2017年11月23日木曜日

こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学- 【悲運の一族・飯坂氏シリーズ②】

さて、奥州合戦ののち、飯坂にやってきた伊達為家。彼の4代目の子孫である政信の時代に「飯坂」を名乗るようになり、飯坂氏の歴史が始まるのだが、そのファミリーヒストリーに触れる前にそもそも為家が居住した飯坂なる場所がどんなところなのかについて触れておこうと思う。

戦国時代の終盤以降、飯坂一族は飯坂の地を離れることになるのだが、それまでの約400年弱、彼らは飯坂の地で暮らしたのだし、その地名を家名として冠したわけである。やはり一族の歴史に詳しく入り込むまえに、飯坂という地について一度きちんと理解しておきたい。


■ その位置

まず飯坂の位置だが、現在の自治体名で言うと福島県 福島市、旧国名で言うと陸奥国 伊達郡、信夫郡にまたがった地域になる。


福島県の県庁所在地である福島市の中心街から約20分の距離にあり、東北自動車道を通行中に飯坂インターの名を目にした方もいるだろう。また、JR福島駅からは鉄道・福島交通飯坂線に乗り換えて終点が飯坂温泉駅となる。


■ 奥州最古の温泉地帯♨

そして飯坂といえば、第一に飯坂温泉である。

写真は飯坂のシンボルのひとつ、十綱(とつな)橋摺上川を挟んで多くの温泉旅館が軒を連ねる。余談ではあるが、この川は「すりかみ川」と読む。伊達氏の歴史に詳しい方なら、「摺上」と聞くと政宗の人生のハイライトのひとつ・摺上原の戦いを連想するだろう。こちらは「すりあげ原の戦い」と読む。筆者は摺上=すりかみと読む環境に生まれたせいか、つい最近まで「すりかみ原の戦い」だと思い込んでいた。

その歴史は古く、飯坂温泉オフィシャルサイトの説明によれば
2世紀頃、日本武尊が東夷東征の際、病にかかり、”佐波子湯”に浸かった所たちまち元気になった。とされています。飯坂温泉の歴史
という。古代にヤマトタケルの東国遠征隊が本当にここんな奥地までやってきたのか? とはツッコミたくなるところである。湯治ツーリズムが流行した江戸時代あたりにコマーシャルトークとして誰かが言い出したのではないかという気がするし、せめて「征夷大将軍・坂上田村麻呂も蝦夷征討のときにたち寄って入浴した」くらいなら信じられなくもないのだが、実際のところはよくわからない。



しかし、少なくとも平安時代末期には後述する佐藤基治が「湯の庄司」と呼ばれているので、古くから温泉地として知られた土地柄であるのは間違いない。

湯の庄司=佐藤基治と断定していいかどうかについては異論もあるだろうが、少なくとも平安時代末期には飯坂が「湯の庄」として認知され、それを「司」る地方豪族がいたことは確かだ。

江戸時代には松尾芭蕉も奥の細道の道中、飯坂温泉を訪れており、他に「正岡子規、与謝野晶子、ヘレン・ケラーも入った湯」という説明は飯坂でよく聞く。

飯坂温泉で一番有名な鯖湖湯(さばこゆ、写真はこちらから拝借)。
ヤマトタケルの時代? かどうかはさておき、古くは「佐波子湯」と表記。

なお、秋保温泉(宮城県仙台市)、鳴子温泉(宮城県大崎市)と並んで奥州三名湯に数えられている。「奥州」という割には3つとも場所が南東北に偏っている気もするが、多賀城が陸奥国の北限だった時代からの呼称と考えれば納得がいく。

■ 佐藤一族の拠点

さて、地元飯坂でも飯坂氏についてはあまりフィーチャーされないことが多いのだが、その反面、飯坂が観光資源として推している歴史的有名人といえば佐藤兄弟、すなわち佐藤継信・忠信であろう。飯坂ではいまだにタッキーこと滝沢秀明が義経を演じたNHK大河『義経』(2005年)ののぼりが目につく。あとあんま関係ないけど『八重の桜』も。

チャンネル銀河 大河ドラマ『義経』のページより拝借

佐藤継信・忠信は義経主従として有名で、奥州藤原氏傘下、佐藤基治の息子である。藤原秀衡の命により義経の下に参じ、名臣の誉れが高い。飯坂はそんな継信・忠信兄弟の父・佐藤基治の拠点である。

佐藤基治は飯坂の大鳥城主で、奥州合戦の緒戦・石那坂の戦いで源氏軍に敗れているのだが、息子たちが義経の幕下にいたこと、拠点の飯坂近くの石那坂、あるいは阿津賀志山が戦場になっていることから考えても、平泉=奥州藤原軍の主戦派として戦ったことは間違いない。

石那坂の場所ははっきりとはしないものの、
比定地のひとつが福島市 平石 原高屋にある。

なお、その佐藤基治を石那坂の戦いで打ち破ったのが、伊達家の初代・朝宗(に比定される常陸入道念西)と為家を含む4人の息子たちであった。飯坂は、伊達氏の発祥にも多少なり関係がある土地、ということになる。

というわけで、飯坂氏の祖となる伊達為家が入封した飯坂という土地は、関東からやってきた伊達氏にとっては敵方の最重要拠点であり、そこを抑える役目を授かった為家への期待も大きかったのではないかと推測できる。

ちなみに、飯坂地域にはいまだに佐藤姓の家が多く、佐藤兄弟、松尾芭蕉に続く地元の有名人(?)・佐藤B作もその一例だ。


■ 置賜=信達ルートの入り口

飯坂の地理についてもう少し考察してみたい。奥州合戦での活躍の褒賞として伊達郡に新たな土地を得た伊達氏はその支配領域を徐々に広げ、いつのことかははっきりわからないが、近隣の信夫しのぶも支配下に収めた。

上記の地図右側に、斜めに横たわったひょうたん形の盆地があるのがわかるだろうか? だいたいひょうたんの上半分が伊達郡、下半分が信夫郡のイメージで、二つ合わせて信達しんたつ地方あるいは福島盆地などと呼ぶ。

さらに伊達氏は拡大をつづけ、9代・伊達政宗(戦国時代の独眼竜・政宗ではなく南北朝時代の大膳大夫・政宗)の時代には置賜地方(山形県 米沢市周辺)をその支配下におさめた。元来の本拠地である伊達郡と置賜郡は奥羽山脈で隔たれているため、となればその回廊コリドール、つまり連絡通路が重要になってくる。

通常、置賜(米沢)~信達(福島)間の往来に使えるルートは、今も昔も変わらず、ほぼ3通りで

  1. 栗子峠(国道13号):急な山道で有名。明治時代に土木マニアの鬼県令・三島通庸の工事強行によりようやく栗子隧道が開通。つい最近(2017.11.04)高速・東北中央自動車道と東北最長のトンネル開通が話題となったばかり。
  2. 鳩峰峠(国道399号):舗装がはがれたり積雪・土砂崩れなどによる通行止めも頻発する「酷道」として一部マニアには有名なルート。走行中、猿に遭遇することも。
  3. 二井宿峠(国道113号、七ヶ宿街道):他の2つと比べて一番ゆるやかな道だが、福島=米沢間交通としてはかなり大回りになる。江戸時代には、日本海側の大名たちの参勤交代ルートとして用いられた。

である。置賜の拠点は米澤だが、信達側の伊達の拠点は時代とともに少しずつ移動する。ここでは地図上に伊達の本拠地として高子岡城、梁川城、桑折西山城をポインティングし、他に伊達晴宗の隠居城である杉目城(大仏城、福島城)、伊達成実の居城で政宗も前線基地として何度か滞在した大森城も落とし込んでみた。

そして、それらと置賜を結んでみると



上記の様になる。実際には現在の車道ルートと当時の往来には齟齬もあるだろうが、おおまかな道筋は一緒だ。すると、特に栗子峠(R13)と鳩峰峠(R399)は飯坂がその出入口になっていることがわかる。しかも、険しい山道を降りてくるとそこにあるのは古くから栄えた温泉である。これはひとっ風呂あびていくしかない。

というわけで伊達氏にとって飯坂とは、交通の要衝としての戦略的価値もそれなりにあっただろうと思われる。

その裏付けになるかどうかはさておき、天文22年(1553)に作成された「晴宗公采地下賜録」からは伊達の重臣・中野宗時が飯坂に一部所領を持っていたことがわかる。中野宗時といえば、晴宗・輝宗に仕え、一時は伊達家当主をも凌ぐほどの権勢を誇った人物だ。中野は天文の乱の後、晴宗による家臣団とその所領の再編・整理にかかわっているので、自ら望んで飯坂の土地を得た可能性も考えられる。

以上、交通の観点から飯坂というロケーションについて考察してみた。

しかしながら、栗子峠、鳩峰峠が中世にどれだけ利用されていたかについての実態については具体的な資料をみつけることができておらず、上記内容については我ながら根拠の裏付けが弱い、とも書いていて思った次第。筆者は峠大好き人間でもあるので、引き続き調査を進めたい。


■ 飯坂の地理的要素まとめ

というわけで、飯坂の紹介として3つのポイントを挙げてみた。
  1. 古くからの温泉地帯:古代から人が集まるロケーションだった
  2. 佐藤一族の拠点:進駐軍としてやってきた伊達氏にとっては、必ず押さえないといけない旧敵の根拠地
  3. 米沢=福島間交通の要:奥州山脈を越える峠道の入り口で、人・軍・物資・情報の往来が盛んだったことが想像される
3点目はカッコつきのポイントではあるものの飯坂という土地がどんな場所であるかについてはお分かりいただけたと思う。これらを理解していただいた上で、次回からは本格的に飯坂氏の群像にスポットを当てていこうと思う。

■ 悲運の一族・飯坂氏シリーズ一覧

飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家-
②こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学- ← 今ココ
③飯坂城と4代・政信
④鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる-
⑤分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族-
┗【資料集】中世の飯坂氏
⑥飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク-
⑦飯坂宗康と戦国時代 -その功罪-
【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
┗【資料集】飯坂宗清
┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表

2017年11月20日月曜日

飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家- 【悲運の一族・飯坂氏シリーズ①】

■はじめに

これから数回にわけて伊達氏の庶流である飯坂氏について触れたいと思う。

飯坂氏と言えば伊達政宗の側室となった飯坂御前(飯坂の局、松森御前、吉岡御前とも)や政宗の第3子で飯坂家を継いだ飯坂宗清(伊達宗清とも)あたりが有名と言えば有名になるのだろうが、あまりメジャーな一族であるとは言えない。

飯坂氏の中でも、筆者が一番興味を持った飯坂宗康という戦国時代の武将についてTwitter上で知名度調査をしたことがあるのだが


という結果に終わった。母数は99票(おしい!)。筆者のこのTweetに反応してくれている時点で、仙台や伊達家の歴史に興味をもっている方が相当数のはずである。それでも、半数以上が知らない。飯坂の局の父親、と言えば多少なりピンとくる方が約3割。ストレートな認知度は約2割である。

なぜそんなマイナー一族にスポットを当てようかと思ったかと言えば、まず筆者が飯坂(福島県 福島市 飯坂町)の生まれであり、どことなく「地元の殿様」感があって親しみを覚えることが大きい。

とはいっても、地元の飯坂ですら、飯坂氏なる一族がいたことはあまり知られていないように思う。

飯坂の有名人と言えば、義経主従として知られる佐藤継信・忠信兄弟、『奥の細道』の道中飯坂温泉にも滞在した松尾芭蕉、そして俳優・佐藤B作である。ちなみに筆者の祖母も母も、飯坂氏という地元豪族の存在は知らなかった。

