2016年10月31日月曜日

齋藤邸別邸 -新潟市民に愛された商人のお屋敷-

新潟市の観光名所・齋藤邸別邸。かいつまんで言うと、古いお屋敷である。ただ、それなりに歴史のあるお屋敷なので、今からそれについて書く。


■ 齋藤邸別邸の歴史

この家を建てたのは斎藤喜十郎(1864-1941、4代目)なる人物で、明治時代なかばから新潟の数々の企業勃興にかかわってきたビジネスパーソンである。

斎藤家は幕末のころに家業の清酒問屋から事業を発展させ、明治時代には海運業(越佐汽船会社)、銀行(新潟銀行)、化学工業(新潟硫酸会社)などにも関与する、新潟三大財閥のひとつにまで発展した。現代風にいえば斎藤ホールディングス、斎藤フィナンシャルグループ、である。

画像は「旧齋藤家別邸庭園調査報告書」より拝借
しかし、地主でもあった斎藤家は、所有する多くの田畑を戦後GHQによる農地改革によって失い、5代目喜十郎が死去すると、多額の相続税が課せられた。

戦後の混乱の中で斎藤家がこの別邸を維持することが難しくなったなか、新たなオーナーとなったのが新潟の建設会社、加賀田組の2代目社長・加賀田勘一郎である。

加賀田はビジネスだけではなく、新潟市議会議長として地方政治にかかわったり、囲碁や茶道をたしなむ趣味人でもあった。また、屋敷を文化交流の場として市民に開きながら維持してきたことで、新潟市民にとってもこの屋敷は愛着のあるものになったのである。

加賀田組のオーナーシップはつい最近2005年まで相続するが、そののちにこの屋敷が荒廃してしまうことを惜しんだ新潟市民の請願により、新潟市によって公有化され、今にいたっている。

…と、お土産に買ったガイドブックを参照しながら駆け足でこの斎藤家別邸の歴史について書いてみたが(だいぶ端折ったけど)。

斎藤邸について調べてみるだけでも、新潟の経済史、文化史の一側面がわかる。斎藤邸には興味深い資料がたくさんあるので、興味がある方は是非一度訪れてほしい。

ちなみに、このお屋敷は斎藤家の本邸ではなく「別邸」なのがミソで、ここは斎藤財閥や加賀田組にとってお客さんを迎えるための、いわばゲストハウスだった。地方の有力企業のゲストハウスともなれば、ここを訪ねた客も錚々たるメンツで、ガイドブックには総理大臣・若槻礼次郎、ノーベル賞作家・川端康成、おなじく総理大臣・田中角栄の訪問、そして囲碁のタイトル戦である第10期本因坊戦の様子などが写真とともに紹介されている。

■ 邸宅とその庭園

さて、前置きが長くなったので、斎藤邸については実際に写真で見てもらおう。

二階大広間から
大正スタイルの和風トイレ
窓がハート形になっているのに注目。

中庭の井戸。斎藤邸はかなり海岸に近い場所にあるが、きちんと真水がでるのだとか。
主庭の様子。9月末でもう、もみじが色づいている。

主庭の茶室にてガイドさんの説明を聞くご一行。


庭石。はるばる江戸の仙台屋敷から運ばれてきた、との言い伝えがある。おそらく廃藩置県後に江戸の大名屋敷が不必要になった際、斎藤財閥が買い取ったのだろう。しかし、庭ができたのが明治時代だとして、どうやってここまで運んできたのだろうか?
  • 鉄道:新潟市域としては初の沼垂ぬったり駅が1897年(明治30年)に開業。だけど貨物としては重すぎる?
  • 陸路:自動車はまだ普及していない。使えるのは馬車? 関東から中山道・三国街道を通って?
  • 海路:当時はまだ海運が大規模輸送の柱だったと思われる。斎藤家は上記のとおり「越佐汽船会社」なる海運業も営んでいたから、これが一番現実的だろうか。
...といったことを考えてしまう。おそらく伊達家の藩士たちも眺めていたであろう庭石が今は新潟にあるというのが面白い。


