、江戸時代には伊達四十八舘にもカウントされていないので、戦国時代末期から江戸時代初期のうちに廃城となり、寺として生まれ変わった様だ。なお、現在はその宝積寺も残ってはおらず、城の周辺に「宝積寺前」という地名が残っているのみである。

■ 白石城の構造

白石城の規模については『仙台領古城書上』に「東西 六十六間(120m)、南北三十間(54m)」、『宮城郡誌』には横「三十間(54m) 長五十間(90m)」とあるが、南北に図っても100m以上はあり、ほぼ方形のコンパクトな構造である。


おそらく、真東に流れる冠川と300m南方を流れる七北田川を天然の堀に見立てた築城と思われる。


南から見ると主郭部だけが比高約5mほどせり上がり、その傾斜はかなり急で、典型的な平山城といった感がある。


現在は宇佐八幡神社および裁松院の墓碑までの参道が階段として整備され直線で登れるが、本来の登城道としてはくの字型になっている車用の登坂道がそれに相当したと思われる。



北部は防風林と埋もれてわかりにくいが、1.5m程の土塁がせり上がり、そのまま比高3m程の空堀となって落ち込んでいる。


主郭部はきれいに平坦化されている。

宇佐八幡神社


裁松院の墓碑の隣に位置する三十三観音堂。天保4年(1833)に村人たちが裁松院の冥福を祈って安置したものだという。


黒川氏十一世季氏の墓」および「伊達裁松院殿臣白石三河宗頼之墓」の標柱が並ぶ。

黒川季氏は黒川晴氏の孫にあたる。黒川氏は大崎合戦で伊達政宗に背いたことで大名としては事実上滅亡したが、晴氏の養子・義康は伊達の家臣となって1000石を領した。寛永3年(1626)に義康が没すると知行は没収され、甥にあたる季氏は縁戚関係にあるこの地に隠棲して没したという。

一方の白石三河の墓だが、こちらの標柱では白石三河=初代宗頼であるとしている。かつ「伊達裁松院の臣」であるとしているので、裁松院がこの地に移ってから彼女に仕えたことを示唆しているのだが、彼女が根白石に住んだのが1591~94年であることを考えると、やはりこの時期の白石三河は宗頼ではなく2代目・宗明の方が妥当に思える。

上記の2件を総合すると、白石氏は少なくとも江戸時代初期まではこの根白石の地を領有していた様だ。


北東方面から。きれいに田園に浮かぶ島の様になっている。

■白石城に関する史料集
■『仙台領古城書上』

一 白石城 東西 六十六間
一 白石城 南北 三十間
一 白石城 城主白石三河。曾孫白津勘之助。末孫白津安太夫。今ハ寶積寺寶積寺内
仙台藩内にかつて存在した中世の城館について作成された記録。江戸幕府に提出されたもので、成立時期は延宝年間(1673~1681年)のことと言われている。出典は『仙台叢書』第4巻(大正12年(1923))所収の「仙台古城記」に拠った。

■『封内名跡志』
根の白石村寺あり。琥珀山寶積寺といふ。天正十九年。裁松院殿信夫郡杉目より此に移住し。後文禄三年甲午六月九日。遺言して居館を寺となさしむ。琥珀山寶積寺と稱す。信夫郡琥珀山寶積寺前住。能山和尚をして開山たらしむ。遺骸此に葬る墳墓今猶あり。郷人清水澤といふ。此地往昔白石参河守居館あり。是を白石の城といふ。
仙台藩の役人である佐藤信要が作成した地誌。寛保元年(1741)に完成。第七巻 宮城郡。詳しくはこちらを参照。出典は『仙台叢書 第八巻』(昭和47年(1972)、宝文堂)に拠った。

■『封内風土記』
古壘凡ニ。其一。號白石城。傳云白石参河諱不レ知。所居也。今爲八幡社地。及寶積寺地。名跡志曰。天正十九年。裁松院殿當家十五世晴宗君夫人。磐城左京太夫平重隆朝臣女。信夫郡杉住于此。文祿三年甲午六月九日卒。遺言令居舘爲一レ寺。號琥珀山實積寺。以信夫郡杉目琥珀山寶積寺前住能山和尚開山。葬遺骸于此。墳墓今猶在焉。土人曰之清水澤
仙台藩の儒学者・田村希文が安永元年(1772)に完成させた地誌。宮城郡 根白石邑の項目。詳しくはこちらを参照。出典は『仙台叢書 封内風土記』の国会図書館デジタルコレクション版に拠った。

■『伊達世臣家譜』
白津初稱白石、姓藤原、未出自、以白石参河宗頼祖、食釆于宮城郡根白石邑、因氏焉、宗頼不幸無子、養国分能登守某弟以爲嗣、稱参河宗明、宗明子縫殿助頼重、永禄中戦死於南宮宮城郡之役、時年二十三、頼重亦無子、以弟爲嗣、稱参河政安、貞山公時戦死於駒峰宇多郡之役...
伊達家に仕える藩士の家臣録で、寛政4年(1792)頃に成立したもの。巻之九、召出二番座 第9席、白津氏の項。白石氏は後に白津氏に改姓している。記録はまだ続くが、参河の受領名をもつ当主について抜き出した。出典は『仙台叢書 伊達世臣家譜 第一巻』(昭和50年(1975)、宝文堂)に拠った。

