2016年11月28日月曜日

殿入沢跡 -大槻泰常殞命の地-

石巻市の須江糠塚(旧河南町)に、「殿入沢跡」という標柱・看板と、「大槻但馬守平泰常殞命地」と題された石碑が建ってる。東浜街道(現在の宮城県道257号線、河南登米線)沿いだ。古い街道沿いでよくみかける石碑、といってはそれまでだが、筆者にとっては特別な想いがある場所なので、今からそれについて書く。


看板によれば、この場所について江戸時代に書かれた『風土記御用書上』という文書に、「葛西家敗軍の砌みぎり...又は大崎家敗軍の節、御一家様方御生害」あるいは「此辺このへん古戦場」と書かれているとのこと。

この地で何が起きたのか、実はよくわかっていないのが現状らしい。説としては2つあり、

 説①:天正18年(1590)8月、葛西氏が秀吉の奥羽仕置に抵抗して戦い、敗れた場所
 説②:天正19年(1591)8月、葛西・大崎一揆の処理で一揆の指導者が伊達軍に殺された場所

あるいは、その両方に該当するとも考えられる。看板の名義は河南町教育委員会(河南町は2005年に石巻市に合併)で、平成12年(2000)3月25日の日付である。

では、その隣にあるもっと古そうな石碑はいつ、誰が建てたものなのか。


こちらもはっきりしており、大正3年(1914)11月に、日本初の近代辞書『言海』の著者として知られる大槻文彦博士が建てたものである。石碑の表には「大槻但馬守平泰常殞命地(おおつき たじまのかみ たいらのやすつね いんめいのち)」と題され、裏に漢文で碑文が刻まれている。

では、石碑の裏にはなんと刻まれているのか。それをじっくり読んでみよう。下にスクロールすると現代語訳があるので、漢文を読むのに抵抗がある方はそちらまで飛ばしていただいて結構である。

■ 原文
実際の碑文
陸前桃生郡須江村糠塚殿入澤實爲吾家祖但馬守君殞命地君葛西氏支
族居西磐井郡金澤村大槻館天正十八年葛西氏爲豊臣氏所滅木村吉清
來領其封苛政誅求葛西氏遺臣憤怒擧兵逐吉清伊達氏來討勸降拘将領
二十餘人於此地待命及豊臣秀次東下命斬伊達氏遣兵來臨二十餘人奮
闘遂爲所斬塩淹其首送京師君實在其中時天正十九年八月十四日也年
五十五子孫住西磐井郡中里村存祀文彦至此地歔欷低徊不能去茲建一
碑以慰君在天之霊今地主桑島氏及龜山氏賛襄之
大正三年甲寅十一月   十世孫 文學博士大槻文彦謹記
本来は漢文なので縦書きなのだが、ブログという制約上、横書きにした。従って、左上から右下に向かって読む。

■ 書き下し文

とはいえ、このままでは現代人である筆者も読むのは無理ぽオワタなので、頑張って書き下し文にしてみた。ついでに、旧字体も現代風に直してある。読みやすい様にスペース、句読点も挿入した。
陸前桃生郡 須江村 糠塚 殿入沢は、実に吾家祖 但馬守君 殞命の地なり。
君は葛西氏の支族にして西磐井郡 金沢村 大槻館に居る。
天正十八年、葛西氏 豊臣氏の滅す所と為る。
木村吉清 来領し、其の封で苛政誅求す。
葛西の遺臣、憤怒し兵を挙げ吉清を逐う。
伊達氏来たり討ち降を勧め、将領二十余人を此の地に拘し、命を待つ。
豊臣秀次の東下に及び、斬を命ず。
伊達氏、兵を遣り来り臨む。
二十余人奮闘、遂に斬する所と為る。
その頭を塩淹し、京師に送る。
君、実に其の中に在り。
時に天正十九年八月十四日也。
年五十五。
子孫 西磐井郡 中里村に住し、祀を存す。
文彦この地に至り歔欷低徊し、去る能わず。
茲に一碑を建て、以て君が在天の霊を慰む。
今、地主桑島氏及び亀山氏これを賛襄す。
大正三年 甲寅 十一月   十世孫 文学博士 大槻文彦 謹記
ちょっとずつ読めるようになってきた。まだ古語が多用されているのでわかりにくい。いくつか言葉の解説を加えると、
  • 但馬守大槻泰常のこと。葛西氏の武将。
  • 殞命:いんめい。命を落とすこと。
  • 苛政誅求:かせいちゅうきゅう。容赦のない過酷な政治。
  • 降を勧め:降伏をすすめる、の意。
  • 将領:指揮者、指導者。
  • 塩淹:えんえん。塩漬け。
  • :し。神や先祖をまつること。
  • 歔欷:きょき。すすり泣き、むせび泣きのこと。
  • 低徊:ていかい。うろうろと歩くこと。
  • 賛襄:さんじょう。助けて事を行うこと。
といったあたりだろうか。このまま一気に、現代語に訳してみよう。