新潟らしくて面白いなー、と思ったのがこれ。多脚の樹である。根上がりの松と呼ぶらしい。

根を張った木のまわりの砂が波風でさらわれ、根っこが地表に出てしまった結果、このような姿になるのだという。木の幹が分かれているのではなく、根っこが地表から露出し、重量を支えるために太くなったものだ。海に近い新潟の古い屋敷ではそこまで珍しいものでもない、とのことだが、初見者にとっては充分なインパクトがある。

主庭から主屋に臨む


同じく主庭から。後ろに見えるのが新潟で2番目に高いビルであるNEXT21(128m、左)と、4番目に高いグランドメゾン西堀通タワー(111m、右)。斎藤邸から見るとグランドメゾンの方が近いため、高さはほとんど同じに見える。

この写真を撮影した場所は、主庭のなかでも斎藤邸主屋を真正面に眺めることができるビューポイントであるため、2つの高層建築物に対しては「せっかくの眺めを妨害する邪魔者」という声もあるらしい。このふたつのタワーが写りこまないようにするには、ひとつ前の写真の様に別の場所から少し見上げる角度で撮影するしかない。

しかしこの眺め、筆者は好きだ。

現代の最先端高層建築と、約100年前当時の粋をこらした邸宅。一見ミスマッチに思えるかもしれないが、これはこれで今の新潟を象徴していると思う。今やパリの代名詞とも言えるエッフェル塔だって、建設当時はパリの伝統的な景色を壊すという理由で反対の声があった。にもかかわらず、現在のパリには外して語ることのできない建造物ではないか。

同じようにNEXT21も、1994年に完成して以降、新潟のランドマークとして親しまれているらしい。19回の展望フロアは入場無料で一般に開放されており、新潟観光の定番の様だ。

和風家屋とのミスマッチ感をなげくよりも、「異なる時代のそれぞれの最先端建造物を一度に眺められる場所」として楽しんでしまった方がオトクなんじゃないか、と筆者は思うのだ。

主庭の滝

高低差のある庭のステップとして用いられている敷石なのだが、まんなかに穴が空いている。もともと、佐渡の金山・銀山で使われていた石臼なのだという。こういった本来の用途とは違った使い方をするのにも、庭師の遊び心と工夫が感じられる。

■ 庭の造成者・松本兄弟

この庭を造成された時代の背景を語るうえで欠かせないキーワードとして、「近代数寄者」と「自由主義風景式庭園」がある。

まずは近代数寄者から。数寄者すきものといえば、漫画『へうげもの』で有名な古田織部や、千利休の名が良く知られている。

茶道をはじめとして、小道具や建築などに独自の工夫と自分のスタイルを反映した趣味を極めた人たちである。彼らは戦国時代の人間で、武家や商人だったが、近代(明治時代)になると茶の湯や骨董の収集に熱心な財界人や政治家が出現した。彼らを「近代数寄者」と呼ぶ。

『新潟市旧齋藤家別邸 公式ガイドブック』より
江戸時代まで古典的な日本庭園は、浄土宗や禅といった精神的なものを表したり、一定のフォーマット化された様式や約束事にもとづいて作事をおこなう事が多かったが、当時の世は文明開化・華の明治である。西洋文化の影響をうけた近代数寄者たちは自然にみられる心地よい風景を、写実的に庭の中に取り入れることを理想とした。

宗教観にもとづいた精神的な庭から、西洋文化の影響をうけた写実的な庭へ。これが「自由主義風景式庭園」である。もちろん、いろいろと工夫はこらされているのだろうが、ぱっと見のわかりやすさを追求した、といったら簡単に要約しすぎて職人に怒られてしまうだろうか。

近代数寄者である益田孝、克徳兄弟(佐渡生まれ)や高橋義雄といった人々の庭園に対する考え方に影響を受けたのが松本兄弟だった。2代目・松本幾次郎松本亀吉である。この二人が、斎藤邸別邸の造園を行った庭師たちだ。

彼らはこの庭の他に渋沢栄一の曖依村荘あいいそんそうの庭園や、成田山新勝寺の作庭を行ったことで知られている。



邸内の案内の際、ついガイドさんの説明に夢中になり、写真撮影がなおざりになってしまった。庭の写真ばかりなのはそのためである。片手落ち感が否めないので、次に新潟にいくときはきちんと邸内の様子も撮影してこようと思う。