■『宮城郡誌』
【白石城址】黒川安藝守晴氏の弟、白石参河守の居城。横三十間長五十間、周圍に幅二間深さ丈餘の溝址あり、今は畑地となる。根白石村々社白幡山八幡神社の傍らに在り。
白石三河を黒川晴氏の弟とする唯一の資料。昭和47年出版。

■上記以外の参考資料
・沼舘愛三『伊達諸城の研究』1981年、伊吉書院
・紫桃正隆『みやぎの戦国時代 合戦と群雄』1993年、宝文堂
『仙台市史 特別編7 城館』2006年
『仙台市史 特別編9 地域誌』2014年

2017年2月13日月曜日

藩主から学ぶ仙台藩の歴史01 -歴代藩主 在位表-

最近、良い出会いがあった。歴史好きが集まるようなコミュニティに顔を出していると、どうしても自分より上の世代の知り合いが増えがちなのだが、彼は珍しく自分より年下の20代だった。福島生まれということもあり、もともと伊達政宗が大好きだったというが、現在旧伊達邸の鐘景閣という料亭で働いている関係もあって、明治以降の伊達家の歴史にとても造詣が深い。

彼と話していて、長い伊達家・仙台藩、あるいは廃藩置県後の仙台の歴史の中で、どうも自分の勉強が戦国時代や仙台藩創成期、幕末に偏りがちなことに気付かされた。簡単にではあるが、仙台藩の「通史」を意識した勉強をしてみようかと思い、まずは歴代藩主の事跡について調べようと思った。

その手始めに、とりあえずつくってみたのが、下の表である。

編集可能なので、もし間違えがあればコメントいただけると助かります。

青が歴代藩主の存命期間で、緑が藩主としての在位期間を示す。こうやってみると、どの時代がどの藩主の治世期間なのかヴィジュアライズされてわかりやすい。たしか、似たようなスタイルの図が仙台市博物館にも展示されていたと思う。そちらの方がもっと見やすくて細かい情報も載っていたと思うのだが、自分にはこれが精一杯なのでこれで勘弁してしていただきたい。

■ 在位期間ランキング

比較してみると、初代藩主・政宗の在位期間52年は圧倒的な長期政権であることがわかる。もっとも、仙台藩主としての在位期間なので、正確にいうと政宗の在位は当主就任の1584年ではなく、1600年からカウントするべきなのだが、それでも藩主として36年の在位期間はNo.3に入る。

次に長いのが4代藩主・綱村(43年)と5代藩主・吉村(40年)の時代である。綱村の時代には、長い治世期間とは裏腹に、寛文事件(世にいう伊達騒動)が起こるなど、実は仙台藩政は安定していたとは言いがたい。

一方で、仙台藩の修史事業をはじめたのがこの綱村で、郷土史を学ぶ後世の我々が『伊達正統世次考』『伊達治家記録』などの恩恵にあずかれるのはこの人のおかげであることに感謝しなければいけない。

5代藩主・吉村は、創世期から続く仙台藩の財政難を立て直したことから「中興の英主」と呼ばれるようになる。

高校の日本史の授業で「江戸の三大改革(享保の改革、寛政の改革、天保の改革)のなかで享保の改革が一番成果をあげたのは、単に享保改革の実施期間が一番長かったからだ」と教わった記憶がある。学説として正しいかどうかはさておき、吉村の時代の改革が一定の成果を上げたのも、彼の在位期間の長さと関係するだろう。

この表を作ってみて自分でも驚いたのが、幕末の13代藩主・慶邦よしくにの在位期間が意外と長いことだ。在位27年間は実に歴代5位に入る。

どうも幕末の藩主としてちょろっと登場してすぐに廃藩置県、というイメージが強かったのだが、ペリー来航以前から既に即位しており、幕末と呼ばれる時期には一貫して仙台藩主の座にあったことがわかる。

■ 逆に短いのは...

逆に藩主としての在位期間が最短なのは、第14代にして最後の藩主・宗基むねもとだ。1868年、戊辰戦争に敗れた結果、13代・慶邦が廃位となったあとの同年末、14代藩主として即位するが、翌1869年6月の版籍奉還をうけて藩主としては退位。実に半年間の藩主在任期間であった。

もっとも、藩知事としての職は翌1870年まで勤め、死去する1917年まで伊達家の当主ではあり続けているので、当主としての任期をカウントするなら、在位49年間は藩祖・政宗に次いで第2位となる。

次に短いのが3代藩主・綱宗の2年間だ。綱宗はどうも放蕩ぐせがあったらしく(※諸説あり)、就任直後の1660年に親族大名や家臣団の連名で幕府に藩主の隠居願いが提出され、強制隠居となってしまった殿様である。

この綱宗強制隠居事件は、のちに続く寛文事件の序章、伊達騒動の第一幕とも言うべき事件である。ほとんどの当主が死ぬまで、あるいは死去直前に隠居して藩主の座を退いているなかで、この綱宗は藩主引退後の余生の方が長かった(約50年!)という、唯一の殿様であった。

■生まれて死ぬまで、そのあとも... 