猫御前@秋吉久美子 NHK大河『独眼竜政宗』より
詳細は別項で述べるが、飯坂の局と新造の方をあわせた
空気読めない設定の架空のキャラクターである。
地元でもあまり知られていない飯坂氏だが、その知名度に反比例して、不明点が多い。わからないことや、事実が混同されていることが実に多く、飯坂御前と新造の方を同一人物として扱い、飯坂御前=宇和島藩祖・伊達秀宗の生母とするような言説はその最たるものだろう。

詳しくは別記事で触れるが、本シリーズでは飯坂御前は伊達秀宗の生母とは別人である、と断定するに至った。

さらに後述するように、飯坂氏は仙台藩主・伊達家の庶流でありながら江戸時代初期に断絶したこともあってか、後世に伝わりきっていない情報も多い。

このシリーズでは、飯坂氏について何がわかって、何がわかっていないのかの整理をしつつ、わかっていない点については自分なりの推論を交えた上で、一族の発祥からその断絶までを通史的に描いてみることを目的に筆を進めていこうと思う。


■その起源

伊達氏の庶流・派生支族
宮城が誇るサンドウィッチマン
伊達みきおが大條氏(明治時代に
伊達に復姓)の末裔なのは有名な話。
飯坂氏の祖が誰なのかについては、はっきりしている。伊達為家なる人物がそれである。

これについては飯坂氏の旧臣が書いたと言われる『飯坂盛衰記』及び仙台藩の家臣録である『伊達世臣家譜略記』共に記録が一致している。飯坂氏の分家である、下飯坂家に伝わる系図でも同様だ。

伊達為家は、伊達氏初代・伊達朝宗の第4子である。伊達氏には政宗以前に枝分かれした支族として桑折氏、瀬上氏、大條氏、小梁川氏などがあるが、伊達氏初代の息子を祖とする一族ということで、飯坂氏は伊達支族の中でも最古の部類に入ることになる。

そもそも伊達氏初代・伊達朝宗ともむねといえば、源頼朝の挙兵に参加した関東の豪族である。源頼朝が鎌倉幕府をひらいたのち、鎌倉=源氏政権と平泉=奥州藤原政権が激突した奥州合戦で活躍し、その緒戦である石那坂の戦いでは、平泉方の武将である佐藤基治を破った。

その功績から戦後朝宗は伊達郡を与えられ、以後伊達氏を名乗るようになる。

石那坂の位置ははっきりしないが
候補地のひとつに碑文が残る
もっとも、伊達氏の発祥については、石那坂の戦いでの活躍が伝わる常陸入道念西を伊達朝宗に比定し、同一人物とする説が一般的であるが異説もある。佐藤一族についてもいろいろ検討は必要なのだが、この時代については筆者の勉強が追い付いていないため、あまり深く突っ込まずにスルーさせていただくのを容赦いただきたい。

そのうち興味がわいたら詳しく調べて加筆したいと思う。


■ 飯坂氏初代・為家

飯坂氏の祖である為家も、父である朝宗や兄弟たちとともに奥州合戦を戦い抜き、戦後この地にやってきた様だ。『大鳥城記』によればはじめ伊達郡の半田に住み(※)、のちに古館の地に移ったとされる。
※『大鳥城記』(菅野円蔵、1970)に「四番目の伊達四郎蔵人右衛門尉為家は、最初伊達郡半田に住んだが、後信夫郡飯坂の古館に居住し飯坂氏の元祖となった」とある。他の資料で為家が半田に住んだという記述を今のところ筆者は発見に至っておらず、出典は不明。要追加調査。


古館、とは飯坂に今も残る地名で、飯坂温泉街を見下ろせる小高い丘になっている地点だ。飯坂氏が城館を設けたことから、このような地名が定着したと思われる。また、飯坂氏が本拠地とした城館は飯坂城湯山城の名でも呼ばれる。

為家の人生の詳細についてだが、筆者の勉強不足によりあまり詳しくは触れられず申し訳ない。同時代の資料ではないが『伊達略系』と『仙台人名大辞書』から引用して少しだけ紹介したい。

爲家君
左衛門蔵人。石那坂役被創有
功。建歴二年六月七日。宿直于御所侍所。興荻生右馬允闘争。坐配于佐渡後召還。(『伊達略系』作並清亮、明治27年(1894))

ダテ・タメイエ【伊達爲家】 朝宗公子。常陸四郎と稱す、右衛門尉蔵人に叙す、建久年中源頼朝に使へて随兵となる、建暦二年六月七日御所侍所に宿直し、荻生右馬允と私闘するに坐して佐渡に流さる、後ち召し還さる、承久元年将軍源實朝鶴岡に詣す、為家供奉となる、伊達郡飯坂城を賜はり、同地にて卒す、墓は飯坂天王寺境内大作山頂峰にあり△子伊達彦四郎家政△子小太郎宗政△子伊賀守政信、飯坂を以て稱號となす、之を伊達氏の一家飯坂氏の祖となす。(『仙台人名大辞書』菊田定郷、昭和8年(1933)、p675)

石那坂の戦いで負傷したり、御所の侍所で私闘を演じて佐渡に流されるなど、なかなか荒っぽい人生を送った様だ。後に奥州藤原政権の主戦派である佐藤氏の拠点であった飯坂の統治を任されたのも、こういった彼の武闘派な経歴を買われてのことだったのかもしれない。

『仙台人名大辞書』にもあるとおり、為家はあくまで「伊達」為家で「飯坂」の姓を名乗るようになるのは4代目・政信以降の話なのだが、どの資料もこの伊達為家を飯坂氏の祖とし、初代として数えているのは共通している。

ここから飯坂氏の歴史がはじまる。


■ これから書く予定の項目

さて、おそらく飯坂氏についてまとめようとしたとき、記事量でいうと20本前後の記事が必要になるかと思われる。現状、公開済みの記事3本+用意済みの原稿が3本程度あるのだが、だいたいどんな内容になるのか、自分に対する構想メモの意味も含めてあらかじめ示しておきたい。あくまで予定なので、増えるかもしれないし、統合もあるかもしれない。

①飯坂氏シリーズはじめました ← 今まだココ
こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学-
③飯坂城と4代・政信
④鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる-
⑤分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族-
┗【資料集】中世の飯坂氏
⑥飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク-
⑦飯坂宗康と戦国時代 -その功罪-
【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
┗【資料集】飯坂宗清
┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表

...うーむ。これだけの大風呂敷を広げるのもなんだか不安になってきた。とても全部書ききれる気がしない。とはいえ、ある程度メドはついている⑧飯坂の局の時代までは勢いに乗って書ききってしまいたい。近世の⑨飯坂宗清以降は、まだメドすらついていないので記事ができるとしても1年以上は先の話になるだろう。

連載やるやる詐欺にならないように頑張るので、過剰に期待せずに見守っていただければ幸いである。


2017年11月16日木曜日

飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-

飯坂の局の実態をより分かりにくくしているのが、新造の方との同一人物説や、宇和島藩祖・伊達秀宗の母である、といった様な書かれ方だ。特に近年では、NHK大河『独眼竜政宗』の放送以降、猫御前なる架空のキャラクターとの混同もみられ、非常に紛らわしい。

■ まずは結論から

これから飯坂の局に関する世間の誤認を訂正していくわけだが、まずは正しい情報からお伝えしたい。

  • 飯坂の局と新造の方は別人である
  • 飯坂の局の父は飯坂宗康であり、新造の方の父親は六郷伊賀守である
  • どちらも伊達政宗の側室である
  • 政宗の長男であり宇和島藩主・伊達秀宗の実の母親は新造の方である
  • 政宗の3男である伊達宗清の実の母は新造の方である。が、宗清が幼いころに新造の方がなくなったため、後に飯坂の局が宗清の養母となっている。
  • 猫御前なる名称は史実上存在せず、飯坂の局と新造の方をモデルにした架空のキャラクターである。

以上が飯坂の局と新造の方にまつわる誤認を排した正しい情報である。複数の人物が登場するのでややこしいと思う。すっきりイメージするためにも、正しい関係図を掲載するので、こちらを参考にしてほしい。
これが正しい関係図

以上の情報は、世間ではあまり正しく伝わっていないのが実情だ。では、世間ではどのように誤解されているのか?


■ 混同のパターン

飯坂の局と新造の方は、どちらも伊達政宗の側室である。そして、政宗の実子である伊達秀宗、宗清とのかかわりがある人物であることは間違いないのだが、ここが特に紛らわしい。別人の二人の側室を同一人物であるかのような書き方をする場合、いくつかのパターンがある。

① 別称として扱うケース
「飯坂の局(新造の方とも)」あるいは「新造の方(飯坂の局とも呼ばれる)」といったような書かれ方。近年では「猫御前とも」といった表記も。紛らわしいふたりの人物の検証についてあまり触れず、両論併記でお茶を濁すパターン。

② 伊達秀宗の母を飯坂の局とするケース
伊達秀宗の母は新造の方であり、飯坂の局は秀宗とは特に関係がない。秀宗の弟である宗清にとっては新造の方=実母、飯坂の局=養母なのだが、いつしか「伊達宗清の母は飯坂の局」 ⇒ 「であれば、兄である秀宗の母も飯坂の局」と混同されたのだと思われる。

③ 新造の方の父を飯坂宗康とするケース
飯坂の局の父は飯坂宗康であることは間違いないが、新造の方の父は六郷伊賀守である。

以上、3つのケースはどれも誤りである。


■ 別人である論拠 『飯坂盛衰記』

飯坂の局と新造の方を明確に別人として書いている書の代表的なものは『飯坂盛衰記』である。それぞれの出自について引用してみよう。まずは飯坂の局。

十四代の孫 飯坂右近大夫宗康に至り。世嗣の子なく息女二人もち給う。一女は桑折摂津守政長に嫁し。次女はいまだ幼年にて家に有。(中略)所詮娘事は君に指上げ奉る。願くは侍女ともなし。召仕はれ下さるべしとて指上ける。政宗公は姫君を御覧有けるに。其容色世に勝れ拾も夭桃の春を傷める粧ひ。垂柳の風を含める有様なれば。政宗公御喜悦淺からず。則側室となし御名は飯坂の局と改。
続いて、新造の方。

抑権八郎と申は。政宗公の五男にて。母は新造の御方也。此新造の御方と申は。新庄のもとの城主。六郷伊賀守の娘なり。
飯坂の局は飯坂宗康の次女、新造の方は六郷伊賀守の娘であると、明確に別人としてかき分けられている。また、上記引用の「権八郎」とは後の飯坂宗清のことである。宗清の実母は新造の方だが、宗清が幼いうちに亡くなったため、政宗が宗清の養育を飯坂の局に頼んだ(以後、養母となった)、というエピソードも出てくる。

さらに、新造の方は岩出山時代に政宗・愛姫とともに伏見で生活していたが、飯坂の局は疱瘡にかかり、政宗とともに岩出山・伏見へ行くことを拒んで松森に隠棲したことにも触れられている。

『飯坂盛衰記』は飯坂氏の視点から書かれた書物である。飯坂の局について都合の良い書き方をしようとすれば、宗清の母であり、宇和島10万石の藩祖・秀宗の母でもあるという世間の誤認をあえて正すメリットはない。そこをあえて別人、としているのには信憑性がある。


■ 飯坂の局は宗清の実母ではないとする論拠 『貞山公治家記録』

伊達家の公式記録である『貞山公治家記録』でも、新造の方と飯坂の局は別人として登場する。まず、秀宗が生まれた天正19年(1591)12月の記事(巻之十七 )に

此月、新造御方、村田民部宗殖入道萬好齋居城 柴田郡村田ニ於テ御安産、公第一ノ御子御誕生、御童名兵五郎ト稱シ奉ル。是從四位下宇和島侍從兼遠江守殿秀宗ナリ。

とあり、秀宗の母親は飯坂の局ではなく新造の方であるということが明示されている。

さらに注目したいのは伊達宗清が没した寛永11年(1634)の記事である。筆跡そのままで引用してみよう。

伊達河内殿宗清養母飯坂氏の女、と書かれてあり、宗清の「母」でも「実母」でもなく「養母」と書かれていることに注目したい。

■飯坂の局は秀宗の実母ではないとする状況証拠

世間の誤認どおり、飯坂の局が伊達秀宗の母であったと仮定しよう。そうすると、当然、宇和島藩主・伊達秀宗とその子孫たちには飯坂家の血が流れていることになる。そうなってきたときに不自然なのは、飯坂家の血筋が絶えた時、誰を跡継ぎとしたかである。