2016年10月12日水曜日

【新潟の旅】 1日目 雨の中新潟へ

休みができたので、9月29日(木)、30日(金)および10月1日(土)の3日間で旅行に行くことにした。移動手段はまた原付バイク。目的地は、前から行きたいなーと思っていながらなかなか機会がなかった新潟市。10月2日(日)に山形県の天童市で仕事があるので、前日までに天童付近にはついていたい、ということ以外ほぼノープラン。とりあえず、前日に新潟市内のゲストハウスに予約だけ入れて、初日に新潟まで行ってみることにした。

結果通ったルートは、こんな感じに。



原付なので、速度は50キロがマックス。こんなスピードしか出ないうえ、城跡や道の駅に立ち寄りながらトロトロと進んでいくのはいつも通り。加えて、この日は雨だったので視界、走り心地ともに良好とは言えなかった。初めにいくつかルート上の立ち寄れそうな場所をピックアップはしておいたのだけれども、雨の強弱や時間とのかねあいで、スキップしたり、路上の看板につられて急に立ち寄ったり、かなり気まぐれな旅である。

■ 関山街道と大滝ドライブインせいの

仙台・山形間のルートはいくつか存在するが、今回は国道48号、関山峠をチョイスした。仙台・山形間のルートとしては、他に国道286号(笹谷峠)および並走する山形自動車道などがあるが、48号は峠道にしては道もなだらかで走りやすく、交通量も多い。山形県各地でサクランボ狩りのシーズンとなる6、7月や、サッカーのベガルタ仙台VSモンテディオ山形戦の際には一般車による渋滞が激しくなるほどだ。

筆者も仕事で何度か通っているのだが、原付で通行するのは今回が初めてだった。後続するトラック運転手にとってはさぞ邪魔であったと思うが、どうか大目に見ていただきたい。

さて、県境である関山トンネルを抜けると、大滝ドライブインせいのがある。すでに雨に濡れて体温が下がりきっていたので、こちらで一服。


ドライブインの奥には大滝と呼ばれる高さ約10mの滝がある。


さらにドライブイン敷地内に、殉難の碑がある。今使われているトンネルよりも以前に、関山隧道と呼ばれる古いトンネルがあった。工事は明治13年(1880年)に着工。道の開削のなかでも、峠道のトンネル工事は最大の難所である。

事件が起きたのは7月21日のことだった。工事に用いられる火薬が誤って爆発してしまい、一瞬のうちに死者25名、重症8名を出す大惨事となってしまった。当時の感覚でどうだったかはわからないが、現代の感覚でいえば死者25名の事故となれば間違いなく新聞の一面記事である。峠道の開削には、常に危険が伴う。


そういった難工事の果てに明治15年(1882年)10月に竣工した関山街道には、以後山形・秋田方面への物資や人が行きかい、街道沿いは茶屋や宿でにぎわったという。この殉難の碑は、開削工事に思いをはせた大滝ドライブインせいの の店主さんにより建てられたものらしい。こういうの、大切。

■ 椹平の棚田

続いて立ち寄ったのが椹平くぬぎだいらの棚田(山形県朝日町)。「日本の棚田百選」に認定。予定にはなかったのだが、道案内が出ていたのと、ようやく雨がやんだので休憩がてらによってみた。


ちょうど雨は止んだタイミングだったのに、iphoneのカメラに水滴が入ってしまったようで、この先くもった写真がしばらく続く。曇りとはいえ、実物はもう少し綺麗だった。いや、右手に棚田、左手に朝日町の街並みが一望でき、なかなかいい景色である。次はぜひ、青空の下で見てみたい。

■ 鮎貝八幡宮

さて、今回の目的地のひとつだった、鮎貝八幡宮(山形県の白鷹町)に到着。ここは以前、鮎貝城というお城だった場所だ。戦国時代、この地は伊達・最上の境界線だった。

1587年に事件はおこる。この地を治めていた鮎貝氏は、当初伊達氏に従っていた。そこへ手を伸ばしてきたのが最上義光、伊達政宗の叔父である。山形を拠点とする最上氏からみれば、鮎貝の地を手中におさめることは、伊達の本拠地である米沢・置賜盆地への入り口を抑えたに等しい。