特筆すべき、というか多少説明が必要なのが9代藩主・周宗ちかむねだろう。彼は父である8代藩主・斉村の死去により、誕生直後、0歳にして仙台藩主に就任し、14歳で死去するまで仙台藩主の座にあった。生まれて死ぬまで仙台藩主だった唯一の当主である。

ところが、仙台藩の公式記録では、周宗は17歳(数え年)で隠居という扱いになっている。上記と矛盾するが、どういうことか?

実は仙台藩は、次の10代藩主・斉村が就任するまでの間、お家の断絶を恐れて周宗の死去を隠ぺいしていたらしい。つまりこの時期、実質的には仙台藩主の座は空位なのだが、あくまで周宗が生存していたという体でごまかし切ったのだ。つまり周宗は、生まれて直後に藩主に就任し、死ぬまで、そして死後もしばらくは藩主だったという、非常に特異な殿様なのだ。

2017年2月4日土曜日

【資料集】大槻泰常

葛西氏の支族にして家臣、大槻家の家祖・大槻泰常に関する史料/資料集。大槻泰常の生涯については現在、単項目の記事を執筆中。

01. 大槻但馬守宛 葛西晴信書状
■ 原文
今度浜田安房守逆意ニ付而 今出馬候処 於鹿折有住下野
守悉く働候故 味方可及敗軍之処 其方懸合 下野守以下三
十余人打取候故 得大理候 依之為忠賞 登米郡吉田村ニ
て三千苅 黒沼村千苅桃生郡中嶋村二千苅 大田村千苅
本領相添宛行者也 於末代不可有相違 依証文如件
  天正十六年五月三日        晴信(香炉印)
      大槻但馬守殿
■ 書き下し文
葛西晴信の黒印状
今度 浜田安房守逆意に付きて 今出馬候ところ
鹿折に於いて有住下野守悉く働き候故
味方敗軍に及ぶべくところ 其方懸け合い
下野守以下 三十余人討ち取り候故 大理を得候
之に依りて忠賞の為
登米郡 吉田村にて三千刈 黒沼村千刈
桃生郡 中嶋村二千刈 大田村 千刈
本領に相添え宛がう者也
末代に於いて相違有るべからず 証文に依りて件の如し

■現代語訳
このたび、浜田安房守が反乱を起こし、討伐軍を差し向けたところ
鹿折において敵方の有住下野守が活躍し
味方が敗軍に及びそうなところ、その方の働きにより
下野守と他30人あまりを打ち取り、味方に大きく貢献した。
よって恩賞のため
登米郡 吉田村にて3000刈、黒沼村1000刈
桃生郡 中嶋村にて2000刈、大田村1000刈
本領に加えて加増を行う。
末代まで相違あるべからず。件の如し。

■ 注釈
  • 浜田安房守:浜田広綱。葛西家臣にして気仙郡 米ヶ崎城主。天正15年(1587)、本吉氏と確執を起こすが、その裁定を不満として天正16年(1588)に反乱を起こた。この事件は「浜田兵乱」と呼ばれ、葛西氏が小田原参陣を見送る原因になった(と言われる、後述)。
  • 鹿折:ししおり。本吉郡の地名。元・鹿折町。現在は気仙沼市に属する。
  • 三十余人打ち取り:大槻泰常ひとりで30人も討ち取ったと考えるのは流石に無理がある。30人という戦果が正しいとしても、配下も含めた活躍だろう。
  • :かり。田畑の収穫高を表す単位。転じて、面積の単位。1刈は4坪。加増はあわせて7000刈 = 0.925㎢の計算になる。

■ 史料解説
一関の大槻本家に伝わっていた書状で、葛西家最後の当主・晴信から浜田兵乱での活躍を賞し加増された際の証文。また、泰常の子孫で分家の大槻文彦はこの書状を写して所有しており、その写は現在一関博物館に所蔵されている。

ただし、葛西晴信の書状については偽書が多いとされており、この書状についてもその内容の信頼性について疑問を指摘する意見がある。
※参考:入間田宜夫「大槻家に伝わる『葛西分流』系図ならびに晴信文書について」一関博物館『葛西氏の興亡』平成27年(2015)所収)。
また、『石巻の歴史 第6巻 特別史編』に偽文書の可能性が高い葛西関連文書の特徴と、それに該当する文書の一覧があるが、本書状はそちらにもリストアップされている。そもそも、そういった偽文書を排除して葛西の歴史を再検証すると、浜田兵乱なる事件が本当にあったのかどうかも疑わしいものになるという。

文章は、『葛西左京太夫晴信文書』(葛西史史料第4巻)西田耕三編、耕風社、平成10年(1998)に拠った。


02. 大槻家の系図・家譜

大槻家は泰常を祖とするが、出身は葛西支族の寺崎一族である。大槻泰常が天正19年(1591)に伊達軍により殺された後、子孫は磐井郡 中里村(現・岩手県 一関市)の大肝入(=大庄屋)として定着した。本家・分家を問わず学者を多く輩出した家系であることから、家系図や家譜が数種類存在する模様。
「平姓寺崎氏略系」