■ 現代語訳
陸前の国 桃生郡 須江村 糠塚 殿入沢(現在の宮城県 石巻市 須江糠塚)は、私(大槻文彦)の先祖、但馬守 大槻泰常が没した地である。大槻泰常は、葛西氏の支族であり、西磐井郡 金沢村(現在の岩手県 一関市 花泉町)の大槻館に住んでいた。 
天正18年(1590)、葛西氏は豊臣秀吉の奥羽仕置によって滅亡した。旧葛西領には木村吉清が新領主として派遣されたが、彼の政治は容赦のない厳しいものであったため、葛西の旧臣たちは激怒し、挙兵して木村吉清を追放しようとした。 
一揆の鎮圧のために伊達の軍勢がやってきて降伏を勧めたが反乱はやまず、指導者約20人をこの場所に捕えて、次の命令を待った。 
豊臣秀次が東北にやってくると、彼は反乱指導者たちの処刑を命じた。それを受けて伊達の兵たちが押し寄せてきた。葛西旧臣たちは奮闘したが、ついに斬られてしまい、首は塩漬けにされ、京都に送られた。大槻泰常が絶命したのもこのときである。ときに天正19年8月14日。享年55歳。
泰常の子孫は西磐井郡 中里村現在の岩手県 一関市 蘭梅町に住み、先祖を敬ってきた。同じく子孫である私、文彦はこの地に至って思わずすすり泣き、うろうろしては立ち去りがたい想いに駆られた。よって天に召された泰常の霊を慰めるため、この地に石碑を建てたのである。石碑建立に際しては、この地の主である桑島氏と亀山氏に大いに助けていただいた。
大正3年(1914)11月。10世孫 文学博士 大槻文彦 謹んでこれを記す。
お分かりいただけただろうか。石碑は、大槻文彦が先祖である大槻泰常の死を悼んで建てたものなのである。文面から、文彦は説②の立場であったことがわかる。すなわちここは、葛西・大崎一揆の後始末の際、一揆の主導者たちが集められ、豊臣秀次の命を受けた伊達の軍勢によって殺された場所なのだ。

大槻文彦。1847-1928。
日本初の近代辞書『言海』の著者として有名。そのため、国語学者として紹介されることが多いが、
晩年は伊達騒動(寛文事件)や葛西氏の研究など、郷土史研究家としての顔も併せ持っていた。
写真は、歴史仲間の @るぞさんが撮影してくれた みちのく伊達政宗歴史館の蝋人形。生々しい...

...それにしても、文学博士・大槻文彦の漢文を台無しにする下手クソな現代語訳である。現代語訳というか、解説も含めた意訳になってしまったが、その点はご容赦願いたい。

■ 『伊達治家記録』との照合

この碑文の内容を、反乱の鎮圧者である伊達側の記録と照合してみよう。江戸時代に書かれた伊達家の公式記録である『伊達治家記録』のうち、『貞山公治家記録 巻之十七』天正19年8月16日の条から書き出してみる。
〇八月丁酉大六日己亥。この日中納言(秀次)二本松へ到着、大神君(※徳川家康)もこの時節、二本松御着と云々(日知れず)。公(※政宗)、この節御病気のところに、弾正小弼殿(※浅野長政)より去る三日書状を以って、御病気少しも御験気(※おしるしけ。病状が回復すること)においては、さっそく二本松まで御出然るべき由、仰せ進ぜらるにつきて、二本松へ御出あり。然るに中納言殿より御両使(氏名伝わらず)を以て、大崎葛西一揆の様体を尋ねらる(強調、注釈はブログ筆者による。表記は現代風に改)
この時点で、葛西・大崎一揆の最大の拠点である佐沼城が天正19年(1591)7月3日に陥落し、一揆鎮圧が最終段階に入ろうとしているシチュエーションである。

葛西・大崎旧領での一揆以外にも、東北各地で奥羽仕置に反発する一揆が続発しており、その鎮圧のために秀吉の甥である秀次や徳川家康が二本松まで来ている。


政宗も二本松へ向かったところ、秀次の使者から一揆の様子を尋ねられた。
(※政宗)御請うには、一揆ども城多く相抱え、百姓等まで譜代の者たるに依て、御退治も御難しき義なり。幸い一揆の者ども詫び言仕るにつきて、身命許りは何とぞ相扶らる様にと存じ、深谷と申す所に引き寄せ、差し置きたり。何様にも御指図次第に相計らはるべきの旨仰上げらる。(強調、注釈はブログ筆者による。表記は現代風に改
政宗は「一揆勢はその勢力圏に多くの城を抱え、一揆に参加している百姓も葛西の旧臣たちが多いので、一揆の鎮圧は難しい。幸いにも、一揆指導者たちからの謝罪があったので深谷という場所に彼らを集めている。彼らをどうするかは、秀次の指図に従う」と答えた。深谷とは殿入沢周辺の地名である。
一段の事なり、早々誅戮(※殺すこと)せらるべき由、中納言お指図あり。因って泉田安芸重光に黒川の御人数(※黒川郡を治める黒川氏の軍勢。この時期、黒川は事実上伊達の属国化している)相そえ、一揆武頭二十余人討ち果たし、首中納言殿(※秀次)へ差し出さる。即ち塩漬けに仰せ付けられ、京都へ差し上げられると云々(公二本松へ御出の日ならびに一揆の首差上げらる日等知れず)。(強調、注釈はブログ筆者による。表記は現代風に改)
秀次は「さっさと一揆の指導者たちを殺せ」と命じたので、政宗は泉田重光に黒川の軍勢を添えて一揆の指導者たち20人あまりを討ち果たした。首を秀次に差し出したところ、塩漬けにして京都へ送るように指図したという。

大槻文彦の書いた碑文と『伊達治家記録』の記述は

  • 一揆指導者を殺すように命じたのは豊臣秀次であること
  • 直接手を下したのは伊達の軍勢であること
  • 犠牲者は「二十余人」であること
  • 反乱者たちの首を塩漬けにして京都に送ったこと

という点で伊達側の記録と一致していることがわかる。と、いうか大槻文彦も碑文を書くうえで『治家記録』を参照したのあろう。大槻文彦は旧・仙台藩士であり、晩年は郷土史研究にも打ち込んだ人物でもある。

■ 実際の事件の規模は?