鮎貝氏はいままで通り伊達方につくべしとする父・鮎貝日傾斎盛次とその嫡男・鮎貝宗信に分裂した。政宗は電光石火の速さで鮎貝に軍勢を差し向け、城にこもる鮎貝宗信を討たんとした。鮎貝宗信は当然、最上義光に援軍を要請したが、それが受け入れられることはなかった。

結局、鮎貝宗信は最上領へと逃亡し、鮎貝氏は伊達氏にあらためて忠誠を誓った。以後、鮎貝氏は宗信を廃嫡し、弟の宗益を跡継ぎにすえた。この家系は、江戸時代を通して気仙沼の領主として存続している。

この鮎貝騒動は、割と平和だった1587年の政宗にとってほとんど唯一の大事件といってもいい。そういういきさつがあるので、この鮎貝八幡宮では神社の宮司さんに話を聞いたりしつつ、いろいろな角度から写真をとってじっくりと見学したのだが、どれもくもってまともに使える写真がない!

唯一、まだ見るに堪えるのがこの写真。


左手が鮎貝八幡宮の境内で、こちらはその裏手にあたる場所。なかなか立派な水堀が写っている(のがギリギリみえる)。宮司さんによれば、現在の八幡宮は二の丸に相当するらしい。八幡宮だけでも立派なものだったので、本丸や周辺施設を含めると、総面積でいえばなかなか大規模なお城だったようだ。

■ 新潟へ

鮎貝八幡宮を抜けたあとは、国道113号(越後街道)をとおってひたすら新潟へ向かった。


道の駅 白い森おぐにで遅めの昼食。カレーと牛串ベーコン巻き。


道の駅 関川で無料の足湯。今回、短パンの上からレインスーツを着ていたので、防水パンツと靴を脱ぐだけですぐに足湯につかれるという便利な技をあみだしてしまった笑。

となりに「せきかわ歴史とみちの館」があって、越後街道の歴史に触れる意味でも立ち寄りたかったのだが、すでに日が落ちかけているため、泣く泣く断念。「戦国自衛隊の城」として有名な新発田城も同じ理由でスキップ。ひたすら新潟市内に向かう。

焦ったのは、国道7号 新新バイパスだ。筆者は原付を運転する際、スマホのGoogle Mapをカーナビ代わりにして走る。当然、車の運転に最適化されたルートがチョイスされ、新新バイパス経由のルートが表示されていたのだが、新新バイパスは自動車専用道路だったのだ! 自動車専用道路なので、原付は進入が禁止されている、事実上の高速道路だ。進入直前に原付進入禁止の表示を発見して、急停止からの90度の直角左折でエスケープ! いやー、あぶねがった!

■ ゲストハウス人参

というわけで、脇道の県道を通ってたどり着いた新潟市内。本当は夕方に到着して、夜の街を散策しようかなーと思っていたのだが、もうすでに20時近い。予約していた宿に直行した。

泊まったのは、ゲストハウス人参という場所。筆者はもともとバックパッカーなので、宿泊先にゲストハウスなりユースホステルといった相部屋・安宿を利用することが多かったのだが、ちかごろは年のせいか(つってもまだ20代だけど!)ビジネスホテルの利用が増えた。今回、久し振りにゲストハウスに泊まろう、と思ったのだが、これが正解だった。

ゲストハウス人参は、共有空間がバーを兼ねていることもあってか、宿泊客だけでなく地元の人が集まるコミュニティスペースとしての側面をもつ。チェックインを済ませてから、そのバーで地元の方や新潟で働く外国人と話せたのはいい体験だった。なにより、旅の晩に同世代の若者同士で酒を交えながら語りあうのはバックパッカーの醍醐味だ。

その晩に出会った人たちは、地元愛の強い人が多く、仙台から来た異邦人である筆者に向け、新潟はこんなところだよ、と一生懸命に教えてくださった。

なんかこの感覚懐かしいなー、旅先で友達ができる、出会いがあるゲストハウスってやっぱいいなー、と思いながら、就寝。

ところがゲストハウスでの出会いは、これだけで終わらなかった。

続く:【新潟の旅】2日目 新潟エクスカーション