筆者はまだ原本を見たことがないので、書籍・企画展目録で紹介されている情報から断片的に知りえた事柄だけメモしておく。どうやら、大槻泰常についての情報についてはどの系図・家譜も大差ない様だ。加えて、筆者が知りえた情報を総合し再編集した家系図を掲載する。

■ 平姓寺崎氏略系
一関の大槻本家に伝わる系図。葛西清親末男と注記のある寺崎清次から始まる寺崎一族の家系図で、大槻泰常が寺崎一族の出身であることがわかる。あくまで「寺崎氏」の家系図であるが、寺崎氏を祖とする大槻家の由緒を示す系図として作成された模様。明和年間(1764 - 72)に作成され、大槻家第7代・大槻清慶までを記す。個人蔵。

■ 大槻清慶家譜類手控
大槻家第7代・清慶が収集した系図や古文書、その他記録の写本。「初」「中」「後」の3冊を一綴りとしており、「初」は「妄雑家譜類記」と題されている。「中」は寛延元年(1748)、「後」は明和8年(1771)と巻末に記されている。葛西氏の系図についてもいくつか収集されており、仙台葛西氏の系図を正統とし、盛岡葛西氏の系図は「不要」と断じている。個人蔵。

■ 家譜書出草案
大槻家出身の蘭学者・大槻玄沢が文政8年(1825)に作成したもの。「家譜」とあるものの、初代・泰常の事跡と自身の履歴についてが内容のほとんどで、泰常以降の当主については玄沢の父・玄梁まで省略されている。個人蔵。

■ 家譜書出
大槻家出身の儒学者・大槻平泉が書いたもの。「家譜書出」というタイトルと平泉の活躍時期から察するに、仙台藩の家臣禄である『伊達世親家譜続編』編集の過程で仙台藩に提出されたものか? 宮城県図書館 伊達文庫蔵。

大槻家系図
「葛西家之分流平姓寺崎氏略系」と内題された系図。寺崎氏初代・清次から明治時代の大槻本家当主・清一郎までが記されている。明治時代の作。個人蔵。


...紫桃正隆氏の『葛西氏家臣団事典』には大槻泰常の項目があり、周辺家系図が載っている。おそらく上記いずれかの系図・家譜を参考にしたと思われるが、同事典によれば大槻泰常について

  • 父・千葉清泰:阿波守、五郎右衛門、室・長部修理の娘
  • 天正19年(1591)討死、享年55歳 ⇒ 逆算すると生年は天文6年(1537年)
  • 室は金森内膳直利の娘

などの情報が書かれている。情報の確認のためには系図・家譜の原本確認が必要なので、いずれフィールドワークを行う予定。

また、大槻泰常の属する寺崎一族についての系図を総合してみると、以下の様になる。


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戦国時代末期の寺崎氏は、一族を分封させて流の庄(現岩手県 一関市 花泉町)を地盤とした


03. 「代数在之御百姓」(『風土記御用書出』)
■ 原文

  八代相続御蔵屋敷大肝入 大槻久右衛門 
久右衛門義 先祖 葛西三郎壱岐守平清重公 分流 寺崎彦九郎清次の遠孫 大槻但馬守泰常と申者 当郡 流郷 金沢村之内 大槻と申所に住居仕候処 天正十九年八月 葛西没落之節 泰常戦死仕...(以下、大槻家当主代々についての概要、略) 
  先祖初阿波
    大槻五郎右衛門常範 
右五郎右衛門義 当郡 赤萩村 荻野と申所へ取移 嫡子 久右衛門 茂治代迄 二代之内浪士にて相続仕候事 
一、五郎右衛門父 但馬代 葛西晴信公より之御感状写左に御書上仕候事 
今度浜田安房守逆意に付令出馬候処於鹿折有住下野守悉働候故味方可敗軍之処に其方掛合下野守以下三十余人打取候故得大理候依之為忠賞登米郡吉田村にて三千苅黒沼村千苅桃生郡中嶋村二千苅大田村千苅本領に相添宛行者也於末代相違依証文    天正十六年五月三日 晴信御黒印 大槻但馬守殿 
右御感状 壱通 但馬守代より遜伝当久右衛門代迄所持仕明和元年八月御出馬之節御指図有之御覧に相入申候事 (以下、代々の当主についての記述、略)

■ 史料解説
安永2年(1773)から同9年(1780)にかけて、仙台藩が各村の肝入(庄屋のこと)に提出させた資料群を総称して『風土記御用書出』と呼ぶ。そのうち、磐井郡中里村の部分。さらにそのうち、由緒が伝わっている百姓についての資料である「代数在之御百姓」と呼ばれる文書のうち、大槻家の由緒について書かれたもの。「だいすう これある おひゃくしょう」と読む。

これを書いて仙台藩に提出したのは当時の一関大槻家当主・大槻清雄である。「01」と同じ大槻泰常宛葛西晴信書状が紹介されているが、あくまで写しであるため、文章は微妙に異なっており、返り点も記入されている。また、この時点で「01」の書状が先祖代々のものとして伝わっていることがわかる。