『伊達治家記録』も文彦の碑文も、犠牲者の数については「二十余人」という表現で共通している。

しかしながら、宮城の郷土史家・紫桃正隆氏はその著書『仙台領の戦国誌』において、犠牲者はもっと多かったはずである、と主張されている。氏は『仙台領の戦国誌』で事件の犠牲者の名を76人ほど列挙したあとでこう述べている。
 斯様かようにして考えてみると、深谷で誅殺された人々はおびただしい数にのぼることがわかる。
筆者が掲げた人だけでも、約80名の多きに達している。勿論、この中には異名同一の人が、ある程度いたようで、重複している面が、ないでもないが、それにしても余りにも多い。
それに、前記の人々は、概ね、葛西大崎の諸城主といわれた大身のものたちであって、これに各々数人の従兵が付随していたわけであるから、実際の人員はその数倍になっていたのは充分に想像されるところである。
(p469)
筆者も、この事件で殺害された葛西・大崎の旧臣は20人では済まなかったと思う。紫桃氏の言うように、犠牲者になった武将それぞれが城主クラスの者たちであり、それぞれに従者がいたと考えるのが自然である。実際、大槻泰常も大槻館主であった。一人でこの地に来ていたとは考えにくい。さらに紫桃正隆氏が指摘されるとおり、葛西旧臣の家系図には先祖がこの事件で殺されたことを示唆する記述が多く見受けられるのである。

それでいて『伊達治家記録』に犠牲者が「二十余人」と書かれているのはどういうわけか?

それには、2つの理由があると筆者は推測する。

  • 第1に、伊達家として事件の汚点をあまり強調したくなかったこと。
  • 第2に、事件の遺族・子孫たちも表立って事件を公にする必要がなかったこと。
葛西俊信。画像は「信長の野望・創造」より
葛西氏最後の当主・晴信の弟の孫。馬術の
名手として知られ、京都で技を披露したことも。

第1は明白であろう。伊達軍は秀次に命じられたとは言え、いわば汚れ仕事である一揆首謀者殺害の実行犯となってしまったのだ。犠牲者は少ないに越したことはない。

忠実に『治家記録』を読めば、「一揆武頭二十余人討ち果たし」と記述されており、「武頭」以外にも事件現場には数多くの武将たちがいた、とも読むこともできる。

どちらにせよ、被害者の数をあまり強調したくはないスタンスが読み取れる。

第2であるが、事件犠牲者、つまり葛西旧臣の遺族・子孫たちは、江戸時代に伊達家に召し抱えられたものが多い。

例えば、葛西氏の末裔である葛西俊信は1627年、政宗によって仙台藩「準一家」の家格に列している。

他に、木村勘助という例もある。彼の本名は寺崎貞次といい、実は父の寺崎正次もこの殿入沢で殺された葛西旧臣、かつ葛西支族の一人である。貞次は伊達家に仕えるにあたって「寺崎」の姓を用いることをはばかり、木村勘助と変名した。

そういった者たちにとって、仙台藩の公式記録である『治家記録』になんと書かれようとも、異議を申し立てるのは難しい。滅亡した大名の旧臣たちは、生き抜くのに必死だったのである。

■ 大槻一族と仙台藩

こういった事情は大槻一族も同様であった。

大槻泰常の曽孫にあたる茂慶の代に大肝入(※大庄屋のこと。仙台藩では庄屋を「肝入」と呼ぶ)に任命されて民政と仙台藩政の橋渡し役となったのをきっかけに、大槻一族は仙台藩で活躍する人材を次々に輩出してゆく。

  • 大槻玄沢:蘭学者。『解体新書』を書いた杉田玄白、前野良沢の弟子。藩医として仙台藩に召し抱えられた。また、江戸幕府の「蛮書和解御用」にも任命され、翻訳書多数。
  • 大槻磐渓:玄沢の子で漢学者、儒学者。戊辰戦争の際に藩主・伊達慶邦の学問相手として藩論を影響力をもち、イデオローグとして奥羽越列藩同盟の結成に尽力。
  • 大槻文彦:磐渓の子。仙台藩士として幕末の京都で情報収集の任務を負っていた過去もある。国語学者として日本初の近代辞書『言海』を著す。晩年は郷土史研究にも尽力。
  • 大槻平泉:儒学者。仙台藩の藩校・養賢堂の学頭を40年近く勤め、学制改革を行う。
  • 大槻習斉:平泉の嗣子。同じく養賢堂の学頭を務める。養賢堂の支校を開設。

簡単に列挙しただけでも、これだけの一族出身者が仙台藩士として活躍している。

クリックで拡大。
大槻家は一関で大肝入として活躍した一関大槻家、仙台で養賢堂学頭として活躍した仙台大槻家
学者として主に江戸で活動した江戸大槻家の3つの系統がある。特に著名な大槻・磐渓・文彦を大槻三賢人と呼ぶ。

大槻家の祖・大槻泰常を殺したのは伊達の軍勢である。しかし、大槻一族はいまや立派に仙台伊達藩の一員として活躍している。そういう立場の者たちにとっては、過去の遺恨をほじくり返すより、仙台藩の一員として前向きに生きていく方が生産的な態度と言えるだろう。

■ 先祖の没した地に立って

この殿入沢跡は、宮城県道257号線(河南登米線)沿いにあるが、普通に車を走らせていたらまず気付かずに通り過ぎてしまう場所だ。冒頭にも述べたように、古い街道沿いでよく見かける板碑のひとつにみえる。


そんな場所について長々と書いたのは、実は筆者が大槻文彦の子孫だからである。文彦の玄孫にあたる。大槻文彦の子孫ということは、自動的に大槻泰常も先祖になる。実に14世代前のご先祖様だ。


文彦はこの殿入沢の地に立ってすすり泣き、うろうろしては立ち去りがたい想いに駆られたという。国語学者だった文彦は「歔欷低徊し、去る能わず」というなかなか格調高い言葉遣いで自身の気持ちを表現している。

