2015年7月7日火曜日

石原莞爾将軍墓所 -陸軍の異端児が眠る霊廟-

石原莞爾
Wikipedia より拝借
仕事で酒田まで来たので、ついでによれる場所はないかと検索してみたところ、「石原莞爾の墓」なるものがヒットした。そういえば、この人も東北(鶴岡)出身者である。最近は戦国時代、伊達家にまつわる記事ばかりをアップしているので自分でも忘れてしまいそうになるのだが、このブログのテーマはあくまで「みちのく」である。

この石原莞爾(いしら かんじ)なる人物、一言で説明するなら「満州事変(1931)を起こした主謀者」だ。それだけ聞くと、左よりの人たちからは拒否反応が出てしまうかもしれないが、石原はそこまで単純な人物ではない。満州事変の首謀者でありながら、二・二六事件の反乱軍を鎮圧したり、日中戦争の拡大に反対したりしている。

一方では日蓮宗の熱心な信者であり、『世界最終戦論』では将来の日米戦争(太平洋戦争)を予言し、その最終戦争のあとには、人類は永久平和の時代を迎えると説くなど、一言で「軍国主義者」と片づけるわけにはいかない何かがこの男にはある。

その「何か」について語っていると、それだけで専門のブログができてしまう程の奥深さがある人物なので、詳しく知りたい方は彼の著作である『最終戦争論』『戦争史大観』あたりを読んでみてほしい。彼がどういう思想・世界観をもった人間なのかがよくわかるはずである。

私は高校生(当時)のときにヤングジャンプで連載していた本宮ひろ志の『国が燃える』という漫画がきっかけで石原莞爾の存在を知って以来、彼への興味は尽きることなく今日まで生きている。


ともあれ、石原について語っていると止まらなくなってしまうので、この記事では彼の墓について述べるに留める。

■ 墓の場所

墓所は「旧墓所」と「新墓所」の2か所あり、どちらも近い位置にあるのだが、間に国道7号 吹浦バイパスが通っているため直通ができず、大きく迂回するしかない。ちなみに新墓所には駐車場がある。


住所は 山形県 飽海郡 遊佐町 菅里 菅野

酒田から国道7号を北上し、吹浦バイパスと旧道が分岐するY字路の近辺。石原莞爾が晩年を過ごした場所の近くということらしい。

■ 旧墓所

文字がハゲているが、「石原莞爾先生の墓」とある。

入口は住宅地の奥、雑木林になっているところ。


雑木林の中、整備された道を進んでいく。案内板に従って歩けば迷うことはない。


石原莞爾の墓。てっぺんには「南無阿弥陀仏」と書いてあった。石原莞爾は熱心な日蓮教徒としても知られており、彼の『最終戦争論』には日蓮宗の教義の影響もみられる。


石原莞爾が目指した戦後日本復興の三大スローガン、「都市解体」「農工一体」「簡素生活」の碑。現代にも通じるものがあると思うのは私だけではないだろう。「都市解体」は地方分権を彷彿とさせるし、「簡素生活」はEUに支援を求めておきながら自らは財政再建の努力をしない(少なくとも私にはそう見える)ギリシアのことをなんとなく思い起こさせる。

なお、仕事帰りにたちよったため、このあたりから写真が暗くなっており、無理やり編集で明るくしたので画質が粗くなっていることをお断りさせていただく。

■ 新墓所

新墓所は国道7号吹浦バイパス沿いにあり、駐車場もあるので入りやすい。

左が国道7号 吹浦バイパス。左手奥が新墓所。

「私はただ仏様の予言と日蓮聖人の霊を信じているのです 石原莞爾」とある。


旧墓所と同じ三大スローガン。


同志之霊碑。日も落ちておやすみのところ、フラッシュで眠りを妨げてしまって申し訳ありませんでした...。

旧墓所、新墓所ともにとても丁寧に手入れがされており、管理されている方々の心情がうかがい知れる場所だった。墓所のホームページによれば、「石原莞爾顕彰会」なる団体が墓所を管理されている様だ。

◾︎ 東北出身の軍人たち

さて、石原莞爾は1889年に山形で生まれ、1901年まで同地で幼年期を過ごした。1902年から3年間、仙台陸軍地方幼年学校に在学しており、その後は全国各地、あるいは海外で勤務することも多かったが、まごうことなき「東北人」である。

石原莞爾もそうだし、彼とともに満州事変を主導した板垣征四郎も岩手県出身である。

この時代に活躍した旧・大日本帝国軍人、および関東軍軍人には、「あんたもか!」ってくらいに東北出身者が多いことに驚く。冷静に考えれば日本軍はかなり大きな組織なので、東北出身者が多くいても当たり前なのだが、以下、思いつく限り列挙すると

小磯国昭
生まれは宇都宮だが、旧新庄藩士の長男として生まれ、旧山形県中学校(現在の山形県立山形東高校)を卒業。陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官、内閣総理大臣を歴任。東京裁判で終身刑判決。
米内光政
岩手県盛岡市に旧盛岡藩士の長男として生まれる。連合艦隊司令長官、海軍大臣、内閣総理大臣を歴任。
服部卓四郎
山形県出身。陸軍士官学校時代は「34期の三羽烏」と称された秀才。参謀本部勤務などを経て関東軍作戦主任参謀に。ノモンハン事件においては作戦参謀の辻政信と共に拡大方針を唱えた。
甘粕正彦
宮城県仙台市に旧米沢藩士の父と母(仙台藩士の娘)の長男として生まれる。憲兵となったのち、1923年関東大震災のときに起こした社会主義者・大杉栄の殺害事件(甘粕事件)で有名。軍を退官後、フランス留学を経て満州に赴任。満州国の建国、運営に大きな影響を及ぼした。

今村均
宮城県仙台市生まれ。祖父は仙台藩士。陸軍大学校を首席で卒業後、関東軍参謀副長、教育総監部本部長などを歴任。太平洋戦争においては第8方面軍司令官としてラバウル島防衛の任につく。温厚で高潔な人柄と、占領地での軍政・指導能力は高く、名将という評価を受けており、旧占領国の現地住民だけでなく、敵国であった連合国側からも称えられている。

などがいるだろうか。

一口に「東北出身の軍人」とは言え、所属部隊や階級、思想も行動もバラバラなのだが、薩長閥に牛耳られた帝国軍において「朝敵」の子孫として育った彼らの心のうちには、なんらかの共通点を見出せそうな気がしてならない。

東北出身者ということであれば、昭和恐慌下の厳しい不況、および東北を苦しめた冷害の被害者が、彼らの身内や親しい人の中に大勢いたはずなのである。

そういう境遇にある軍人が「満州をとれば、中国をとれば日本は少しはマシになる」と考えるのは必然だったのかもしれない。当時の世界は「ブロック経済」「帝国主義」のロジックで動いた世界であるから、なおさらである。石原莞爾もそうであったのかもしれないし、実際、関東軍にはそういった東北出身の兵卒・下士官が多かったと何かで読んだことがある。



東北出身の帝国軍人は多い。

彼らの中に共通項を見いだせるかどうかはやってみないとわからないが、いつか、彼らがどういった状況で、どういう考えに基づいてどんな行動に至ったのか、じっくり研究してみたいところではある。