宗清以降、飯坂氏の当主は男子に恵まれず、3度にわたって養子で家をつないでいる。そのうち1回は仙台藩主・伊達忠宗の子を養子に、2回は飯坂氏と縁戚関係にある桑折氏から養子を迎えている。

宇和島伊達家に飯坂氏の血が流れているのだとすれば、遠戚にあたる桑折氏から養子をもらうよりも、直接の血のつながりがある宇和島伊達家から誰かを養子にもらってきた方が、血脈の正当性、格ともにわかりやすい。

それをしなかったのは(仙台藩と宇和島藩の軋轢が原因と考えられないこともないが)、やはり伊達秀宗の母は新造の方であり、飯坂の局ではないからだろう。


■いつ頃から混じりだしたのか?
次に、『伊達治家記録』および『飯坂盛衰記』の時点では正しく認識されていた情報は、いつ頃から混同され始めたのか検証してみたい。

01.「桑折家系図」
飯坂の局と新造の方を混同している書物として一番古いものは、筆者の知る限り海田桑折家に伝わる「桑折家系図」で、附録によれば文化戊辰(文化5年、1808)正月に書かれたものである(『桑折町史』第5巻、資料編Ⅱ)。飯坂の局について書かれている部分を引用してみる。

女 政宗公侍妾、飯坂御前又吉岡局と申す
伊達遠江守秀宗公之御実母なり、政宗公御願之上、河内守殿を御養子ニ被成候て、飯坂の苗跡相続ニ被成下慶長十七年卒、吉岡天皇寺ニ葬る

宗清を養子にした、という部分はあっているのだが、飯坂の局を伊達秀宗の実母としている。兄の秀宗の実母ではあるのに、弟の宗清にとっては実の母ではないという矛盾があり、この当時にしてかなり混乱されていることがうかがえる。


02.『寛政重修諸家譜』
「桑折氏系図」の直後、文化9年(1812)に成立した江戸幕府の公式諸大名家譜である『寛政重修諸家譜』においても秀宗の母=飯坂の局、という記述が見受けられる。

秀宗 伊達遠江守村壽が祖。兵五郎 遠江守 母は飯坂氏。庶子たるにより家督たらず、別に家をおこす。『寛政重修諸家譜』巻第七百六十二) 
秀宗 兵五郎 遠江守 侍從從五位下 從四位下 松平陸奥守政宗が長男。母は飯坂氏(『寛政重修諸家譜』巻第七百六十三)

この家譜において秀宗は、仙台伊達藩の藩祖・政宗の子としてと、宇和島藩祖として2回登場するのだが、どちらも母親は飯坂氏であるとされている。幕府の公式記録にこのような誤記があったことは影響として大きかったと思われる。


03.「伊達略系」と『東藩史稿』
どちらも近代になってから当時の伊達家当主・伊達宗基が学者・作並清亮に命じて編集させたもの。伊達家の略系図である「伊達略系」(明治27年(1894))と、『伊達治家記録』に継ぐ公式記録とも言うべき簡易版仙台藩の準公式歴史書『東藩史稿』(大正4年(1915))である。まずは「伊達略系」から。

母側室飯坂氏。右近宗康娘。稱新造の方。法名心月妙圓。慶長十七年壬子四月二十二日逝。葬于松島瑞巌寺

続いて『東藩史稿』巻之十、列伝編。

側室飯坂氏、新造方ト称ス、右近宗康ノ女、秀宗君、宗清君ヲ生ム。

注目すべきは、「桑折氏系図」『寛永重修諸家譜』の段階では秀宗の母=飯坂の局、にとどまっていた誤認が一歩進んで、新造の方を飯坂の局の別称であるというところまで進んでしまったことだ。

考察するに、誤解が生まれていく順序として

  1. 宗清の養母は飯坂の局(正)
  2. 宗清の実の母は飯坂の局(誤)
  3. 宗清の兄である秀宗の実の母も飯坂の局(誤)
  4. 新造の方は飯坂の局の別称(誤)
  5. 新造の方の父は飯坂宗康(誤)
という展開であったと思われる。


■両者をフュージョンさせた架空キャラ・猫御前

以上のような経緯でしだいに混ざっていく飯坂の局と新造の方の同一人物イメージを決定的にしたのは、なんといってもNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』(1987)だろう。ドラマでは政宗の側室・猫御前として登場し、父親は飯坂宗康、秀宗と宗清の実母という設定である。

ドラマでは猫を捕まえた姿から政宗に「猫」と名付けられる

まずは「猫御前」なる名称についてだが、この大河『独眼竜政宗』放送以前に書かれた書物に「猫御前」という呼び名は存在しない。もしかしたら原作小説である山岡荘八の『伊達政宗』(1970)の時点で登場しているのかもしれないが(未確認)、いづれにせよ創作物である。

思うに、飯坂の局と新造の方という、史実上も紛らわしい二人の側室がドラマに登場してもややこしい。ドラマの演出上、二人の人物を同一人物として扱うが、それは実在の人物をモチーフとした架空のキャラクターである。それを示すためのサインとして、「猫御前」なる名称を脚本家(もしくは原作小説作家の山岡荘八)が与えたのではないだろうか。

【追記】Twitterで指摘してくださった方のご教授によると、山岡荘八『伊達政宗』の時点で「猫」の呼称が登場する様だ。

実際、ドラマでの猫御前は正室・愛姫と対称的なキャラクターとして生きているし、側室が何人いても紛らわしいだけなので、演出としては正解だったと思う。一方で、世間の飯坂の局に対する誤認にお墨付きを与えてしまう結果ともなったわけだが。


■まとめ

紛らわしいので、再度まとめてみよう。飯坂の局と新造の方と、猫御前についてである。



もっとも、新造の方についてはこの記事では『飯坂盛衰記』に従って「六郷伊賀守の娘」としたが、仙北地方の六郷氏を「新庄のもとの城主」との誤記があることもあり、彼女の素性についても少し検討が必要だと思われる。これについては後に詳しく触れてみたい。


世間の誤認を解くべく力説してはみたものの、飯坂の局も新造の方も、政宗の数ある側室の一人にしかすぎず、世間の関心を広く集めるような人物ではない。が、飯坂生まれの筆者にとっては生まれ故郷の先達として多少なりとも思い入れがある人物であり、彼女にまつわる誤解を放置しておくのもなんとも申し訳ない気持ちになってこの記事を執筆するに至った。願わくば、飯坂の局に関する真実が少しでも世に広まれば幸いである。

2017年10月30日月曜日

戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-

伊達政宗の側室のひとり、飯坂の局を語るうえでひとつ外せないテーマとしてあるのが、政宗の側室になる前の黒川式部との婚約関係だ。

もともと黒川式部との婚約があったのを、年の差を理由に離縁され、政宗の側室となった、という筋書きはどれも同じなのだが、書物によって微妙にニュアンス、ディテールが異なる。

この話が登場する資料として『飯坂盛衰記』『成実記』『政宗記』『伊達秘鑑』の4つを用いたのだが、そのあたりを読み比べながら細かく検証してみたい(他にも出典となりうる資料を御存知の方がいらしたら、是非ともご一報ください)

史料の原文はどれも【史料集】飯坂宗康の記事に収録したが、必要だと思われる個所は改めて引用する。


検証① 黒川式部とは?

伊達政宗の詳細はさておき、ここでのメインの登場人物となる黒川式部なる人物についてまず触れる。この人の割と素性ははっきりしており、黒川晴氏の叔父であるということが『飯坂盛衰記』を除く3冊と、黒川氏の系図で確認できる。また、「源姓黒川氏大衡家族譜」なる系図では氏定という諱も伝わっている。

黒川晴氏の叔父ということは、黒川氏の当主・稙国の弟、景氏の息子ということになる。黒川式部の父・黒川景氏は「源家足利黒川系図」(『大和町史 上巻』p356)に「実飯坂弾正清宗長子」とあり、飯坂氏から黒川に入嗣した人物である。

『飯坂盛衰記』巻末の「伊達分流飯坂氏系図」と
「源家足利黒川系図」(『大和町史 上巻』)を参考に作成。

この飯坂清宗なる人物は飯坂氏側の当主系図には名前がないので、誰に比定するべきか、あるいは分家の人物なのかは不明だ。しかし、飯坂氏の血を引いていることは確かで、黒川式部と飯坂の局の婚姻は、そもそも同族婚であったことになる。


検証② 黒川式部が伊達に仕えたのは?

どの資料も、黒川式部が輝宗の代から伊達に仕えだしたことは共通している。しかし『飯坂盛衰記』のみが「恨る事有て伊達へ來り」と、もともと黒川の実家には居づらい事情があったことをほのめかしている。

『飯坂盛衰記』は飯坂氏の視点に立った書物なので、邪推するならば、少しでも黒川式部の人間性を貶めることで飯坂宗康の罪を相対化しようとする意図を感じることもできる。


検証③ 縁組を命令したのは?

どの資料も、黒川式部が飯坂の局と婚約することは、式部が飯坂宗康の

  • 名代:『飯坂盛衰記』『成実紀』『政宗記』『伊達秘鑑』
  • 家督:『飯坂盛衰記』

つまり婿養子=後継者となることとセットであったことは一致している。問題は、それが誰の命によっての縁組だったかということだ。

『飯坂盛衰記』にははっきりと「政宗公の仰には」と書かれている。『成実記』『政宗記』には特に記述はなく、『伊達秘鑑』では主語が誰なのか文脈上はっきりしないのだが「命セラル」とは書かれており、上からの命令であったことは示唆されている。命令によるものであるとすれば、当時の当主・輝宗だろう。

飯坂氏は伊達の支族であるし、家臣の婚姻に主君が介入するのは当時としては何の不自然さもない。命令の主体が当時幼年だった政宗の意思だったとしても、当主・輝宗の同意は当然あっただろうし、逆も然りだ。

結論としてはあいまいだが、ある程度は当家どうしの合意が成立したうえで、伊達家当主のお墨付きを得て行われた婚姻だっただろう。

検証④ いつの事件なのか?