文彦の様な文才はなく、浅学な筆者ではあるが、子孫として文彦の想いについてもう少し掘り下げてみたい。

文彦は旧仙台藩士でありながら、廃藩置県後の明治時代に活躍した学者である。したがって、それまでの大槻家の人々と比べれば旧仙台藩のしがらみは弱まり、割と自由な観点から研究ができたはずだ。事実、藩政時代には到底不可能であっただろう伊達騒動(寛文事件)の研究成果として『伊達騒動実録』を著し、晩年には伊達家に滅ぼされた葛西氏の研究にも手を伸ばしている。

文彦には旧仙台藩士として、また郷土史家として藩祖・伊達政宗が当時おかれた苦しい立場も理解できた。一方、伊達政宗の命令によって、大槻家の祖・大槻泰常は討たれたことを考えると、子孫としては複雑な心境であろう。

...しかし、それこそが戦国という時代だったのだ。
それぞれに立場があり、相容れなければ戦って雌雄を決するしかない。
そういう世の中だった。
戦いは勝者と敗者を分ける。
昨日の勝者が明日の敗者となる。
勝者の歴史は記録され、敗者の記憶は薄れていく。
思えば戦国の勝者、仙台伊達藩ですら、戊辰戦争に敗れて朝敵の汚名をかぶった。
それでも月日は流れ、遺恨も薄れていく。
子孫たちは新しい時代を生きる。
歴史はそうやって、少しずつ紡がれていく。
そんな歴史の1ページを、後世の我々はきちんと記憶せねばならない。

...明治が去り、大正の世となった当時、こんな風に考えながら文彦が「低徊」している姿を、筆者は想像できる。自分でもうまく説明できないが、ふと「歔欷」してしまった文彦の姿を、筆者には想像できる。先祖である泰常が、文彦が、石碑を通してそのように語りかけてくるのだ。



...とまで言ってしまったら、流石に嘘くさいだろうか。

しかし、イギリスの歴史学者 E・H・カーが著書What is history? (『歴史とは何か』)で残した名言を思い出してほしい。
What is history? It is a continuous process of interaction between the historian and his facts, an unending dialogue between the past and the present. 
歴史とは何か? それは、歴史家と歴史家にとっての史実との、一連の相互作用のプロセスであり、過去と現在の終わりのない対話である。
歴史とは対話なのだ。筆者は現代を生きる人間としてこの場所に立ち、大槻泰常と、大槻文彦と、あるいはこの場所で繰り広げられた歴史と対話した。そうしたら、彼らはそんな風に答えてくれた気がした。

この場所は、筆者にとって過去との対話ができる、とても大切な場所なのだ。

2016年11月24日木曜日

中野宗時の乱 04 -伊達家の戦国大名化-

中野宗時の乱(元亀の乱)シリーズ。ここまで01で事件の背景02で事件の顛末を解説し、03で事件の全貌を推理してみたが、最終回となる今回は、事件の影響について書いてみたい。

結論から言うと、この事件をきっかけに伊達家はようやく君主権力が確立し、伊達家が一丸となって軍を動員できるようになった。これは、のちに政宗が飛躍する前提となっている。

どういうことか。詳細に追ってみよう。

■ 稙宗政権

伊達家の歴代当主の政権がどういったものだったかを検証するために、まずは伊達稙宗(輝宗の祖父、政宗の曾祖父)時代から振り返ってみる。

稙宗の時代、君主権力は強かったといえよう。例として、分国法である『塵芥集』の制定が挙げられる。この『塵芥集』で稙宗は地頭の私成敗(勝手に領民を裁くこと)を禁止したり、段銭徴収や棟役制度(税金の徴収)の整備を行っている。

『塵芥集』。画像は宮城県の重要文化財紹介ページから拝借。
天文5年(1536)に成立。171か条からなる。
一方で、そういった君主の方針に家臣も不満を抱えており、その不満が天文の乱という形で噴出する。

■ 晴宗政権

天文の乱の結果、敗北した稙宗は隠居を余儀なくされ、その息子である晴宗政権が成立する。
伊達稙宗と晴宗の方針の違いについてはこちらを参照 ⇒ 伊達稙宗の行動原理
しかしながらこの晴宗政権では、乱の論功行賞のために、晴宗方についた家臣の「惣成敗」「守護不入」や、本来伊達家の収入となるべき租税の徴収権を認めた結果、今度は家臣の力が強いという性格の政権になってしまった。

その家臣の筆頭が中野宗時とその息子である牧野久仲である。晴宗も中野宗時と牧野久仲にはそれなりに気を使っていた形跡があり、例えば牧野久仲は、伊達晴宗が奥州探題に任命されるのと同時に、奥州守護代に任命されている。

■ 輝宗政権

元亀の乱以前の伊達輝宗政権も、基本的には晴宗政権を引き継いだものだったため、家臣の力が強かった。この点は、仙台市博物館の菅野正道先生も指摘しておられる。

輝宗政権の初期段階において、輝宗は領国経営を任せる重臣の選択ができる立場にはなく、実質的には晴宗政権の枠組みを維持せざるを得なかったのである。」(『伊達氏と戦国争乱』p41)

しかしながら、元亀の乱で中野宗時が失脚したため、輝宗は自由に権力を行使できる立場になった。03で触れたように、乱の以前は中野一派の潜在的なシンパは多かったと思われるが、その当主である中野宗時が失脚したため、輝宗にストップをかけられる存在がいなくなったためである。

遠藤基信の進言により、中野に関与したと思われる者たちへの処罰もほとんどなかったことから、こういった旧中野シンパの者たちの間で、輝宗に対する心理的な負い目が生まれたことだろう。あるいは「積極的に手柄を立てることによって汚名をそそがなくては」という発想が生まれる。

