2016年9月1日木曜日

通木城

とおりきじょう
通木城
通木城主郭部(竹駒稲荷神社)
城郭構造
平城
比高
約5m (ふもとの標高:約15m、本丸約20m)
残存遺構
曲輪
築城
築城年
不明
城主
室田氏
室田右衛門 (大崎家中の人物か)
廃城
廃城年
不明(戦国時代末期~江戸時代初期か)
位置
住所
宮城県 大崎市 田尻 通木 御室
現状
竹駒稲荷神社、一般住宅、畑
ドライブ中に偶然みつけたお城を紹介。宮城県大崎市内の田尻という集落(旧田尻町)にある通木とおりき城というお城で、宮城県道175号 田尻瀬峰線を南下中にたまたま発見。

■ 通木城の歴史

通木城についてわかっていることはほとんどなく、築城の時期も主も不明である。ただ、興味深いのは宮城県の郷土史家・紫桃正隆氏が
「通木」の「木」は、「柵」に通ずるものあり、古くは新田柵の東郭に擬さるべき所と信じている。(『仙台領内古城・館 第3巻』)
と述べており、対蝦夷城柵である新田柵の一部だった可能性を指摘している。だとすれば、その歴史は古代までさかのぼることになり、相当古いものとなる。

唯一明確にわかっているのは、戦国時代の館主として室田右衛門という人物の名が伝わっているだけである。『仙台領古城書上』には
一  通木城 東西26間  南北20間 城主 室田右衛門 
とある。「平」とは平城のことであり、東西26間 = 47メートル、南北20間 = 36メートルである。

当時の状況と室田という姓から推察するに、大崎氏支配下の城であったことがうかがえる。大崎家中に、不動堂城主であった室田小斎隆親なる人物もいたのだが、その親族だろうか。室田小斎は大崎合戦に際して師山城にこもって伊達軍を迎え撃っており、室田右衛門もなんらかのかたちで戦闘に参加していたかもしれない。

クリックで拡大。
赤い印の左上から高清水城、通木城、百々城、涌谷城


地理的条件をみてみると、大崎氏の南東方面の防衛線、つまり対葛西氏最前線であった高清水城 - 百々どど城 - 涌谷城を結ぶライン上にきれいにのっかることがわかる。

というわけで、この通木城も対葛西氏への備えとしての防衛拠点、出撃拠点としてなんらかの機能を果たしていたのではないかと思う。

廃城の時期も不明だが、葛西・大崎一揆で戦場となった形跡もないので、続く伊達氏の岩出山移封ののち、この地が伊達領となってからは使われなくなってそのまま廃城となったものと推察される。

なお、明治時代末期の電柱敷設工事の際に、多数の古銭が発見されたという。

■ 通木城の構造

県道沿いにある稲荷竹駒神社が本丸に相当するようで、周囲は約5メートルほどの高台になっている。


夏祭りの後だったのだろうか、社のとなりにやぐらが組まれていた。

神社の南北に畑が広がっており、こちらも周囲と比べると若干高度がある。曲輪として利用されていたものの名残だろう。

神社北側
先ほども引用した『仙台領古城書上』では南北20間(36メートル)に対して東西26間(47メートル)とあり、東西に広がっているとされているが、歩いてみた印象では南北に長いように思えた。東側はなだらかに高度を低くしており、曲輪の様子は見られなかった。こちらは一般の住宅となっているので、整地されてしまったのかもしれない。どちらにせよ、規模としてはそれほど大きくはない。

上記で、「対葛西氏への備えとしての防衛拠点、出撃拠点としてなんらかの機能を果たしていたのではないか」と書いてしまったが、どうも規模から考えて本格的な城郭であったとは考えにくい。近隣には、もっと城郭の建設地として最適であろう標高を備えた田尻大嶺、田尻八幡といった小高い丘もあることを考えると、城郭というよりは居館を簡単な堀で囲んだものだったのではないかと思える。
神社南側

とてもこじんまりとしていて、見学していてまったく疲れない、ドライブ中の息抜きにちょうどよいお城であった。この記事を書くのにも、現地滞在10分、図書館での調べもの1時間、執筆1時間と、最初から最後まで気分転換に最適という、なんとも優れたお城である(笑)

■ 参考文献
・紫桃正隆『史料 仙台領内古城・館 第三巻』(宝文堂、1973年)
・『日本城郭大系 第3巻 山形・宮城・福島』(新人物往来社、1981年)
・田尻町史編さん委員会『田尻町史』(1982年)
・『仙台古城書上』(「仙台古城記」、仙台叢書刊行会『仙台叢書』第4巻所収、1923年)