この事件当時、各資料にはそれぞれ飯坂の局の年齢を

  • 『飯坂盛衰記』:いまだ十歳に足らず幼年
  • 『成実記』:十計
  • 『政宗記』:ようやく十歳計り
  • 『伊達秘鑑』:十歳ハカリ幼少

としている。10歳未満とする『飯坂盛衰記』と、約10歳であったとする他3冊でニュアンスが異なるが、おおむね一致している。間をとって、事件当時の飯坂の局の年齢は8~12歳の頃だったと仮定してみよう。

検証④-a.飯坂の局の年齢
『飯坂盛衰記』には飯坂の局の没年齢が記されているので、そこから彼女の生年と事件がいつだったのか、ある程度割り出せそうだ。飯坂の局は寛永11年(1634)に66歳で亡くなっているので、逆算すると永禄12年(1569年)の生まれになる。事件当時8~12歳の頃だとするなら、天正4年(1576)~天正8年(1580)のできごとという計算になる。

飯坂の局の没年齢から逆算した事件のタイミング考察

ちなみに当時の式部の年齢だが、彼の生没年が伝わっていないので飯坂の局の様に逆算はできない。だが、ふたりの間にかなりの年の差があったことは事実のようだ。『飯坂盛衰記』は「三十の餘り」、『政宗記』は「三十に及」としており、30代であると記述、『成実記』は「年入候」、『伊達秘鑑』は「壮年」としている。


検証④‐b.「側室」ということは...
離縁のあと、飯坂の局は伊達政宗の側室となった。「側室」とは「正室」に対する言葉なので、飯坂の局が政宗の側室となったのは、すでに正室・愛姫との婚約が終わった天正7年(1579)以降のことだろう。


検証④-c.黒川氏側の記録では...
黒川式部についていろいろ調べてみたら、手掛かりになりそうな情報があった。「源姓黒川氏大衡家族譜」なる系図がそれで、『大和町史 上巻』(pp.357-360)に収められている。大衡氏は黒川の支族で、当時の当主・大衡宗氏は黒川式部の同母弟でもある。

黒川式部について詳しく載っているのでそのまま引用してみよう。

氏定 黒川源四郎式部
弘治元年春 伊達家族 飯坂右近宗信 配長女 為継嗣 居於奥州伊達郡飯坂邑 永禄六年 有故与宗信不和親 同年十月 出飯坂 赴越後州 為上杉家幕下 賜采地
元亀二年八月四日 卒於越州宮川荘 年五十一 母同宗氏

「宗信」とあるが、宗康のことで間違いないだろう。要約してみると
  1. 弘治元年(1555)春、飯坂の局と婚約
  2. 永禄6年(1563)に宗康との関係悪化(=婚約破棄か)
  3. 永禄6年(1563)に越後へ出奔
  4. 元亀二年(1571)に死去
となる。うーん、困った。というのも、飯坂の局の誕生が永禄12年(1569年)なので、1~3はタイムライン的に矛盾してしまうのだ。「わしに娘が生まれたらそなたの嫁にくれてやろう」的な口約束があった可能性もあるが、生まれる前の娘と婚約し、それを反故にされたから他国へ出奔というのはちょっと考えにくい。当の飯坂の局が生まれる前のできごとだとしたら、ここまでの大ごとにはなりようがない。

しかも、この資料を注意深く読んでみると「長女を配す」とあるのだが、飯坂の局は飯坂宗康の次女である。「上杉家の幕下と為る」という他の資料には出てこない情報といい、宗康を宗信と誤表記するなど、どうもこの系図、細かい間違いが多そうだ。

上記の推論と整合性を持たせるならば、永禄6年が天正6年の誤りだとすると、つじつまが合いそうだ。すなわち

天正6年:飯坂の局10歳、式部と離縁

である。10歳に達しているので「十歳に足らず」とする『飯坂盛衰記』と矛盾するが、「然るに宗康兼々の所存に。式部は已に三十の餘り。娘はいまだ十歳に足らず。不都合なる故。此人に世を譲る共久しき契にも有まじ。殊に我身の榮花も久しからし。所詮式部と父子ノ緣を切。」なので、文脈の順序として宗康が二人の婚姻を「不都合」に思ったのが10歳未満のとき、実際の離縁は10歳になってからと考えると無理やりではあるがつじつまがあう。


検証④の結論
以上の考察を総合して、本考察では

  1. 天正5年(1577)より前:飯坂の局と黒川式部との婚約
  2. 天正5年(1577)より前:舅の飯坂宗康、黒川式部をうとましく思う様になる
  3. 天正6年(1578):離縁
  4. 天正6年(1578)以降、黒川式部、越後へ出奔
  5. 天正7年(1579)以降、飯坂の局、政宗の側室となる
という時系列を結論としたい。


検証⑤ 離縁の理由は?

これについてはほとんど一致している。

  • 飯坂の局と黒川式部に年の差がありすぎたこと
  • 宗康が、黒川式部に飯坂の家を継がせることが嫌になったこと
  • どうせ美人な娘なら、政宗に嫁がせようと目論んだこと

である。飯坂氏視点の『飯坂盛衰記』ですらこれを認めているので、信憑性はあるだろう。

『伊達秘鑑』には「(宗康が)輝宗ヘハ作惡ヲ訴ヘテ。名代ノ緣ヲタツ」という一文があり、飯坂宗康が黒川式部との縁を絶つにあたって輝宗に対し「作惡」、つまりあることないことを吹き込んで離縁の口実にしたと書かれている。他の資料には登場しない話であり、脚色の可能性も高いが、ありえない話ではない。


検証⑥ その後の黒川式部は?

これも一致している。実家である黒川には戻らず、越後へ去ったという。

なお、『飯坂盛衰記』意外の3冊は、この事件がのちに黒川晴氏が大崎合戦の際、伊達に背いて大崎方へついた理由の一つであるとしている。そもそも文脈上、この話が出てくるのは大崎合戦の際になぜ黒川晴氏が裏切ったのか? というエピソードとして登場する。

このエピソードはNHK大河『独眼竜政宗』でも登場する。
政宗「黒川月舟(晴氏)の寝返りは猫のせいだぞ。月舟は身内の許嫁を俺に取られて恨んでおるのだ」
猫御前「うれしゅうございます。殿は猫一匹と黒川の所領をお取替えになりました」

黒川晴氏は式部から見て甥にあたる。彼の目から見れば、叔父の婚約者を伊達政宗が略奪したように見えたのだろう。略奪婚は晴宗の代から伊達の伝統といえば伝統である。面子を失った叔父は、あわれ越後の国へ去った。

黒川晴氏はそこまで単純な動機で伊達に背く人物とは思えないが、心のしこりがあったことは確かだろう。

なお、「源姓黒川氏大衡家族譜」のみが越後に去った式部は上杉家に仕えたとしているが、その信憑性についてはここではあまり深入りしないでおく。


結論

以上の検証を総合すると、以下の様になる。

  • 天正5年より前:伊達家当主・輝宗のお墨付きを以って飯坂の局と黒川式部との婚約。黒川式部は飯坂氏の次期当主となる予定であった。
  • 天正5年より前:舅の飯坂宗康、黒川式部をうとましく思う様になる。理由は娘との年の差や、娘を式部よりも政宗の側室とした方が家の繁栄につながると考えたから。
  • 天正6年:実際に離縁
  • 天正6年以降、黒川式部、越後へ出奔
  • 天正7年(1579)以降、飯坂の局、政宗の側室となる
  • 天正16年(1588)、黒川式部の甥・黒川晴氏、大崎合戦にて伊達に背いて大崎方として参戦

最後に、この一連のできごとがそれぞれにとってどういう意味を持ったのか考察してみたい。

まず、黒川式部だが、許嫁との婚約を反故にされ、メンツを失い実家にも帰れず、異国の越後で再スタートを切ることになったのだから、損失しかないうえにダメージは大きい。

飯坂氏にとっては、一見プラスが大きい様に見える。飯坂の局は政宗の側室となり、飯坂宗康も(側室とはいえ)伊達家当主・政宗の岳父の地位を手に入れ、地位は向上している。しかし、政宗と飯坂の局の間に子は生まれず、念願の飯坂氏の跡取りは宗清の入嗣(慶長9年(1604))を待つことになる。

筆者は、この一連のできごとによって一番のダメージを負ったのは、実は伊達政宗ではないかと思う。

『飯坂盛衰記』によれば、政宗は「其容色世に勝れ」た飯坂の局を側室に迎え「御喜悦淺からず」という喜び具合だったという。一時は正室・愛姫との不仲もあったから、側室・飯坂の局の存在が政宗の心の支えになったこともあっただろう。

その見返りとして政宗は、黒川晴氏の恨みを買い、これが約10年後に大崎合戦の大敗に結びついてしまう。前述のとおり、黒川晴氏の離反については彼の婚姻関係など他の要素も見逃せないし、筆者は黒川晴氏が私情だけ伊達への事切れに及ぶような単純な人物であったとも思わない。だが、このできごとがなければ、黒川晴氏は伊達に背くという選択に走らなかったかもしれない。

大崎合戦の敗北がなければ、それに連動した最上との戦や、佐竹・蘆名の侵攻(郡山合戦)も起こらなかっただろう。大崎合戦の敗北を機に、政宗にとっての天正16年(1588)が四面楚歌の苦境となってしまったのは事実で、それがなければ政宗の仙道制覇はもう少し早まっていたかもしれない。

2017年10月24日火曜日

【資料集】飯坂宗康

伊達家の武将・飯坂宗康についての史料・資料の抜き出し。飯坂宗康は伊達の支族にして飯坂城主。娘の飯坂の局は伊達政宗の側室となった人物である。各資料を編年の順で抜き出した。

飯坂氏に触れた資料の代表格『飯坂盛衰記』
『仙台叢書』第6巻より


01.飯坂氏、宗康の出自
01-1.『飯坂盛衰記』
...爲家より四代の孫 伊賀守 政信。初めて伊達を改め飯坂氏と號す。是より代々相續し。十四代の孫 飯坂 右近大夫 宗康に至り。世嗣の子なく息女二人もち給う。一女は桑折摂津守政長に嫁し。次女はいまだ幼年にて家に有。宗康元より伊達の一家なれば。政宗公まで代々伊達へ仕へければ。
爲家:伊達為家。伊達家の初代・伊達朝宗の4男。飯坂家はこの伊達為家を祖とする。
伊達の一家:当時の伊達家家臣団の家格は藩政時代と比べてかなりおおざっぱで、せいぜい一門・一家・一族くらいの序列であったという。飯坂氏の家格が「一家」であったというのは01-3.の『伊達世臣家譜略記』とも一致する。


01-2.『伊達分流飯坂氏系圖』
宗定
同但馬守。或和泉守。或重定 或持康。童名 孫四朗。妻 桑折長門宗保女。伊勢宗季之姉也。 
宗康
童名小太郎。右近大夫 或宗泰。晴宗公ヨリ輝宗・政宗マデ伊達ニ仕ヘ。一家也。天正十七年己丑九月二日卒。法名雲岩起公ト號ス。飯坂天王寺ニ葬。妻ハ桑折播磨守宗茂女。點了斎宗長等姉。慶長十七年壬子四月廿二日歿。法名心月妙圓ト號。飯坂天王寺ニ葬ル。 
女子
飯田紀伊宗親妻。宗康妹也。
宗康の父・宗定から抜き出した。実際には前後にも飯坂家歴代当主・親族の名が並ぶ。縁者として桑折氏の名前が多く出てきて混乱するが、飯坂氏と桑折氏の血縁関係についてはこちらの別記事(作成中)を参照。宗康の妹の夫である飯田宗親も桑折支族である。


01-3.『伊達世臣家譜略記』
飯坂者當家一家之臣也。其先世住于伊達郡飯坂城。以爲稱號。先祖右京宗康。(十六世輝宗君十七世政宗君両世間人)以前家系不傳。故其姓及出自。列一家之由。共不詳也。宗康有女無嗣。其女甞爲十七世政宗君侍妾。號飯坂局。養君第三男河内宗淸。為宗康後。
・家系不傳:「伝わらず」とはあるが、実際には上記01-1.と01-2.によりある程度は伝わっている。藩の修史事業の産物である『伊達世臣家譜略記』には採録がならなかったようだ。


02.天正4年 対相馬の陣
元亀の変(中野宗時の乱)の後に権力を集中させた伊達輝宗がかけた相馬に対する大動員。伊具郡を奪回するための軍事行動である。福島盆地から宮城県南部にかけて阿武隈川流域の武将たちがほぼ動員されている。