■ 小梁川盛宗にみる輝宗政権の性格

典型的なのは小梁川盛宗(泥播斎)だ。彼は以前の記事でも触れたように、中野宗時の逃亡を見逃したことで輝宗の不興を買ったが、遠藤基信の進言によりその罪を許されている。その後、天正2年(1574)の最上との戦における小梁川盛宗の活動を『性山公治家記録』から抜き出してみると
  • 1月25日、上山城の里見民部への攻撃命令を受ける
  • 5月7日、伊達輝宗が高畑城に立ちよった際、2000貫を献上
  • 5月20日、最上との戦、畑谷口での戦闘で1番備えとして出陣
  • 8月1日、部下3名が五十嵐源三と共に敵3名を打ち取る
と、必死で輝宗の役に立とうとしている姿が想像できる。この小梁川盛宗の行動が積極的であったにせよそうでなかったにせよ、輝宗政権においてはある程度家臣をコントロールしやすくなったことは間違いない。

ちなみに小梁川盛宗は次世代の政宗政権においても活躍し、政宗側近衆のひとりとなっている。江戸時代以降は子孫も野手崎の領主として繫栄し、一家 第4席の家格を与えられた。

■ 天正4年 相馬の陣

続いて注目したいのが、天正4年(1576)の対相馬戦である。この戦において輝宗は、宿願である伊具郡の奪回を目指して大動員をかけた。その陣容をみてみると
  • 01番備 亘理重宗
  • 02番備 泉田景時
  • 03番備 田手宗時
  • 04番備 白石宗実
  • 05番備 宮内宗忠、砂金常長
  • 06番備 粟野宗国
  • 07番備 四保宗義、沼辺重俊、福田助五郎
  • 08番備 石母田三郎、大町七郎、江尻彦右衛門
  • 09番備 村田近重、小泉下野、中名輿市郎、舟迫右衛門
  • 10番備 秋保勝盛、中嶋宗意、中村盛時、支倉時正、小野雅樂之允
  • 11番備 桑折宗長、大條宗直、成田紀伊、下郡山朝秀、西大窪九郎三郎、桐ケ窪治部大輔
  • 12番備 中目長政、中嶋宗求、桜田三河、間柳式部大輔、山崎丹後
  • 13番備 飯坂宗康、瀬上景康、大波長成、須田左馬之助、須田太郎右衛門
  • 14番備 原田宗政、富塚宗綱
  • 15番備 遠藤基信、濱田大和
  • 16番備 伊達実元
  • 17番備 御旗本(『性山公治家記録 巻之三』天正4年8月2日の条より)

という錚々たるメンツである。ほとんどが城主あるいは中規模の領主クラスの者たちで、当時の伊達領における現在の福島県北部(伊達・信夫郡)から宮城県南部(刈田郡・柴田郡・伊具郡・亘理郡・名取郡)あたりの武将は総動員といった状況を呈している。

注目したいのは、稙宗政権・晴宗政権時代にこれだけの動員がかけられた形跡が認められないということだ。やはり輝宗政権では、伊達家当主・輝宗の号令のもとそれなりの軍事力を行使できた、ということになる。輝宗政権において伊達家は、はじめて真の意味で戦国大名化した、とも言えるだろう。

■ 政宗時代の飛躍はこれが前提

政宗の時代だけに注目すると、さも当たり前かの様に配下が政宗の命令を聞き、伊達家一丸となって戦をしているイメージがあるのだが、それは当たり前のことじゃないんだ、ということを筆者は言いたかった。

実際、家中の統制が最後までうまくいかず、小田原参陣ができなかったために秀吉に改易された葛西氏の例がすぐ隣の大名としてあるではないか。あるいはさらにその北の南部氏も、家中統制には苦労して九戸政実の乱が起きたといった例がある。

政宗だって、家臣のコントロールができない状態ではあれだけの領土拡大はできなかったに違いない。そういう意味で、伊達家中の統制強化のきっかけとなった中野宗時の乱とその鎮圧は、まことに歴史的意義の大きい事件であった、ということがわかっていただけただろうか。

前稿と似たような結論になってしまうが、改めて言いたい。今日、後世の我々が英雄・伊達政宗の活躍に心を躍らせることができるのも、この事件があったからこそなのだ。



2016年11月23日水曜日

中野宗時の乱 03 -謀反計画の全貌とは?-

中野宗時の乱(元亀の乱)シリーズ。01で事件の背景02でその顛末について解説した。今回は、未遂に終わった反乱の全貌について推理してみたい。

■中野宗時に加担したのは誰か?

まず、中野宗時のクーデタ未遂に加担したのは誰だったかを考えてみたい。まず怪しむべきは、中野宗時が逃亡する際に、それを見逃した者たちである。すなわち

高畑城主・小梁川盛宗(泥播斎)
白石城主・白石宗利
宮ノ城主・宮内宗忠
角田城主・田手宗光

らだ。彼らの城は、すべて中野一派の逃亡経路上にある。



彼らは亘理親子の様に積極的に中野一派を迎撃することはなかったから、輝宗につくか、中野につくか、少なくとも日和見的態度をとっていたのは間違いない。現に、輝宗もそれを咎めようとしたが、遠藤基信の進言によって事なきを得ている。

あるいは、事前に中野宗時の謀反に協力、参加を表明してはいたが、思わぬ形でそれが露見してしまったため、こうなってしまってはもはや中野サイドには立てない、と判断した可能性もある。

考えるに、伊達家中にはこういった日和見の態度の者が多かったのではないか。つまり、伊達家当主である輝宗が勝つか、それとも実力者・中野宗時が勝つか、両者のパワーバランスをみると、当時はなかなか判断しにくい状況にあったのだ。

そう考えると、伊達家中のほとんどの者があやしく見えてくる。むしろ、はっきりとシロと断言できるのは、

・息子と対立してまで謀反を知らせた新田景綱
・中野らの籠る小松城を攻撃して戦死した小梁川宗秀
・中野宗時を迎撃した亘理親子砂金貞常
・謀反予防の布石を打っていた遠藤基信

くらいではないか。

いや、彼らの行動だって、自らの関与を隠すための行いかもしれない。とにかく、疑いだしたらキリがない。

だからこそ、事件の取り調べに半年もかかってしまっただろう。誰が敵で、誰が味方なのかもよくわからない。ほとんどの者がグレーだ。下手な捜査をしたら、思わぬ藪蛇をつついてしまうかもしれない。取り調べは慎重に行う必要があったからこそ、半年もかかってしまったのだ。

さらに『治家記録』では、小関土佐なる人物についても触れている。中野事件の際は上方にいたが、米沢へ帰国後に「奉公余儀ナク励ムヘキノ旨誓詞ヲ捧ゲ」ている。『治家記録』は小関が中野の親族であった可能性を示唆しており、たまたま事件のとき上方にいたので加担しなかったが、もしかしたら…とも思えてくる。

■ 中野宗時のクーデタ計画とは?