「明和元年(1764)八月御出馬の節~」とは、大槻清雄の代、仙台藩主・伊達重村が近くの山目村で宿泊した際、案内役を仰せつかり、その際にこの葛西晴信書状を披露したことを示している。このエピソードは、同「代数在之御百姓」の大槻清雄の項目に記載されている。

出典は『一関市史 第2巻 各説1』(昭和53年(1978), p.101,102)に拠った。なお、書状を披露した藩主を示す「御当代様」について注釈では7代藩主・伊達村宗と記載されているが、明和元年時点での藩主は8代・重村になる。


04. 碑文 大槻但馬守平泰常殞命地
■ 原文
陸前桃生郡須江村糠塚殿入澤實爲吾家祖但馬守君殞命地君葛西氏支
族居西磐井郡金澤村大槻館天正十八年葛西氏爲豊臣氏所滅木村吉清
來領其封苛政誅求葛西氏遺臣憤怒擧兵逐吉清伊達氏來討勸降拘将領
二十餘人於此地待命及豊臣秀次東下命斬伊達氏遣兵來臨二十餘人奮
闘遂爲所斬塩淹其首送京師君實在其中時天正十九年八月十四日也年
五十五子孫住西磐井郡中里村存祀文彦至此地歔欷低徊不能去茲建一
碑以慰君在天之霊今地主桑島氏及龜山氏賛襄之 
大正三年甲寅十一月   十世孫 文學博士大槻文彦謹記
■ 書き下し文 / 現代語訳 / 資料解説
大槻泰常の子孫で明治時代に活躍した国語学者・大槻文彦による碑文。大槻泰常の没した糠塚殿入沢の石碑に刻まれた碑文であり、大正3年に建立。この石碑が建てられた経緯や書き下し文/現代語訳についてはこちらの記事を参照。


05. 大槻但馬守泰常肖像画

■ 史料情報
大槻館の跡地に住まいを構える高橋氏のお宅に飾られていた肖像画。筆者は「殿様の肖像画あるから、よかったら御覧になって」と言われ案内された。たみ子氏曰く、「6人くらい殿様の顔が並んだ書があって、但馬守のとこだけ引き延ばしたもの」で、大槻泰常とその血縁関係者数名の肖像が一堂に描かれた原本がどこかに存在したらしいが、現在は所在知れず。

原本がいつ誰によって描かれたものかも今のところ不明で、追跡調査が必要である。

【追記】
一関博物館に原本が所蔵されている模様。館蔵品解説によれば、明治時代に子孫の大槻文彦によって作成されたものとのこと。


06. 誠一ノート
■ 原文
第一代 高橋但馬
大乱の時代葛西晴信の一方の侍頭として慶長10年駿河の■(地?)高橋の庄と云う所ヨリ当地に取移り此の時より葛西藤原を改め高橋と名乗る。
飯倉要害館に忍び居り城主千葉四朗兵衛と名を改め十七年間隠れ居りましたが伊達家に誅罪される 
第二代 惣左エ門の時代から要害屋敷に住まいして農民となる。
この時代キリスト教信者のだん圧の取りしまりきびしき折■寿寺十五代目の不慶和尚に申出で当地村人を禅宗に入門改宗名簿を提出す 
田村藩時代になり
第7代 次右エ門 肝入 飯倉の風土記書上げ書
              キリスト改宗上げ
              禅宗■寿寺■■あり
第八代 正太夫 肝入 
十四代 三郎右エ門 和算 
十八代 当主元市

■ 資料情報
飯倉城の跡地に住まいを構える高橋氏の第17代当主・誠一氏が書かれた先祖についての覚え書き。なお、大槻館跡地に住む高橋氏と、飯倉城跡地に住む高橋氏は遠い親戚にあたるという。A5サイズの便箋2枚にまとめてある。筆者は、誠一氏の孫にあたる第19代当主・市郎氏からこれを拝見してコピーを頂戴し、便宜的に「誠一ノート」と呼称している。

高橋家には、大槻泰常を高橋家初代「高橋但馬」と同一人物とみなし、家祖とする伝承が残っている。それに従うと、大槻家の伝承では天正19年(1591)8月14日の深谷の役で死んだとされる大槻泰常はなんらかのかたちで生き残り、飯倉城に戻った後に高橋但馬と名を変えて生き残っていたという。

一方、誠一ノートでは駿河出身の葛西の臣・高橋但馬が慶長10年に飯倉へ移ったとされるが、慶長10年(1605)にはすでに葛西氏は大名としては滅びている。なにか別の伝承が混じっているのか、あるいは深谷の役で生き延びた但馬守は一度駿河へ逃れ、慶長10年にこの地へ戻ってきたと解釈するべきか。文脈の順序と時系列の整合性に齟齬はあるようだが、何らかの事実を反映しているものとは思われ、非常に興味がそそられる。

誠一ノートは何を典拠として書かれたのか、あるいは先祖代々の言い伝えをメモしたものなのかは不明だが、下記の『磐井郡元流郷村史』には確かに高橋但馬を祖とする高橋家の記録が残っている(p.64, コマ44)。