02-1.『性山公治家記録』巻之三 天正四年 八月二日の条
〇八月丁酉大二日壬戌。備頭ノ輩ニ命シ、連判誓詞ヲ奉ラシム。今度相馬ト御戰ニ就テ、御陣ヲ伊具郡ヘ移サル。諸陣一致ノタメ此義ニ及フ。 道祐君(晴宗)モ 公ト同ク伊具表へ御出陣ナリ。誓紙左ニ載ス。
(略)
十三番 飯坂 右近大輔(伊達郡飯坂城主、飯坂宗康)
十三番 瀬上 三郎  (信夫郡大笹生城主、瀬上景康)
十三番 大波 平次郎 (大波長成カ)
十三番 須田 左馬之助
十三番 同 太郎右衛門
十三番 同 新左衛門
(略)
相國之人數一戰此旁々任異見申御下知ニ候
元安齋 (亘理元宗) 飯坂  桑折
中嶋伊勢(中島宗忠) 小梁川 小原丹後(小原元繼)
大枝三河(大條宗家) 泉田  中目
和田利安房
敬白起請文
:『性山公治家記録』なので、ここでは当時の当主・伊達輝宗を指す。
相國:相馬のこと
旁々任異見申御下知ニ候:一戦交えるにあたり、異見(意見)を聞いて命令を下した、の意

実際には1~17番備まで、伊達家の錚々たる名が並んでいるのだが、長くなるので飯坂宗康が登場する13番備と、起請文の前後だけ抜粋した。フルメンバーが気になる方はこちらの記事を参照のこと。宗康は13番備の筆頭であり、起請文の文末にも名が登場することから、ある程度軍議で発言できるポジションにいたのではないかと推測できる。


03.飯坂宗康とふたりの婿
それぞれ、宗康の娘(飯坂の局)は黒川式部と結ばれる予定であったのが反故にされ、政宗の側室になった事件について述べられているが、ディテール、ニュアンスにそれぞれ差異がある。このできごとについてはこちらの検証記事を参照のこと。

03-1.『飯坂盛衰記』
其此黒川式部と云者有。元來黒川の一家なれ共。恨る事有て伊達へ來り。輝宗公より政宗公まで御奉公申ける。依之政宗公の仰には。式部を宗康の家督となし。名代に相立可然旨仰付られけれ共。娘幼年なれば申合斗にて。いまだ婚禮はなかりけり。然るに宗康兼々の所存に。式部は已に三十の餘り。娘はいまだ十歳に足らず。不都合なる故。此人に世を譲る共久しき契にも有まじ。殊に我身の榮花も久しからし。所詮式部と父子ノ緣を切。 
娘をば政宗公へさし上側室ともなし。御子もあらば申受。飯坂の家を嗣せ奉らば。家の繁榮身の榮花。武運も長久なるべし。殊に政宗公は御年も相應にて。御心も賢勇におはしませば。彼是以然るべしと思ひ立。式部とさしたる事もなきに。兎や角と節を付終に親子の緣を切る。式部は是を無念に思ひつゝ。伊達を引切り黒川へも歸らず。越後の國へ立去たり。

03-2.『成実記』
黒川月舟逆意の底意は。月舟に叔父に候黒川式部と申候者。輝宗公御代に御奉公被申上候。飯坂城主右近太輔と申者之息女。契約候而。名代を被相渡候由被申合候得共。息女十計之時分は式部年入候而。其外之隠居も早可之候。政宗公御めかけにも上候而。腹に御子も出来名代に相立候様に。申上候はゞ家中の爲に能可之由。致思案違戀被申候に付。黒川式部迷惑に存候。月舟所へも不参越後引切申候。此御恨又月舟は大崎義隆御爲繼父に候。義隆御舎弟に義康を月舟の名代續にと被申。伊達元安の聟に被致候間。月舟手前に被差置候間。義隆滅亡に候はゞ以来は。其身の身上を大事に存し。企逆心由相見得候。
伊達元安:亘理元宗(元安斉)のこと。大崎義隆の弟にして黒川晴氏の養子となった義康は、亘理元宗の娘を妻とした。


03-3.『政宗記』
黒川月舟晴氏逆心彈正氣遣
されば伊達へ晴氏。逆心の子細をいかにと申すに。其昔月舟伯父に黒川式部と云けん者を。輝宗代々月舟方より奉公に差上けり。爾るを信夫郡飯坂城主右近。右の式部を聟にして名代を譲らんと云契約也。爾りと雖ども娘漸十歳計りなるに。式部は其年三十に及ければ。約束迄にて未だ祝言もなし。其内右近思ひけるは。式部は娘に年も似合ず。又我身の隠居も程あるまじきに。彼娘を政宗へ差上。若も此の腹に御子出なば申し請。名代になす程ならば。家中の為にもよかるべきと思ひ。右の契約違變なり。故に式部面目を失ひ。月舟方へも行ずして。直に越後へ引切けり。此恨亦月舟は義隆へ繼父なりしが。義隆弟の義康を名代に定め。伊達元安息女を彼義康へ取合。月舟手前に置ける故。義隆滅亡ならば末の身の上大事に思ひ。今度の逆心理りなり。

03-4.『伊達秘鑑』
偖又黒川月舟逆心ノ濫觴ハ。月舟カ叔父黒川式部ト云者。輝宗君ノ時伊達ヘ奉公ニ参リシヲ。飯坂ノ城主飯坂右近ト云者の壻養子トシテ。右近名代ニ相立ヘキ旨命セラル。其頃右近娘ハ 十歳ハカリニテ。式部ハ 三十餘ナレハ。娘幼少タルニ依テ。婚姻ハナク言號ハカリナリ。右近所存ハ式部コトハ。年モ抜群相違ナレハ。渠ニ家ヲユツリテモ。當時壮年ノコトナレハ。隠居モ程アルマシ。然レハ身ノ榮花僅ノ内ニテ。ハカナキ親子ノ契リナルヘシ。此緣ヲ變替シテ娘ヲ政宗ヘ参ラセ。御子アラハ飯坂ノ家ノ後榮タルヘシト思ヒ。サセルコトモナキニ式部と義絶シ。輝宗ヘハ作惡ヲ訴ヘテ。名代ノ緣ヲタツ。此時式部無念ニ思ヒ。伊達ヲ引拂ヒ。黒川ヘモ不歸。越後路へ赴キケル。其後飯坂ノ名代ヲ不定シテ事ヲノハシ。娘ヲハ政宗ヘ宮仕ニ差出ス。此恨ヲ含ンテ月舟伊達ヘ敵トナル。
濫觴:らんしょう。事の始まり。起源。


04.郡山合戦、窪田の戦い
伊達政宗にとっての正念場・郡山合戦に飯坂宗康が出陣していたことがわかる史料。当時(天正16年(1588))、伊達は北に大崎・最上、東に相馬および田村家中相馬派、南に佐竹・蘆名・二階堂と四面楚歌の状況だった。飯坂宗康は戦の焦点のひとつ、窪田砦の守備を任された様だ。

04-1.『飯坂盛衰記』
かくて宗康は政宗公に随ひ。佐竹 會津 仙道等の合戦に。數度の軍功有。殊に天正十六年 六月十日。佐竹義重 會津義廣・岩城常隆。須賀川輝隆。何れも申合され。政宗公を打滅さんと。安積表へ會陣ある。其外加勢の面々 雲霞の如くなり。 
政宗公兼て聞及給ひ。既に用意の事なれば。宮森を御出陣なされ。郡山へ御對陣なされける。此時窪田の城を心もとなく思召。飯坂右近大夫宗康を大蔣として。大嶺式部を相添小勢にて。籠城せさせけるに。 
宗康鐵石の如く堅固に守りければ。寄手の大勢 如何とも成がたく。遂に軍を班しけり、宗康は城の上より見渡し。すはや敵の足並亂しぞ。切て出よと下知すれば。早雄の若者共一度にどつと切て出て。追討に切ければ。敵大勢とは申せども。返し合する者もなく散々に亂れ立ち。右往左往に走り行く。小勢を以大敵を欺く事。比類なき事なりとて。政宗公御感心淺からず。
會津義廣:会津領主 蘆名義広。佐竹義重の子にして、会津 蘆名家の養子となった。
須賀川輝隆:須賀川領主・二階堂家の誰かを指していると思われるが、詳細不明。この時期の二階堂家は当主・盛義が既になく、未亡人である阿南姫(伊達政宗の叔母)が当主代行、家臣・須田盛秀が城代として統治を行っている。
飯坂右近大夫宗康を大蔣として:同じ窪田の合戦に触れた『貞山公治家記録』(04-2.)には飯坂宗康=大将、という記述はないが、筆頭ではある。
大嶺式部:大嶺信祐。『治家記録』には政宗の使者として度々登場する人物だが、仙台藩には大嶺を称す家は残っておらず、詳細は不明。
早雄:はやりお。逸り雄とも。血気盛んな者。


04-2.『貞山公治家記録』巻之五 天正十六年 六月十五日の条
此時窪田城へ飯坂右近宗康・大嶺式部信祐、福原城へ瀬上中務景康、高倉城へ大條尾張宗直 右三箇所ノ本丸ヲ請取ルヘキ旨仰付ラレ差遣サル。
本丸ヲ請取ルヘキ旨:現地の城主に代わって、伊達の派遣司令官としてそれぞれが指揮を任された、という意味だろう。


04-3.『奥羽永慶軍記』巻十五 佐竹、伊達と安積合戦岩城・石川扱の事
 伊達左京大夫政宗、此の注進を聞くよりも安積表に馳向ふ。今度も相馬境・最上境に勢を配り、番手を差置き給へば、旗本に残る人数八百騎の外はなし。陣触に付て集まる勢には、桑折入道黙(点)了・小梁川泥蟠斎・原田休雪斎・同左馬介・白石若狭守・浜田伊豆守・富塚近江守・遠藤文七郎・伊藤肥前守・飯坂右近・大嶺式部・瀬上中務・大条尾張守等なり。外に大森に片倉小十郎、二本松に伊達安房(阿波イ下同)守、郡山には兼て鉄砲二百挺・与力三拾騎を籠置きぬ。奉行には大町宮内・中村主馬・森六郎左衛門・小島右衛門尉等なり。並びに八町の目・信夫・郡山・福原・窪田の軍勢馳参る。
此の注進:佐竹・蘆名連合が北上してきた、との知らせ。


05.政宗に肴を献上
05-1.『貞山公治家記録』巻之七 天正十六年 十月十九日の条
〇十九日己亥。飯坂右近宗康ヨリ使者ヲ以テ御肴獻上セラル。

この日の記録はこの一行のみだが、前後して他の家臣からも献上物があった記述が目立つ時期ではある。


06.対岩城 田村領防衛戦
前年までは伊達との関係が良好であった岩城氏が、伊達の同盟国(実質的には保護国)である田村領に侵攻してきた事件。天正17年(1589)春のできごと。

06-1.『飯坂盛衰記』
同十七年三月廿四日。磐城常隆 田村城主淸顯 卒去の後。政宗國を預り給ふといえ共。主君なき故に家中の面面心々に成ければ。此虚に乗じ國を攻とらんと用意の由。米沢に聞えけれ共。政宗公は去冬の落馬にて足を痛めさせ給ひ。今に全快ならざれば御出陣なく。 
田村の加勢には。飯坂右近宗康を大蔣として。瀬上中務・桑折治部を相添られ。其外大勢引具し田村へ發向す。常隆 此由をつたへ聞。田村境迄出陣有けるが。叶難くや思はれけん。遂に軍を返し給ひけり。
同十七年三月廿四日:天正17年(1589)。この日付は文脈直後の田村清顕の死去の日(天正14年(1586)10月9日)ではなく、磐城常隆の出陣(天正17年(1589)4月15日)でも、政宗の落馬(同2月26日)でもない。同じできごとに触れた下記06-2.の『貞山公治家記録』の日付とも約1か月の誤差がある。『貞山公治家記録』の3月24日の条には、岩城との合戦についての記述はなく、何の日付なのかは不明。
政宗國を預り給ふ:田村清顕の死後、彼の遺言に従って伊達に従うべきという田村の基本方針を指している。事実上、この時期の田村氏は伊達の保護国化しているが、それに反発する田村家中の親相馬・岩城派と伊達派の間で内紛状態となっていた。
瀬上中務:瀬上景康。信夫郡 大笹生城主。飯坂宗康にとっては最も近隣の城主である。
桑折治部:桑折宗長。飯坂宗康にとっては義弟(妻の弟)にあたる。
遂に軍を返し給ひけり:磐城勢が何もせず帰陣したかの様な書き方だが、実際には飯坂宗康らの増援が到着する前に、鹿股城が落とされている(05-2.参照)。