『治家記録』には、謀反が発覚してからどうなったかについては詳細な記述があるのだが、どういう謀反計画だったのかは具体的に記されていない。事件の首謀者である中野宗時が逃亡してしまったので、当然といえば当然かもしれないし、伊達家の公式記録である『治家記録』では、家臣の機微に触れることは書きにくい事情もあっただろう。『治家記録』は、当時の家臣たちの子孫たちが現役の仙台藩士として活躍していた時代に書かれた書物である。

では、中野宗時の乱が実際に成功していたとすれば、どんな手口でそれを行ったであろうか?

実は、彼には前科があり、それをもとに推理することはできる。

前科とは、天文の乱である。

■ 天文の乱における中野宗時の手口

天文の乱とは、簡単にいうと伊達家の内紛である。伊達稙宗と、その嫡男である晴宗の争いだ。しかしながら、南東北の大名がそれぞれ稙宗派と晴宗派に別れて争ったため、事は伊達家の内紛では収まらず、南東北全土を巻き込む大乱となった。

この事件の背景には、他の大名との関係を優先する伊達稙宗に対して、伊達家家臣団の不満があったといわれる。その家臣団の筆頭が中野宗時である。

そしてその中野宗時が反乱の旗頭に据えたのが、伊達晴宗だった。つまり何が言いたいかというと、中野宗時の手口として、当主の方針に反対するためにその嫡男をかつぎあげて旗頭にする、という方法が前例としったのだ。

■ パペット政宗

それをふまえた上でよく考えてほしい。中野宗時が伊達輝宗に対抗するためには、誰を反乱の旗頭に据えるのが一番いいであろうか。

いるではないか。

当時4歳、パペット(あやつり人形)とするには最適の幼子にして輝宗の嫡子が。

梵天丸。そう、後の伊達政宗である!


歴史にIF はないが、この反乱が成功していれば、独眼竜・伊達政宗は中野宗時の操り人形としてそのキャリアをスタートさせていたかもしれない。

疱瘡で片目となった姿を池にのぞき込む梵天丸。
うぅ…。NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』より。
その場合、彼の理解者であり続けた輝宗は政宗の側になく、また片倉小十郎景綱のような有能な側近が彼を補佐することもなかっただろう。中野宗時にとっては、パペットである政宗は無能な方が操りやすい。片目を失明してふさぎがちになっていた政宗に、優秀な側近をあてがう必要なんてない。

内気な少年であったことが伝えられている梵天丸が後の独眼竜・政宗に成長するためには、父・輝宗と側近・片倉景綱、この二人の理解者の存在は大きかった。両者のサポートなく飾りの君主として育っていたならば、政宗は陰鬱な当主として中野宗時の操り人形であり続けた可能性が高いと思う。

…そう考えると、この中野宗時の反乱は失敗に終わってよかったなとつくづく思う。反乱が失敗したからこそ、後世の我々は伊達政宗という偉大な英雄の活躍に心を躍らせることができたのだから。



2016年11月21日月曜日

【新潟の旅】2日目 新潟エクスカーション

承前:【新潟の旅】 1日目 雨の中新潟へ

■ 朝からいきなりハーレム状態

某所の風景。ドラマ化もされた某野球漫画で有名な
某街の、某一級河川をはさんで手前側が某所である。
前日は、気持ちよく酔っぱらいながらゲストハウス人参にてぐっすり就寝した。朝起きると、宿の廊下数名のご婦人方とすれ違ったので、軽くご挨拶。

話をしてみると、そのご婦人方は短大のときに同じ寮に寄宿していた仲で、いわば「同じ釜の飯を食った」仲だという。定期的に集まっているらしく、今回、幹事になった朝子さんの地元である新潟が同窓会の場所として選ばれ、ゲストハウス人参に泊まったのだとか。

そのご婦人方が学生の時に暮らしていた寮が関東の某所という場所にあったのだが、奇遇にもそこは、筆者も学生時代に一人暮らしをした場所であった。時代の差はあれど、同じ某所で暮らしていた人間が、たまたま新潟という旅行先で出会うという偶然!

「えー! 某所ですか! 僕も昔住んでましたよ!」
「あら、ホント!? っていっても私たちの下宿時代なんて、あなたの生まれる前の話でしょうけど笑。これからあたしたち、朝のお散歩に出かけるんだけど、よかったら一緒にどう?」

...と、誘われるがままに、朝の新潟の散歩がノリで始まった笑。ご婦人方に囲まれて、ハーレム状態である。こうやって、旅先で出会った人と意気投合して一緒に街を歩くのも、なんだかバックパッカーらしくて懐かしい。

■ 古町通と新潟の都市軸

ゲストハウス人参は、新潟の「古町通」という歴史ある街並みの3番町に位置している。



古町通は新潟の都市軸のひとつ、といって差し支えないのだろう。あるいは、メインストリートと言ってもいいのかもしれない。通りは1~13番の町にエリア分けされており、5番町から国道7号にぶつかる9番町までが繁華街になる。仙台でいうところの国分町エリアだ。