07. 『花泉町史』および『磐井郡元流郷村史』

『花泉町史』p108(昭和59年(1584))に、天正18年(1590)に葛西氏が奥州仕置軍を迎撃した際に出陣した武将の一覧がのっており、そちらに大槻但馬守の名前もみえる。この一覧は『葛西真記録』、『岩手県史』、『流郷村史』を参考に作成されたことが書かれているが、『葛西真記録』および『岩手県史』に大槻泰常の名は書かれていない。

残る『流郷村史』とはおそらく『磐井郡元流郷村史』(菅原市兵衛、大正5年(1916))のことかと思われる。たしかにこの書には、葛西氏の奥羽仕置軍迎撃戦に参戦した武将のなかに「千葉五郎左エ門」という人物名が登場する(p.11, コマ17)。

大槻泰常の父の名が「千葉五郎衛門」であるので、これを誤認したのではないかと思わる。元ネタだと思われる『葛西真記録』には「千葉五郎右衛門」の名は登場しないので、何を出典に名前を追加したのかは不明。そもそも、葛西氏の奥羽仕置軍迎撃戦そのものが本当にあったのかどうかも疑問視されているできごとである。


08. 未確認資料
■原文
葛西氏ノ二代伯耆前司清親ガ末男彦九郎清次始 メテ寺崎氏ヲ称シ子孫葛西氏ノ一族トシテ 桃生郡寺崎ノ地ヲ領セシニ清次ヨリ十代寺崎刑部大輔常清ニ至テ 磐井郡流荘峠村ニ移テ居住トシ常清ノ弟左近将監明清ハ 同郡同荘楊生村ニ城キヲ居タリ 明清ノ孫左近信泰(此後裔平泉毛越寺象山繞坊トナリ今寺沢清賢ヲ称ス)其弟但馬守泰常 同郡同荘金沢村ノ大槻館ニ居テ始メテ大槻氏ヲ称セリ 天正十八年葛西氏宗族没落ノ後一族再ビ兵ヲ起シ 館主木村伊勢守ヲ逐ヒテ佐沼城ニ拠リシニ 明年伊達氏ニ攻落サレテ 泰常之ニ死シ 其子阿波常範逃レテ磐井郡赤荘村ニ隠レ 子孫同村中里村ニ住シテ十代郡長ヲ世襲セリ...(強調はブログ筆者による)

■史料情報
『河南町誌 下』昭和46年(1971)に、浅野鉄雄氏による「深谷の役考証」という論考が掲載されており、そちらに大槻泰常が死んだとされる深谷の役について詳しい解説がある。そのなか(p.1054)で引用されている史料なのだが、史料名やその性格については記載がない。深谷の役で死んだとされる大槻泰常だが、それより前の佐沼城の戦いで戦死したことを示唆している。

文脈的に、上記系図のいずれかか、または寺崎氏側の記録・家譜である可能性が高いと思われるれる。引き続き調査中。


■ まとめ

こうしてみてみると、ほとんどが江戸時代中期以降に後世の子孫による記録であることがわかる。唯一、同時代のものとして一次史料扱いできそうな「01」の葛西晴信書状も、その信憑性にクエスチョンマークがつくものであることが判明した。偽文書の可能性が高いらしい。他の葛西氏関連文書や軍記ものにも、大槻泰常の名が登場するものは確認できなかった。

極端なことを言うと、大槻泰常の実在性を客観的に示す史料はなく、史料学的に確実だと言いきれるのは「大槻泰常を家祖と信じる大槻という一族が江戸時代中期には存在していた」ということまでになる。

そもそもこれだけ資料あつめをして大槻泰常なる戦国武将について調べようと思ったのも、彼が筆者の先祖に当たる人物だからなのだが、これは困った...。自分のご先祖様ではあるが、この大槻泰常なる人物、本当に実在したのかどうか、ちょっと本格的に論じてみたい。乞うご期待! (...需要有るのか?)

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戦国時代に大槻泰常の居城だったといわれる、大槻館に関する史料の抜き出し。関連する飯倉舘について記載のある史料についても書き出してある。

ただの資料集、かつ城館としても相当マニアックな部類に入る飯倉城・大槻館についてのものなので、はっきり言って「誰得?」な記事になるが、後日これを元に飯倉城・大槻館についての記事を執筆する予定。

01.『封内風土記』
■ 原文
古壘凡ニ。其一。號飯倉舘。傳云。千葉四朗兵衛泰常所居也。泰常者。寺崎彦九郎淸次之末孫。而葛西家之族臣也。後陽成帝。天正中。戦死于桃生郡深谷荘糠塚。其以前熊谷伯耆諱不レ傳。居之。呼之曰要害。 其ニ。號大槻館。泰常自飯倉舘住于此。稱大槻但馬。今西磐井郡之郡長其子孫也。(巻二十下 千三十三 流同荘飯倉邑の項)
■ 現代語訳

西磐井郡 流の荘 飯倉邑には古城が2つある。
1つ目は、飯倉館という。
伝える所では、千葉 四朗兵衛 泰常の居館である。
泰常は、寺崎彦九郎清次の子孫であり、葛西氏の一族にして臣下だった。
後陽成天皇の時代、天正年間、桃生郡 深谷荘 糠塚で戦死した。
これより前、熊谷伯耆なる者がここに住んでいた。
飯倉館は要害とも呼ばれた。