06-2.『貞山公治家記録』巻之八 天正十七年 四月廿一日の条
此日比、鹿股落城スト云云。此城ハ小野・大越ノ間ニシテ田村ニ奉公ノ地ナリ。今度磐城殿常隆近陣セラル。小野・大越ヘハ程近ク、田村ヨリハ手遠ニシテ助援モ叶ワサル地ナリ。故ニ 六七日城ヲ持ツトイヘトモ不叶シテ、城主鹿股久四朗・加勢 福原孤月斎等磐城ニ侘言シ、城ヲ明渡シテ田村ニ引退ク。此由 公聞召シ、桑折播磨宗長・飯坂右近宗康・瀬上中務景康ヲ田村ヘ遣サル日不知
・田村ヘ遣サル:「日知れず」とはあるが、前後の文脈からみて援軍派遣は4月21日以降のことであろう。増強の援軍として派遣された後、実際の戦闘はなかった様だ。また、上記06-1.では「飯坂右近宗康を大蔣として」とあるが、こちらの『治家記録』では桑折宗長が筆頭である。


07.政宗、飯坂の湯で療治
直接飯坂宗康の名前が登場するわけではないが、飯坂温泉の湯で政宗が療治したことが記されている。であれば、その手配や湯治の勧めをしたのは、飯坂の領主・宗康であった可能性が高い。

07-1.『伊達天正日記 九』
ミ 廿八日
天気よし。従飯坂小湯参候。則ゆてさせられ候。重実かへり被成候。いつミた殿御参候。あハの方も被参候。くりでへひつけまいるヲからめ、白石殿上御申候。
・ゆてさせられ:茹でさせられ、煠でさせられ
・重実:伊達成実
・いつミた殿泉田重光。岩沼城主。
・あハの方粟野宗国。北目城主。
・くりでへひつけまいるヲからめ:最初意味不明だったが、07-2.『治家記録』と読み比べると「栗出に放火した敵兵を捕まえた」という意味だとわかる。栗出とは現在の福島県 田村市 大越町 栗出のことだろう。06-2.でも触れられている通り、大越は係争地である。


07-2.『貞山公治家記録』巻之八 天正十七年 四月廿八日の条
〇御痛御療治トシテ、飯塚より溫湯ヲ汲寄セ浴セラル。〇藤五郎殿、片平大和、各在所ニ還ラル。〇泉田安藝・粟野大膳國顯着陣セラル。〇白石右衛門ヨリ敵兵ヲ生捕リ贈獻セラル。栗出へ放火ノタメ忍ヒ來シヲ搦捕ルト云云。
・御痛御療治:政宗は天正17年(1587)2月26日に落馬で骨折しており、その療治かと思われる。
・飯塚:飯坂のこと。飯坂は温泉地として有名。


08.対相馬 田村領防衛戦
岩城に呼応して田村領を窺う相馬に対する防衛戦。実際には揺動としての動きに近かったようで、相馬の目を田村方面にひきつけた政宗本隊は、相馬北部の駒ヶ嶺城を5月19日に、新地蓑首城を5月21日に落城させている。

08-1.『貞山公治家記録』巻之九 天正十七年 五月十八日の条
抑今日相馬表へ御出馬ノ義ハ今度磐城殿常隆・相馬殿義胤仰合ラレ、常隆ハ小野ニ在馬、義胤ハ田村ノ内岩井澤ヘ出馬セラレ、御相談ヲ以テ田村ヘ相働カルニ就テ、兼日田村警固トシテ大條尾張宗直・瀬上中務景康・桑折摂津政長・飯坂右近宗康を差遣サル。
差遣サル:田村への援軍として派遣された4人の武将のうち、瀬上景康と飯坂宗康は05.対岩城 田村領防衛戦と同じメンツとなる。その間、一か月もないので、実際には引き続き田村領の防衛を継続していたのではないか。


09.死去
09-1.『飯坂盛衰記』
此武勇の譽れ世に聞えたる大蔣なれども。無常の殺鬼は防ぎ得ず。秋の初の比よりも不例の心地とて。病の床に臥し給ひ日を追って頼少く見えにける。 
政宗公は所々の軍に御暇もあらざれば。使を以病を問はせ給ひける。宗康禮義を調へ使者に對面し。御陣中御暇なき時節御心に懸させられ。貴公を是まで勞せらる不棄の恩。又いつの世にか報ずべき。某此度の病治しがたく覺たり。 
口おしや今最中諸方の軍戰に。厚恩を謝し奉らす相果なば。領知は君に奉る。局の方に御子も出生せば。飯坂の名迹を御立下され度由願奉る。宜く萬事頼入とぞ申ける。使者は委細に承知して。我家にぞ歸りける。 
斯て宗康は次第に重り給ひければ。局も打越給ひつゝさまヾヽ心を盡し。諸神諸佛に祈誓を懸。醫術を盡させ給へども。其かひ更になく日々に弱り。夜々に衰へたまひ。天なるかな時なるかな。
天正十七年九月二日。暁天の霜と消え行き給ひけり。妻子眷族の其歎何に譬ん方ぞなき。されども歸らぬ道なれば。一箇の塚とぞなりにける。悲しい哉百年の壽を願ひしも。一場の夢と成ぬるはかなさよ。法名は雲岩起公と號し奉り。飯坂天王寺へ葬り奉る。無常世界ぞ是非もなき。其後局は米澤へ歸らせ給ひ。父の御菩提怠らず。花を献じ香を盛り。明暮問せ給ひける。心の中こそ殊勝なれ。
・秋の初の比より:「秋の初」が具体的にいつ頃を指すのかあいまいだが、9月2日(今の暦に直すと10月初頭)の死去とするなら、急激に容体が悪化したことになる。実際にはこれより前の対岩城・相馬 田村領防衛戦で傷を負ったか、病を押して出陣していたかのどちらかではないか。
不例:貴人の病のこと
飯坂の名迹を御立下され度由:娘・飯坂御前と政宗の間に子はできなかったが、後に他の側室(新造の方)と政宗の間に生まれた宗清を後継として、飯坂家の名跡を継続させる約束が実現した。
飯坂天王寺:後に飯坂御前の移動に伴い、下草を経て吉岡へと移った。現在、吉岡では「天皇寺」と表記するが飯坂にも「天王寺」が残っている。二つの寺の関係については調査中。


10.未発見の政宗文書
飯坂宗康について調べてて不思議に思うのが、あれだけ筆まめとして知られる伊達政宗でありながら、側室・飯坂の局とその父・宗康に宛てた手紙が残っていないということだ。『仙台市史 資料編 伊達政宗文書』1~4を当たってみたが、発見には至らなかった。宗康も側室の父とはいえ、いちおう岳父にあたる。やはりない方が不自然である。

だとすれば、飯坂家断絶に際して史料が散逸したのだろうか。政宗の手紙は今日も次々と発見が続いているので、今後の発見に期待したい。また、『伊達政宗文書』の内容すべてをチェックしたわけでもないので、別の人物宛の手紙に飯坂氏の名前が登場している可能性もある。引き続き調査を続けたい。


■各資料の解説

『飯坂盛衰記』
飯坂氏をテーマに扱ったおそらく唯一の書である。文章は『仙台叢書』第6巻(仙台叢書刊行会、大正13年(1924))に拠った。『仙台叢書』の解題によれば「但し何人の手に成りしものなるや。明かならざれども。其筆法より考察するに。絶家後に於て。其遺臣などの記述したるものならん乎」とあり、いつごろの成立で誰が書いたものかは不明だが、飯坂氏の旧臣の手によるものではないかとされる。

飯坂氏については一番詳しく書かれた書であることは確かだが、飯坂氏の視点に立ったものであり、こうして他の記録と照合してみると細かな間違いも目立つため、その点には注意が必要。文学的な表現も多く見受けられ、多少の脚色・誇張も含まれていると思われる。

なお、この巻末に飯坂氏の系図である『伊達分流飯坂氏系圖』が収録されている。また、実際には連続した文章だが、引用にあたっては可読性向上のため適宜改行、スペースを挿入した。


『伊達治家記録』
仙台藩で編集された仙台藩、および伊達家の正史。現代の研究においては誤りも指摘されている箇所はあるものの、比較的信頼性は高い。ここでは輝宗の代の『性山公治家記録』と政宗の代の『貞山公治家記録』を用いた。どちらも4代藩主・伊達綱村田辺希賢、遊佐木斎ら仙台藩の儒学者を用いて1703年(元禄16年)に完成させたもの。

文章は『仙台藩史料大成 伊達治家記録 一』(宝文堂、昭和47年(1972))に拠った。


『伊達天正日記』
天正15年(1587)1月1日~天正18年(1590)4月20日まで、飛び飛びではあるものの伊達家の公式記録として書かれた日記を集めたもので、信憑性は高い。『伊達治家記録』の下敷きにもなった史料。

文章は『第二期 戦国史料叢書11 伊達史料集(下)』(小林清治校注、人物往来社、1967)に拠った。


『成実記』『政宗記』
伊達政宗の従兄弟にあたる伊達成実が著した軍記。タイトル、内容の異なるいくつかのバリエーションがあるが、ここでは『成実記』『政宗記』を用いた。晩年の寛永年間(1624~1644)に記したとされる。

今回引用した部分はどちらも大崎合戦に関する記述であるため、飯坂氏については本論ではない。しかし、今回用いた史料のなかでは唯一同時代人によるものであり、政宗の側室に関するデリケートな部分ではあるが、それを知りうる成実の立場を考えても、信頼性は高いと言える。

それぞれ文章は『成実記』は『仙台叢書』第3巻、『政宗記』は『仙台叢書』第11巻に拠った。


『伊達秘鑑』
明和7年(1770)に半田道時なる人物が書いたとされる伊達政宗を中心とした軍記物。実在性の疑われる忍者集団・黒脛巾組が登場するなど、脚色が多いとされるが、今回引用した部分に限って言えば上記の『成実記』『政宗記』を下敷きにして書いたのではないかと思われる。

文章は『仙台叢書 復刻版 第十七巻 伊達秘鑑 上』(宝文堂、昭和47年(1972))に拠った。


『奥羽永慶軍記』
出羽の国 雄勝郡の戸部正直(一憨斎、一閑斎とも)が諸国を旅しながら古老へのインタビュー、史跡訪問を続けて元禄11年(1696年)にまとめあげた書物。軍記物語として「文学」に分類されることも多く、明らかな史実上の誤りや混同も散見されるが、今回取り上げた資料の中では『伊達天正日記』『成実記』『政宗記』に次いで古い。

文章は『奥羽永慶軍記 復刻版』( 無明舎出版、今村義孝校注、2005)に拠った。


『伊達世臣家譜略記』
詳細は調査中。伊達家の公式家臣録である『伊達世臣家譜』に先駆けて編集されたものか。『世臣家譜』では収録されていない、断絶した家である飯坂家についても記載があるのは貴重である。文章は国立国会図書館デジタルコレクション版(47コマ)に拠った。

2017年10月8日日曜日

血統書診断 -伊達政宗の場合-

当たり前のことだが、人間は父親と母親から生まれる。仮に父親を田中家、母親を山田家の人間だとすると、子供には田中・山田両家、2つの家系の血が混じっていることになる。