駅前と昔ながらの繁華街、という風に、町の中心点がふたつ存在するのは、仙台と似ている。大きく違うのは、新潟の場合ふたつの中心の間に信濃川が横たわっていることだ。

古町通はおおむね信濃川に並行しており、軸としてはナナメっているので、今思えば新潟の街をあるいていて方向感覚がつかみにくいのはこれが原因だったかもしれない。

古町通は東西をそれぞれ西堀通東堀通に挟まれており、これらに直交する道は「小路」と呼ばれる。東堀通のさらに東には本町通があり、こちらもメインストリートのひとつとなっている。とりあえずこれだけ覚えておけば、新潟中心部の街歩きは大丈夫だろう。

■ 白山神社とやすらぎ堤

古町通1番町のとなり、いわば通りの起点に位置するのが白山神社で、朝の散歩の最初の目的地はこちらになった。ちなみに「しらやま」ではなく「はくさん」神社と読む。


古町通アーケード街の起点。振り返ると…


白山神社の鳥居。朝の散歩には絶好の快晴。こちらのサイトによると、日本海側気候に属する新潟は全国的にみても晴れの日が少ないことがわかる。とてもラッキーだったといえるだろう。

山門

そして拝殿でお参り。

白山神社は、2度の大火で史料が焼けてしまったため、正確な創建時期は不明である。しかし、戦国時代にはすでに大社として知られていたようで、上杉景勝が戦勝の帰途に鏡を寄進している。現在は新潟県を代表する神社として知られ、新潟の人にとって初詣といえばまず弥彦神社、次に白山神社となるらしい。

そのまま白山公園を横断して、信濃川の河畔、やすらぎ堤へ。


信濃川(長野県では千曲川と呼ぶ)河口の堤防で、ここも新潟観光の定番らしい。花火大会の日には多くの人で埋まる。

この日はまず図書館や観光案内所で、下調べをしてから新潟市内をゆっくり回ろうと考えていた。

ところがこのお散歩タイムを通して、ご婦人方や、その団体の幹事である朝子さんとはすっかり意気投合してしまい、ご厚意に甘えてこのあともご一緒させていただくことになった。現地の方の案内があるのは、とても心強い。同窓会に筆者の様な異人を温かく迎え入れてくれたご婦人方には本当に感謝である。

■ 齋藤邸別邸

続いてやってきたのは斎藤家別邸。かいつまんで言うと、古いお屋敷である。ただ、それなりに歴史のあるお屋敷なので、別に記事をたて、詳しいことはそちらに書いた。興味のある方はそちらを読んでほしい。ここでは、写真で屋敷の様子を伝えるにとどめる。

齋藤邸別邸 -新潟市民に愛された商人のお屋敷-

二階大広間から

主庭の茶室にてガイドさんの説明を聞くご一行。


新潟らしくて面白いなー、と思ったのがこれ。多脚の樹である。根上がりの松と呼ぶらしい。

根を張った木のまわりの砂が波風でさらわれ、根っこが地表に出てしまった結果、このような姿になるのだという。木の幹が分かれているのではなく、根っこが地表から露出し、重量を支えるために太くなったものだ。海に近い新潟の古い屋敷ではそこまで珍しいものでもない、とのことだが、初見者にとっては充分なインパクトがある。

主庭から主屋に臨む



主庭の滝
同行のご婦人たちが先に次の場所に向かった後も、自分は庭にとどまって景色を眺め続けた。やっぱり和風庭園っていい。

■ 日和山

せっかく海まで近い距離にいるので、齋藤邸を出た後、海岸に向かってみた。適当に走っていたのだが、ちょうどよく展望台のある場所だったのがラッキー。

展望台

地元小学生のマラソン大会に遭遇

展望台から見た景色。仙台市民にとってはあまりなじみのない日本海と、奥にうっすら見えるのが佐渡島。昨日ゲストハウス人参で聞いた話によれば「初めて佐渡島を見た人は『あんなにでっけーの!?』って驚くと思うよ」とのこと。まさにその通り。でっけぇ。島というよりも、半島か大陸くらいに思える。

この展望台は「日和山展望台」というのだが、正確にいうとここは堤防の上であって、日和山ではない。本当の日和山はこちら。


展望台から300mほど内陸にある小高い山、というより丘で、標高は約15m。おそらく江戸時代はもっと高い山だったと思われ、新潟で一番の高台だったという。あるいは先ほどの堤防まで、丘が続いていたのかもしれない。

ちなみに「日和山ひよりやま」という名前の山は全国にある。主に港町に多く、船乗りが舟を出せるかどうか天候をチェックし(日和を見)た山のことで、宮城県でいうと仙台と石巻にも存在する。石巻の日和山は、葛西氏の本城だった石巻城址であり、仙台の日和山は「日本一低い山」として知る人ぞ知る、地理マニア向けの名所となっている。

ともあれ、新潟の日和山も、新潟が歴史のある港町だったことの証明だ。いま、日和山のてっぺんからは住宅地に阻まれて海は見えないが、当時はここから多くの人が日本海を眺めていたことだろう。

■ 置屋・川辰仲

日和山を出た後、ご婦人方と合流してランチタイム。そのあと案内してもらったのが、置屋・川辰仲

そもそも置屋って言われてもピンと来ないと思うのだが、簡単に言うと、芸能プロダクション兼芸者さんのスタンバイルーム、といったあたりだろうか。ここから芸者さんが料亭などへ派遣されるのだ。


ここでは、店主のひろこさんが置屋の内部から芸者・置屋の歴史まで丁寧にいろいろと解説してくれたのだが、説明に夢中であまり写真を撮らなかったのと、あまりこういった文化的知識がないので、ちょっとスキップすることをお許し願いたい。