2つ目は、大槻館という。
千葉泰常は飯倉館からこの大槻館に移住し、大槻但馬と改称した。
現在の西磐井郡の大肝入である大槻氏は泰常の子孫である。

■ 史料情報
仙台藩の儒学者・田村希文が安永元年(1772)に完成させた地誌。詳しくはこちらを参照。出典は『仙台叢書 封内風土記』(第3巻、昭和50年(1975)、宝文堂)に拠った。


2.『風土記御用書上』
■ 原文
端郷飯倉要害
一 飯倉館 堅五拾間 横三拾間
右御城主最初ハ葛西御家臣熊谷伯耆と申御方ニ御座候處其後葛西家御一族寺崎彦九郎淸次之末孫千葉四朗兵衛泰常と申御方ニ而天正十八年葛西家御没落之節桃生郡深谷於糠塚御戦死之由申傳候事 
大槻
一 大槻館
右館當時大槻屋敷仲助居屋敷ニ罷成間數等相知不申候千葉四郎兵衛様飯倉館ゟ此館江御取移御住居被成候處其節槻ノ大木有之候を以世俗大槻殿と申唱候を家名ニ被相名乗候由御子孫西岩井御蔵入大肝入大槻久右衛門先祖ニ御座候由申傳候事
■ 現代語訳
飯倉館
はじめ城主は葛西家臣の熊谷伯耆というものだった。その後、葛西の親族・寺崎彦九郎清次の子孫・千葉四朗兵衛泰常という武将が城主となった。彼は天正18年(1590)、葛西家が滅亡した際、桃生郡 深谷 糠塚にて戦死したと伝わっている。

大槻館
(仲助居る屋敷に罷り成るまじき等 相知れずと申し候=読解不能)、千葉四朗兵衛が飯倉館よりこの地に移り住んだところ、この地には大きな槻の木があったことから、人々から大槻殿と呼ばれるようになり、家名として名乗ることになった。西磐井郡 大肝入 大槻久右衛門の先祖と伝わっている。

■ 史料情報
安永2年(1773)から同9年(1780)にかけて、仙台藩が各村の肝入(庄屋のこと)に提出させた調査書。詳しくはこちらを参照。出典は『宮城縣史 27』(資料篇 5 風土記 西磐井郡 東磐井郡 気仙郡、1959、p.262)に拠った。

03.『仙台領古城書上』
■ 原文

一 飯倉城 東西五十間 城主 千葉四朗兵衛
一 飯倉城 南北三十間
■ 史料情報
延宝年間(1673~1681年)に仙台藩が幕府に提出した古城に関する記録。磐井郡流 金澤村 金澤町の項目に飯倉城についての記載がある。「山」とは山城の意味で、東西50間 = 約90メートル、南北30間 = 約55メートル。

出典は『仙台叢書』第4巻(大正12年(1923))所収の「仙台古城記」に拠った。

04.『小野文書』
■ 原文
    天正十八庚寅年流之内木村伊勢守吉清家人等被指置候覚
一、金沢朝日館ニ居 五十嵐近江 長浜趣前 弓田小平次
   右上下三拾九人
一、峠日形両村 村上道玄国 石田信濃 大内内匠
   右三人上下八拾五人 境ノ城ニ住ス
一、飯倉要害館ニ居 武田志摩
   右上下十人
一、清水村出崎館ニ住 明石式部
   右上下七人
一、中村平館ニ居 大内源内
   右上下六人
一、金森村寺館ニ住 内海玄蕃
   右上下拾人
一、佐沼城 成合平左衛門
一、岩出山城 萩田三右エ門
一、登米寺池城 大将木村伊勢守吉清
一、大崎城 吉清子木村弥市右衛門清久
 天正十八年十月十七日一夜之内、伊勢守家人等ヲ伐殺申候由御届候。
■ 史料情報
岩手県 一関市 花泉町 日形に伝わる古文書。葛西氏の滅亡後、入封した木村吉清時代の統治についての数少ない貴重な記録。飯倉城にも木村吉清配下の武田志摩なる人物が配されたことがわかる。

出典は『岩手県史 第3巻 中世編下』(昭和36年(1961)、p.769,770)に拠った。

05.碑文「大槻但馬守平泰常館址」
■ 原文
陸中西磐井郡金澤村大槻之地實吾家祖但馬守居館址也君葛西氏支族
初稱千葉四郎兵衛居村内飯倉要害後徒此地采地十萬刈館側有大槻樹
里民稱大槻殿天正十六年濱田安房守廣綱反君討平之葛西左京大夫君
加賞七千刈地改稱大槻但馬守十八年葛西氏爲豊臣氏所滅遺臣擧兵明
年伊達氏來討君闘死於桃生郡糠塚子孫住西磐井郡中里村世爲郡長歳
月悠久恐遺址湮没今地主高橋氏爲舊族乃相謀爲建一碑存先世之蹟
   大正三年甲寅十一月   十世孫 文學博士大槻文彦謹記
■ 書き下し文
「大槻但馬守平泰常館址」