もうひと世代、祖父・祖母の代までさかのぼれば4家、曾祖父・曾祖母の代になれば8つの家の血が流れている計算になり、代をさかのぼるごとにその数は倍になっていく。

一言で田中家の人間、といっても、その体には多くの家の血が流れており、「田中」というのは父系の苗字を便宜的に名乗っているにすぎないのだ。

■ 伊達政宗の血統

歴史上の人物についてもそれは同じで、伊達政宗も、伊達家の正統な嫡男というイメージが強いが、その体にはいろんな家の血が流れている。というわけで、政宗にはどんな家の血が流れているのか、ちょっと確認してみる。

下の図は一見トーナメント表のようだが、政宗本人の両親、両親の両親…といった具合に血筋をたどった家系図になっている。縦方向に枝分かれしていくおなじみの家系図とはちょっと印象が違うが、ヨーロッパ史ではたまに使うことのある家系図のスタイルで、同世代の横のつながり、つまり兄弟や叔父・叔母の関係を完全にそぎ落としているかわりに、誰の血を継いでいるのかがダイレクトにわかるつくりになっている。

いわば、伊達政宗の血統書である。


とりあえず、政宗から5世代前の先祖までをたどってみた。5世代前となると32の血脈にいきつくことになる。

こうしてみると、意外と政宗の先祖については明確に人物を特定することが難しいことがわかる。この時代はどうしても母系、つまり女性の名前が残りにくいことと、父系の伊達家と比べて、母系の最上・中野家の情報が不足しているのが大きい。

ほとんどが「不明」で埋まってしまったので、もう少し整理してみると


こうなった。32の血脈のうち、判明したのは9つ、約1/3しかわからなかったことになる。

■ 対立した大名家の血をことごとく継いでいる

自分の出自である伊達家はさておき、政宗には大崎氏、上杉氏、蘆名氏、宇都宮氏、岩城氏、最上氏の血が流れていることがわかる。これらの大名は、実はことごとく政宗と(が)敵対した大名であることに気付く。

  • 大崎家:大崎合戦にて対峙し、後に従属させる
  • 上杉氏:関ケ原の戦いに連動した慶長出羽合戦で対決
  • 蘆名氏:摺上原の戦いで滅亡においやる
  • 岩城氏:田村領をめぐる戦いで敵対
  • 最上氏:叔父である最上義光との関係が芳しくなく、大崎合戦で敵対した。

残る宇都宮氏とは直接対戦したことはなかったが、これはその前に秀吉による奥州仕置を迎えてしまったから、と考えると、対立は時間の問題だったようにも思える。蘆名氏を滅亡させたあとの政宗は、北関東へのさらなる南下と、その障害となる佐竹氏との対決を予定していた。宇都宮氏はその佐竹氏と盟友関係にあったから、もし政宗の南下戦争が続いていたら、そのうち敵対関係に陥っていたことが想像される。

ただし、この時代の大名、特に東北の大名の間には血縁ネットワークが張り巡らされているのが常であり、特に政宗において顕著な現象ではないかもしれない。親戚どころか、親兄弟との争いですら珍しいことではなかったのが戦国大名である。

■ 大崎氏・上杉氏の血を2重に継いでいる

政宗の血脈をたどると、大崎教兼の血を2重にひいていることがわかる。もっとも、大崎氏は伊達氏のおとなりさん大名であるし、大崎教兼の時代、大崎氏は奥州探題の職についており、家格は伊達氏よりも上だった。そう考えると、大崎氏との結びつきが大切だったことがわかる。

また、上杉氏の血も2重でひいている。伊達・蘆名ともに隣接する越後の上杉氏との関係を重視したことの表れであろう。

ちなみにこの上杉氏は、上杉謙信とは別系統の上杉氏である。

■ つまりは斯波氏の血が濃いということに

大崎氏の血脈が2重になっているのは母方の最上氏にも大崎氏の血が流れているからであるが、最上氏ももとをたどれば大崎氏にいきつく。

そして、最上氏も大崎氏ももともとは斯波家兼という人間が祖である。右の円グラフは、政宗の血統を家ごとにパーセンテージ化したものであるが、2重に血を引いている大崎氏・上杉氏が共に6.3%ずつ、その他の大名が3.1%ずつ、不明が71.9%となっている。というわけで、大崎氏と最上を併せて斯波氏というくくりを設けるならば、斯波氏の血統が最も強いことになる(もっとも、「不明」の割合が大きすぎるのでなんともいえないところではある)。

ちなみに、それぞれの家系をさかのぼると

伊達藤原氏宇都宮藤原氏
大崎源氏岩城平氏
上杉藤原氏最上源氏
蘆名平氏
となる。

■ まぁ、こんな分析よりも…

と、ここまでいろいろやってみて、あんまこの分析意味ないんじゃねーか? と思えてきた。というのも、政宗の性格・行動を見ている限り、どう考えても母親である義姫の血が濃いのでは? と思うことが多いからだ。

画像は「信長の野望・創造」より
なんとも血の気の多い顔をした母と子である。
それなりに似ている。画家も意識したのだろうか。
義姫は、女性でありながら
  • 父・最上義守と兄・最上義光の争い
  • 兄・最上義光と夫・伊達輝宗の争い
  • 兄・最上義光と子・伊達政宗の争い
を仲裁、というよりも無理やり止めさせたという武勇伝をもつ。対峙する両軍の陣中を駕籠でつっきっただの、間に輿でのりこんで停戦させただの、あるいは政宗毒殺未遂事件をおこしたりなど、その男勝りのエピソードには枚挙に暇がない。

政宗について一言で説明しろ、と言われた場合「東北の覇者」だとか「10年生まれてくるのが遅かった戦国大名」だとか、いろいろ言い方はあるだろうが、自分だったら一言こう言う。

「あの義姫の息子だよ」

と。実際、政宗が女だったら上記のようなエピソードを残していたであろうし、逆に義姫が男に生まれていたら、関ケ原の戦いが終わって徳川の時代になっても天下をあきらめなかっただろうし、占領した城で撫で斬り(皆殺し)みたいなことをやっていたと思う。

親子で対立することもあったみたいだが、どうも同族嫌悪だったのではないだろうかという気がしてならない。


今回、政宗の血統をたどってみてはじめて気づいたこともあったのだが、結局は母親である義姫の血が濃いんだろうなぁ、という結論になってしまった。

ちなみに、政宗の血液型はB型だったそうだ。これは、政宗の墓所である瑞宝殿を発掘調査した際、遺骸の毛髪から鑑定された結果である。

2017年9月26日火曜日

ロマンを追うか? 史実を追うか? 書評『暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」』後編

大泉光一著『暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」 ヴァティカン機密文書館史料による結論』の書評の後編。



前編ではヴァチカン機密文書館(ASV)に残された史料について、中編ではその史料をどう解釈するべきかについて触れた。本稿後編ではそもそも論として、仮に政宗が倒幕計画を立てていたとして、それを立証することは可能なのだろうか? というところから話をはじめたい。

■ 倒幕計画を立証するには?

NHK大河『独眼竜政宗』より
戦国最後の大戦・大阪の陣における政宗と松平忠輝。
このときも、隙あらば家康の首を狙っていた?

これは著者も本書で認めていることではあるが、少なくとも日本側で政宗の倒幕計画を立証する文書は見つかっていない。そこから

  1. それは政宗が証拠隠滅を図ったからだ。証拠はないが倒幕計画はあった
  2. 証拠がない以上、それ以上のことは言えない

という2派に別れるのである。1の立場は、天下取りの野望を秘めた政宗の世間一般のイメージからすれば倒幕計画はあってもおかしくないという、ある意味ロマン派な意見で、2の立場は証拠がない以上何も言えないというドラスティックな現実主義的意見だ。

その意味で、倒幕計画を立証したいのであれば国内の史料でそれが叶わない以上、海外の史料をあたるしかないという著者・大泉氏のアプローチは正しい。ただ中編で述べたように、政宗があえて親書に残さなかった請願がヴァチカンの史料から読み解ける=倒幕を考えていた、は論理が飛躍しすぎているし、証拠としても弱い。

本書では、ヴァチカンのローマ教皇庁以外にもイエズス会、フランシスコ会、インディアス顧問会議、スペイン通商院など様々な団体が遣欧使節団についての報告書を書いている様子が紹介されている。そういった文書の中にたとえば

日本の奥州王たる伊達政宗の真の目的は、けっして信仰上のものではありません。ローマ法王庁の権威を借りてジパング国内のクリスチャンを味方につけ、クーデターを起こすことです。彼は真のキリスト信者ではありません。謁見の際は注意されたし」(イエズス会のローマ法王庁宛報告書(架空))
松平陸奥守は野心的で、我らスペイン王国の尖兵となりえます。日本の政府にはウィリアム・アダムスなるイングランド人の外交顧問がおり、将軍の信頼を勝ち取っています。英国の影響力を排し、我らスペイン人が割って入るのが難しい今となっては、奥州王の政府転覆計画に協力するのも選択肢かもしれません」(メキシコ副王政庁のスペイン本国宛報告書(架空))

といったような文言が見つかれば、多少は倒幕計画の裏付けになるかもしれない。ただ、それでもその文書の信憑性に対する批判・検証は必要ではあるのだが。

■ 黒脛巾組と悪魔の証明

慶長遣欧使節からは脱線するが、政宗をめぐる似たような議論に、黒脛巾組くろはばきぐみというトピックがある。政宗お抱えの忍者集団なのだが、1次史料に登場せず、はじめて名前が出るのは江戸中期に書かれた『伊達秘鑑』と成立時期不明の『老人伝聞記』であり(どちらも『仙台叢書』所収)、その実在性が疑われている。

かつて伊達武将隊には黒脛巾組の忍&くのいちがいた。黒脛巾組は仙台市公認?
学説的な実在性はともかく、観光資源として人気のある伊達武将隊には
外国人ウケの良い忍者キャラは復活させた方がいいと思う。にんにん!

黒巾組の存在を主張する人々は、「そもそも裏方・汚れ仕事・秘密工作を担当する忍が、史料なんて残すはずがない。史料はなくて当然なのだ(でも彼らは存在した)」という根拠の弱い主張にならざるをえない。

一方、黒巾木組の存在を疑う立場からは「1次史料に登場しない以上、実在性は疑わしい、江戸時代の創作だ」としつつ存在しないことを証明しきれない、いわゆる「悪魔の証明」に陥ってしまう。

黒脛巾組は「信長の野望・創造」にも登場。
新作「大志」が11.30に発売予定。はよ出ろ。
一般に、何かの存在を証明するには「存在した」という証拠を一点示すだけでよいが、「存在しないこと」を証明するためには、世の中の森羅万象を調べ尽くさなければならず、それは不可能に近い。こういうのを悪魔の証明という。

従って、調べても調べても「今のところ黒巾木組の存在を証明できる1次史料はみつかっていない(いたのかいないのか、実のところよくわからない)」という、奥歯に者が挟まった様な歯切れの悪い結論になってしまうのだ。

そもそも黒脛巾組は主に小説やゲームなどのクリエイターが扱う題材で、学者が手を出すようなトピックではない。上記で「議論」と言ったのはちょっと大げさだったかもしれない。

が、歴史好きの仲間と飲んでいると「政宗ならああいう影の軍団使いそうだよねー」と盛り上がれる話題であることは間違いない。羽黒山と伊達家の関わりだとか、政宗外交の粘り強さとか、黒脛巾組という補助線を用いることで妙に納得? してしまう点は確かにある。

■ 伊達政宗をめぐる永遠の葛藤

伊達政宗は慶長遣欧使節、黒巾木組以外にも


など、疑惑や謎の多い人物で、どのトピックでも史料ベースで議論を進めるべきという歴史学と、野心に溢れた政宗の一般的イメージに立脚したロマン主義の対立が起きている。主に小説やドラマ、ゲームなどの創作物で政宗人気が沸き立ち、歴史学がその世間一般のイメージを訂正しようとする、という永遠のいたちごっこなのだ。

実は今、ブログ筆者もこの2項対立に悩んでいる。

天下取りの野望を抱く、ギラギラとした若き戦国武将。数々の疑惑をもたれながらも、それを潜り抜ける用心深さ。そんな一般的なイメージの政宗が好きだ。慶長遣欧使節だって、ただの通商目的よりも倒幕計画と絡めた方が話としては面白いに決まっている。

一方で、なるべく思い込みのイメージを排した実像に迫りたいという欲求もある。

史料主義の歴史学という手法では、政宗という人物はとらえきることが難しいことは確かで、あるいは心理学や民俗学といったような別の手法でのアプローチがあってもいいのかもしれない。

筆まめで自筆の書状も多く残り、外部から彼を記録した史料も豊富。それでいて、史料ではとらえきれない魅力にも溢れた人物。

伊達政宗の研究は実に難しい。であるが故に、面白い。

2017年9月25日月曜日

倒幕目的説にはどこまで信憑性があるのか? 書評『暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」』中編

大泉光一著『暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」 ヴァティカン機密文書館史料による結論』の書評の中編。



前回の前編ではヴァチカン機密文書館(ASV)に残された史料を読み解けば、政宗がローマ法王パウルス5世に対して「カトリック王への叙任」と「キリスト教騎士団の創設」という隠された2点の請願をしていた可能性が導けることと、政宗自身はクリスチャンではなかったことが判明したことまで紹介した。

■ 倒幕計画の結論ありき?