ひとつだけ書いておきたいのは、芸者って人たちはつくづくプロフェッショナルな存在だったんだな、ということ。一流の芸能と教養を身に着けるために日々努力する。川辰仲では、そんな芸者さんたちの洗練された生活ぶりをを感じることができた。

■ ”新潟コンシェルジュ”こと朝子さん

川辰仲を出て、ご婦人方の同窓会は終了、解散という流れになった。筆者は、幹事で新潟在住の朝子さんにお茶に誘っていただいた。

連れてっていただいたのが、日和山五合目というカフェ。先ほど紹介した日和山にあるカフェで、オーナーさんが『ブラタモリ』の新潟回でタモさんの案内人を務めた、新潟では今話題のカフェなのだそうだ。タモさんを案内したオーナーさんだけあって、店内には新潟の郷土本がいっぱい。筆者の様な歴史好きにはたまらない空間である。
日和山「五合目」と言っても、階段を数段登れば到着。
なんとも洒落たネーミング。
ここで、今回新潟を案内してくださった朝子さんを改めて紹介しておこう。

今この記事を書いている段階で、筆者は朝子さんとまだ2回しかあっていないので、詳しいプロフィールはわからない。ただ、ひとつわかるのはとにかく新潟で顔が広く、そして新潟を愛している、ということだ。一緒に歩いていて、挨拶されることが何度かあった。もちろん、筆者にではなく朝子さんに対してである。

日和山五合目にて。シューアイスをほおばる朝子さん。この写真を
Facebookにアップしたところ、朝子さんの知り合いと思われる方から大量の
「いいね!」がついた。こういうところからも、朝子さんの顔の広さがうかがえる。

日和山五合目を出た後も、一度解散して別の宿にチェックインしてから、再度合流して夜の新潟の街をいろいろと案内していただいた。この日はまさに至れり尽くせりで、感謝してもしきれない。

今回、朝子さんが幹事として企画する、某短大の同窓会兼旅行に紛れ込ませていただく形になったのだが、どうも僕のような異邦人が同窓会に紛れることは、今回に限ったことではないらしい笑 どうも旅人を見ると、新潟を案内せずにはいられない様だ。

まさに「旅は道連れ」という言葉を体現されている方である。おそらくこの方の辞書に「人見知り」という言葉はない。筆者は勝手ながら「新潟のサザエさん」と呼ばせていただいている。ゲストハウス人参では「新潟コンシェルジュ」と呼ばれていた。まさに言いえて妙。

朝子さんもそうなのだが、今回、ゲストハウス人参でも、新潟愛に溢れた地元の人たちと多く知り合いになれたのはとても幸運だった。

最近、旅のときはビジネスホテルや旅館に一人で泊まることが多かったのだが、やっぱり旅は現地の人や、同じ旅人どうしが集まるゲストハウスやユースホステルがいい。せっかくの旅先で、一人で宿泊するなんてもったいない。出会ったばかりの人たちどうしでも、すぐに仲良くなれるのは旅人の特権である。

そして何より「出会いこそが旅なのだ」というバックパッカー精神を思い出すことができたのは、ゲストハウス人参と朝子さんに拠るところが大きい。本当に感謝である。

2016年11月19日土曜日

野中神社 -ここが仙台の中心だ!-

最近職場が変わった。仙台の街なかである。

昼の休憩時間、天気がよかったので近くを散歩していたら、ビルの谷間に神社の鳥居があったので、ふと立ち寄ってみる。

写真をみてお分かりのとおり、本当にビルの谷間に参道があって、拝殿は見えない。ちょっと興味をそそられたので入ってみると、ちゃんとあった。


ずいぶんとこじんまりとした神社だ。当然、その由緒が気になる。

これだけ街なかにあるということは、仙台城下町時代からあって、開発の波にのまれてしまった可能性が高い。だとすれば、それなりに古い神社かもしれない...と考えていたら、ちゃんと由緒書きがあった。要約すると

  • 慶長6年(1601)1月11日、政宗が仙台城下町の縄張りをはじめる。野中神社は、その縄張りの起点となった場所で、城下の中心点となったところ。
  • 町割りの縄張りに使った縄を地中に埋め、その場所に野中神社を創建した。
  • 1945年7月10日、仙台空襲により消失
  • 1946年、仮社殿を建てる。
  • 1986年、大町通商店街の街づくりとともに、野中神社再建の機運が高まる
  • 1988年7月10日、再建。

とった感じ。というわけで、この場所を起点に仙台城下町の建設が始まったと考えると、ここが仙台の中心なのだ!

確かに、野中神社の場所を地図で確かめてみると、すぐ西に国分町通りが南北に伸びているのがわかる。

画面中心部の★が野中神社。すぐ西に国分町通りが伸びる。

この国分町通りは、今でも仙台の繁華街として有名なスポットだが、江戸時代の呼び名は奥州街道である。

仙台開府より前、この地域にまだ奥州街道は整備されておらず、昔からの「奥大道」と呼ばれる街道があった。政宗はその奥大道を仙台城下町の中心部に導入することで、仙台に人と物資を呼び込んだのだ。

先に奥州街道の場所を決めて、その近くに野中神社を建てたのか、あるいはその逆に、町割りの起点に奥州街道を通したのか、前後関係はよくわからない。が、どちらにせよ政宗の城下町設計プランにおいて、野中神社と奥州街道はセットだったことは間違いないだろう。

その後、どちらかといえば仙台城下町の中心地として認識されていたのは芭蕉の辻の方だろう。こちらは奥州街道と仙台城の大手門からまっすぐ伸びる大町通りが交差する場所だ。

今日、仙台の中心といえばどこになるだろう。仙台駅前か。国分町か。あるいはアーケード街か。

現在、野中神社のある一帯はオフィス街となっており、町の中心からは少し離れている。ビルの谷間に埋もれていることも含めて、時代の移り変わりを感じれる場所だ。