陸中 西磐井郡 金沢村 大槻の地、実に吾が家祖 但馬守の居館跡なり。
君は葛西氏の支族にして初め千葉四郎兵衛と称す。
村内 板倉要害に居り、後此の地に徙うつる。
采地十万刈、館の側に大槻の樹有り、里の民、大槻殿と称す。
天正十六年、浜田安房守広綱反す。
君、之を討平す。
葛西左京大夫、君に七千刈を加賞し、大槻但馬守と改称す。
十八年、葛西氏 豊臣氏の滅す所と為る。
遺臣挙兵す。
明年 伊達氏来討し、君、桃生郡 糠塚に闘死す。
子孫 西磐井郡 中里村に住し、世よよ郡長と為る。
歳月悠久にして遺址の湮没を恐る。
今 地主高橋氏旧族為り、乃ち相謀り一碑を建て、先世の跡を存せんと為す。
大正三年 甲寅十一月 十世孫 文學博士 大槻文彦 謹記

  • 西磐井郡 金沢村 大槻の地:現在の岩手県 一関市 花泉町 金沢。
  • 采地:知行地のこと。
  • 。かり。田畑の収穫高を表す単位。転じて、面積の単位。1刈は4坪。10万刈は40万坪で、約1.322㎢。7000刈は0.925㎢。
  • 葛西左京大夫:葛西氏(戦国大名としては)最後の当主・晴信のこと。
  • 桃生郡 糠塚:現在の石巻市 須江糠塚。大槻泰常殞命の碑がある。
  • :よよ。代々の意。
  • 湮没:跡形もなく無くなること。
  • 高橋氏旧族為り:大槻館の跡地にある屋敷に住む高橋氏は、同じく大槻泰常の子孫という伝承がある家系であり、おそらくそのことを指していると思われる。
  • 先世:せんせい。祖先のこと。または「せんぜ」と読み前世を指すことも。文彦がどちらの意味で使ったのかは不明だが、どちらにせよ意味は通る。
■ 現代語訳

陸中の国 西磐井郡 金沢かざわ村 大槻の地は、実に私(大槻文彦)の家祖・但馬守の居館跡である。
大槻泰常は葛西の支族・千葉氏の出身で、はじめ千葉四朗兵衛と名乗った。
金沢村の板倉要害に住んでいたが、のちにこの場所へ移った。
領地は10万刈。居館のそばに大きな槻の樹があったので、里の民から大槻殿と呼ばれ、それを姓にした。
天正16年(1588)、浜田広綱が主君・葛西晴信に対して反乱をおこした。
大槻泰常は、この反乱鎮圧に参加し、武功をたてた。
よって、葛西晴信は大槻泰常に7000刈を加増し、名乗りを但馬守と変えた。
天正18年(1590)、葛西氏は豊臣秀吉の奥羽仕置により滅亡した。
葛西の遺臣たちは挙兵したが、伊達氏がその鎮圧にあたり、大槻泰常も桃生郡 糠塚で戦死した。
泰常の子孫は西磐井郡 中里村に住み、代々大肝入を務めた。
時の流れとともに居館跡が埋没してしまうことを恐れ、
地主である高橋氏の協力のもとに石碑を建て、史跡の保存に努めるものである。

■ 史料情報
大槻館主・大槻泰常の子孫にして文学博士の大槻文彦が大槻館跡に建てた石碑。大正3年(1914)建立。大槻文彦は同じ時期に大槻泰常が没した地・糠塚にも石碑を建てている。

06.現代の資料

■ 紫桃正隆 『仙台領古城・館』
第1巻, 宝文堂, 昭和47年(1972), pp.395-401

宮城県の郷土史家・紫桃正隆氏の記した旧仙台藩領の城郭事典。飯倉館、大槻館についての記述がある。まだ著作権の切れていない本なので文章の丸写しは避けるが、飯倉城の概略図だけ転載させていただく。

大槻館については、現在は平地になっているが「昔はそれでも高さ三米ぐらいの丘であったと言う」という証言が載っている。また、飯倉城について、本丸跡にある八幡神社が江戸時代に大槻館から遷されたものだとの伝承が紹介されており、江戸時代にも二つの城館につながりがあったことがわかる。

■ 沼館愛三 『伊達諸城の研究』
伊吉書院, 昭和56年(1981), pp.279, 280

元陸軍士官の城郭研究家が著した本で、飯倉城、大槻館についての記述がある。しかし、飯倉城について「南方有間川の低地に臨み清水の花泉舘は指呼の間にあり、北方は尾根続きとなっている」とあるのだが、飯倉城から見て南方の有間川は約2キロ、清水の花泉館(清水城)は3キロの距離にあり、どうも位置情報が一致しない。大槻館についても「舘は大槻部落の北側台地で、比高約20米」、「三方低地に囲まれ、西北は飯倉舘に続いている」とあり、どうやらどちらも場所を誤認している様に思われる。どう見ても比高20メートルもないし、台地ではなく平地である。

また、「平泉或は一の関の属城として(中略)前進陣地としては適当である」との指摘があるが、戦国時代の平泉、あるいは一関にそこまでの戦略的価値はなかった。平泉の黄金時代は平安時代で、一関の発展は江戸時代になってからである。大槻館に支城としての性格があったとすれば、付近に点在した同族・寺崎一族の楊生城・清水城・金沢城に対するものであっただろう。

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