2016年11月23日水曜日

中野宗時の乱 03 -謀反計画の全貌とは?-

中野宗時の乱(元亀の乱)シリーズ。01で事件の背景02でその顛末について解説した。今回は、未遂に終わった反乱の全貌について推理してみたい。

■中野宗時に加担したのは誰か?

まず、中野宗時のクーデタ未遂に加担したのは誰だったかを考えてみたい。まず怪しむべきは、中野宗時が逃亡する際に、それを見逃した者たちである。すなわち

高畑城主・小梁川盛宗(泥播斎)
白石城主・白石宗利
宮ノ城主・宮内宗忠
角田城主・田手宗光

らだ。彼らの城は、すべて中野一派の逃亡経路上にある。



彼らは亘理親子の様に積極的に中野一派を迎撃することはなかったから、輝宗につくか、中野につくか、少なくとも日和見的態度をとっていたのは間違いない。現に、輝宗もそれを咎めようとしたが、遠藤基信の進言によって事なきを得ている。

あるいは、事前に中野宗時の謀反に協力、参加を表明してはいたが、思わぬ形でそれが露見してしまったため、こうなってしまってはもはや中野サイドには立てない、と判断した可能性もある。

考えるに、伊達家中にはこういった日和見の態度の者が多かったのではないか。つまり、伊達家当主である輝宗が勝つか、それとも実力者・中野宗時が勝つか、両者のパワーバランスをみると、当時はなかなか判断しにくい状況にあったのだ。

そう考えると、伊達家中のほとんどの者があやしく見えてくる。むしろ、はっきりとシロと断言できるのは、

・息子と対立してまで謀反を知らせた新田景綱
・中野らの籠る小松城を攻撃して戦死した小梁川宗秀
・中野宗時を迎撃した亘理親子砂金貞常
・謀反予防の布石を打っていた遠藤基信

くらいではないか。

いや、彼らの行動だって、自らの関与を隠すための行いかもしれない。とにかく、疑いだしたらキリがない。

だからこそ、事件の取り調べに半年もかかってしまっただろう。誰が敵で、誰が味方なのかもよくわからない。ほとんどの者がグレーだ。下手な捜査をしたら、思わぬ藪蛇をつついてしまうかもしれない。取り調べは慎重に行う必要があったからこそ、半年もかかってしまったのだ。

さらに『治家記録』では、小関土佐なる人物についても触れている。中野事件の際は上方にいたが、米沢へ帰国後に「奉公余儀ナク励ムヘキノ旨誓詞ヲ捧ゲ」ている。『治家記録』は小関が中野の親族であった可能性を示唆しており、たまたま事件のとき上方にいたので加担しなかったが、もしかしたら…とも思えてくる。

■ 中野宗時のクーデタ計画とは?

『治家記録』には、謀反が発覚してからどうなったかについては詳細な記述があるのだが、どういう謀反計画だったのかは具体的に記されていない。事件の首謀者である中野宗時が逃亡してしまったので、当然といえば当然かもしれないし、伊達家の公式記録である『治家記録』では、家臣の機微に触れることは書きにくい事情もあっただろう。『治家記録』は、当時の家臣たちの子孫たちが現役の仙台藩士として活躍していた時代に書かれた書物である。

では、中野宗時の乱が実際に成功していたとすれば、どんな手口でそれを行ったであろうか?

実は、彼には前科があり、それをもとに推理することはできる。

前科とは、天文の乱である。

■ 天文の乱における中野宗時の手口

天文の乱とは、簡単にいうと伊達家の内紛である。伊達稙宗と、その嫡男である晴宗の争いだ。しかしながら、南東北の大名がそれぞれ稙宗派と晴宗派に別れて争ったため、事は伊達家の内紛では収まらず、南東北全土を巻き込む大乱となった。

この事件の背景には、他の大名との関係を優先する伊達稙宗に対して、伊達家家臣団の不満があったといわれる。その家臣団の筆頭が中野宗時である。

そしてその中野宗時が反乱の旗頭に据えたのが、伊達晴宗だった。つまり何が言いたいかというと、中野宗時の手口として、当主の方針に反対するためにその嫡男をかつぎあげて旗頭にする、という方法が前例としったのだ。

■ パペット政宗

それをふまえた上でよく考えてほしい。中野宗時が伊達輝宗に対抗するためには、誰を反乱の旗頭に据えるのが一番いいであろうか。

いるではないか。

当時4歳、パペット(あやつり人形)とするには最適の幼子にして輝宗の嫡子が。

梵天丸。そう、後の伊達政宗である!


歴史にIF はないが、この反乱が成功していれば、独眼竜・伊達政宗は中野宗時の操り人形としてそのキャリアをスタートさせていたかもしれない。

疱瘡で片目となった姿を池にのぞき込む梵天丸。
うぅ…。NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』より。
その場合、彼の理解者であり続けた輝宗は政宗の側になく、また片倉小十郎景綱のような有能な側近が彼を補佐することもなかっただろう。中野宗時にとっては、パペットである政宗は無能な方が操りやすい。片目を失明してふさぎがちになっていた政宗に、優秀な側近をあてがう必要なんてない。

内気な少年であったことが伝えられている梵天丸が後の独眼竜・政宗に成長するためには、父・輝宗と側近・片倉景綱、この二人の理解者の存在は大きかった。両者のサポートなく飾りの君主として育っていたならば、政宗は陰鬱な当主として中野宗時の操り人形であり続けた可能性が高いと思う。

…そう考えると、この中野宗時の反乱は失敗に終わってよかったなとつくづく思う。反乱が失敗したからこそ、後世の我々は伊達政宗という偉大な英雄の活躍に心を躍らせることができたのだから。



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