NHK大河『独眼竜政宗』より
大久保長安・ソテロと密談するシーン。彼の胸中やいかに。 
問題はここからである。

この2点の隠された請願は何を意味するのか? 慶長遣欧使節団の真の目的は何だったのか? 著者・大泉氏によれば
政宗の本当の目的は、ローマ教皇の力でスペインの軍事的協力を得て、徳川幕府に最後の決戦を挑み、徳川秀忠に代わって伊達政宗が将軍職に就き、日本の支配者になることであった。(p8、強調はブログ筆者による)
だそうなのである。ここが難しい。

本書にはなぜ2点の隠れた請願があったという可能性が政宗は実は倒幕を狙っていた、という結論につながるのかが、ほとんど書かれていない。

たとえば「カトリック王の叙任」および「キリスト教騎士団の創設」という請願があったとして、ここから政宗が何をしたかったのかを考えるとしよう。倒幕計画以外に、である。
  • 政宗本人はクリスチャンではないが、国内キリシタンの保護、及び失業対策を考えていた
  • 徳川政権と懇意の新教国(イギリス・オランダ)に対抗意識があり、それら勢力に対抗するカウンターパワーとしての旧教勢力(スペイン・ローマ法王庁)の利用を考えた
  • カトリック王の称号、騎士団創設の実績を看板に、スペイン以外の国とも貿易交渉を行う構想があった。その交渉での有利な材料としたかった
もちろん、それぞれに細かい検証は必要ではあるが、上記の様な推論も成り立つとは思うけれども、いかがだろう。それらを排していきなり倒幕計画につなげてしまうのは、少し無理があるし、説明があまりに足りない。

ちなみに、「キリスト教騎士団」の創設とは、あくまで日本国内のキリシタンを政宗配下の騎士団として組織する、という意味だろう。それと筆者の言う「スペインの軍事的協力」とはまた別の話だ。前者は国内のキリシタンを味方につける方策、後者は外からの援助を得る方策である。


■ 政宗の倒幕計画をそそのかしたのはソテロ?

もうひとつ、この本で説明が足りないと思ったのが、なぜ政宗が倒幕計画を志向するようになったかの動機についてである。まぁこのあたりは、世間一般の野望に溢れた政宗のイメージからすれば今更説明は不要として省略したのかもしれない。

本書で唯一触れられているのが、ソテロが政宗をそそのかしたのではないか? という推論で、徳川政権の倒幕を狙っていたのは、実はソテロだったのではないかという説だ。

徳川幕府のキリシタン、および宣教師たちへの弾圧が強まるにつれ、ソテロも捕縛され、火あぶりの刑を受けることになった。しかし、使節団の案内役として余人をもって代えがたしという政宗の嘆願によりかろうじて救われたことを指摘したうえで、
自らも殉教寸前という経験をしたソテロは、強い衝撃を受け、徳川政権下でキリスト教の布教活動を行うことに、絶望感を抱いたであろう。親しい関係にある政宗を使って徳川政権を倒すしかないと、ソテロが考えたと推測して間違いないと私は考える(p52)
というのが筆者の主張だ。これも、弾圧をうけたこととソテロが倒幕を目指すようになったことがダイレクトに結びつきすぎていて、説明が足りない。

日本国内で弾圧を受けたキリスト教宣教師は、なにもソテロだけではない。弾圧どころか殉教した宣教師もいるなかで、なぜソテロだけが倒幕まで目指すようになったのかの根拠が弱い。

宣教師 ルイス・ソテロ
1574-1624。父親はスペインの参議院議員。
自身もサマランカ大学で法学・医学・神学を
治めたエリートである。そんなスペックをも
ちながらわざわざ極東の島国までやってきた
のだから、志のい人物ではあったのだろう。
そもそも土着の宗教もある日本に乗り込んできて勝手に布教をしながら、それを禁止されたからと言ってその国の政府を倒すところまで発想がいってしまうというのも、迷惑このうえない話ではある。

...と思いながらいろいろ書いてたら、案外過激な宣教師とはそんなものではないかという気もしてきた。

古今東西、あらゆる宗教にとって布教と弾圧はセットである。積極的な布教という意思の弱い日本の神道を例外として、新しい宗教を広めようとすれば既存の勢力との軋轢を生みだし、弾圧されるのが常だ。弾圧は身内意識をかため、より強い教団へと成長していき、やがて国家に容認される、というのが勝ち組宗教のパターンだ。

ところが負け組宗教というか、弾圧の試練を乗り切れなかった教団は、テロ行為に走る傾向がある。

日本にもかつて、オウム真理教なる宗教団体が存在した。彼らは教祖である麻原彰晃が選挙に負けたのをきっかけに、日本政府の転覆を狙って地下鉄サリン事件などのテロ行為をおこしたことがある。

ソテロはビッグマウスというか、誇張の表現が多い人物だという証言が多方面から残されている。そういったソテロのイメージからすれば、弾圧を逆恨みして倒幕まで考えてしまう、思考のブっとんだ人物だと考えるもありえなくはない気がしてきた。

というわけで、ブログ筆者は著者・大泉氏の「ソテロが倒幕を考えていたかもしれない」という説には要検討ではあるものの、可能性は排除しきれない、という感想を持つに至った。

ただし、その実証にはやはり文書ベースの決定的なエヴィデンスが必要ではあるのだが。

■ 著者・大泉氏のバックグラウンド

実はブログ筆者は、この大泉氏の本を読むのは初めてである。どころか、前編冒頭で述べたように、慶長遣欧使節についてはこれまであまり深く首を突っ込まずに来た。今回この本を読んでみて、慶長遣欧使節の目的=倒幕という、学会では否定的な意見を文春新書というメジャーな媒体で、かつ堂々と展開しているので大泉氏のバックグラウンドが気になった。

Wikipediaで調べられるレベルだけでも
危機管理、国際テロなどが専門だが、支倉常長について長く研究をしており、田中英道の『支倉常長』を捏造だと批判して、田中と論争になった[2]。「支倉は徳川幕府打倒のために派遣された」という説を唱えているが、歴史学界では荒唐無稽の説とされている。https://ja.wikipedia.org/wiki/大泉光一
という情報が出てくる。さらにTwitter上でつながりのある方の指摘で思い出したのだが、ブログ筆者は以前にも大泉氏の他の本を立ち読み(買わなくてさーせん)したことがあり、そこでは仙台郷土史会の割と有名な学者たちに対する名指しの批判・恨み節が、これでもかというくらいに述べられている章があった。



あるいは、ディベート文化の海外の学歴キャリアを持つ著者の論戦のしかけ方は、日本の研究者には過激に映るのかもしれない。いずれにせよ、大泉氏は慶長遣欧使節や伊達政宗に関する研究のメインストリームに位置する方とはとうてい言いがたく、「倒幕計画」という結論ありき、かつ学会内での人間関係が原因で、ある程度主張に主観が入りすぎている感はどうも否めそうにない。

とはいえ、大泉氏の本を一冊(と1章の立ち読み)だけで批判するブログ筆者の態度もあまり褒められたものとは言えない。大泉氏の他の著作に、この『暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」』だけでは読み取りきれなかった著者の主張や論拠が書かれているかもしれないので、それらについても機会があれば触れてみようと思う。

■研究を阻む言語の壁

思うに、慶長遣欧使節というテーマは実にやっかいである。

前提として当時の日本の情勢はもちろん欧州諸国、中南米諸国、キリスト教諸団体の情勢という複数の知識が求められる(話はそれるが、本書には1591年の九戸の乱を1600年と誤認している箇所(p59、第1刷)があり、大泉氏の東北戦国史についての知識はそれほど専門的ではなさそうではある)。

加えて、原史料を読み解こうと思ったら、簡単に思いつくだけでも日本古語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、ラテン語を習得する必要があり、それらは現在の話し言葉とは違う古典言語で、しかも専門的な行政文書である場合がほとんどだ。

これは大泉氏も指摘しているところではあるが
...これ(※ブログ筆者注、上記列挙の複数言語)を原文で読み、理解することのハードルの高さが、研究を困難なものにしてきた。
研究者が原典にあたらず、明治時代、まだ辞書も不完全であった頃に訳された、転写漏れ、誤写や誤訳だらけの史料集(『大日本史料(第十二編之十二)』)を引用、孫引きして研究を進めたため、不可解な定説が生まれたと言っていい
...(p11)
という側面は、確かにあるのだろう。であれば、やはりそれら複数の言語を読み解ける大泉氏のスキルはとても貴重である。

■いでよ、次世代の研究者...

使節団の請願に対する教皇庁の回答文書
ASV所蔵。イタリア古語で書かれたものとのこと
まぁ、こんなの一般人に読めるわけないよね...
そういうせっかくの貴重なスキルを生かして、大泉氏は『支倉六右衛門常長「慶長遣欧使節」研究史料集成』全3巻を刊行されているそうだ。おそらく大変な労力であっただろう。こういった氏の業績は素直に評価されるべきだと思う。

しかし、せっかくの良質な史料にアクセスできる能力を持っておられながら、大泉氏の論には飛躍が多い気はする。

これはとある方の受け売りなのだが、持論を展開するには論拠(エビデンス)と論理(ロジック)が必要である。建築に例えるなら建材と工法が必要なのだ。せっかく腕のいい大工でも、ボロボロの建材を使えば立派な建築はできない。未熟な大工が高級な素材を使っても然りだ。

大泉氏が発掘し、研究に利用している海外の文献は、これまで日本の研究者があまり手を出してこなかった貴重なものも多いはずだ。だが、それらの史料をどう読み解いて使うかというところに、大泉氏が批判される理由がある様に思う。

同じ素材を用いた結果「倒幕計画」以外の結論にいたる学者がいてもいいと思うし、そういう論があるならぜひとも聞いてみたい。Twitter上でつながりのある方もこの本を読んで似たような感想をもたれたそうで、「これら史料使っての他の方の解釈が聞きたい、史料批判含め論じて欲しい」とおっしゃっていた。

需要はある!

海外の文献も駆使しつつ、仙台の郷土史家たちともWin-Winの人間関係を築きながら、論理の展開にも齟齬のない次世代の研究者たちが登場するのを、気長に待ちたい。

【続く】ロマンを追うか? 史実を追うか? 書評『暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」』後編