2015年5月13日水曜日

宮崎城 -伊達軍を翻弄した要塞-

みやざきじょう
宮崎城
宮崎城遠景。南東方面から。2015年。
別称
特になし
城の格
大崎家臣・笠原氏本城
伊達仙台藩「
城郭構造
山城
天守構造
なし
比高
約70m (ふもとの標高:75約m、本丸約145m)
残存遺構
堀切、曲輪
指定
特になし
築城
築城年
不明(1339年以前、もしくは正平年間(1346-70))
築城者
笠原重広?
城主
笠原氏
(宮崎氏)
笠原重広、為広、為宗、為時、詮時、兼時、
仲沖、隆治、隆親
城預かり
片平親綱、山岡重長、石母田宗頼
(文禄より慶長のはじめ、交代で統治)
牧野氏
牧野盛仲、茂中(?)
石母田氏
永頼、宗存、頼在、興頼(1652-1757)
古内氏
義清、義周、実徳、実道、実直、実広
(1757-1869)
廃城
廃城年
不明(江戸時代は所として存続)
理由
不明
位置
住所
宮城県 加美郡 加美町 宮崎 麓一番
現状
山林
今回紹介する宮崎城は、宮城県内でも有数の天険である。

1.宮崎城の歴史
1-1.笠原氏
宮崎城が建てられたのがいつなのかははっきりしない。『宮崎町史』には「初代笠原重広が延元四年(一三三九)宮崎城を賜って」とある。もともと存在していた城を「賜った」のか、彼が築城したのかは不明だが、少なくとも1339年の時点では存在していたようだ。

一方で『日本城郭大系』には「笠原氏系図」に正平年間(1346-70年)に笠原重広が宮崎城を築いたことが記されている、としている。

現地の案内板には「大崎氏時代には三大名城のひとつといわれ、自然の要害の地であった」と記されている。

笠原氏は大崎氏の家臣で、親族である柳沢(屋木沢)氏、米泉氏、谷地森氏などを従えてこの一帯(現在の加美町北部、旧宮崎町)あたりを支配した。笠原宗家は宮崎の姓を名のってもいる。

大崎氏内部では、氏家氏など、大崎宗家に公然と反旗を翻す一族もあったなか、笠原一党は比較的忠実に大崎家に仕えたようである。大崎家が分裂した天正末期の騒動では大崎義隆の呼びかけに宮崎、屋木沢、谷地森氏が応えて参陣している。

1-2.宮崎城の戦い
宮崎城が脚光をあびるのが、葛西・大崎一揆においてであた。大崎家は葛西氏とともに奥州仕置の際に改易となり、新領主として秀吉旗下の木村吉清・清久親子が入ってくるが、これに対する一揆が旧葛西・大崎領で頻発した。

この一揆の特徴は、単なる農民暴動ではなく、旧領主・大崎家や葛西家の家臣たちが組織的に新領主・木村親子に反抗したことにあった。また、伊達政宗がこれを扇動していたとする説が有力で広く知られているが、実際のところはわからない。

ときの笠原家当主・笠原(宮崎)隆親も一揆に参加したうちの一人である。実は隆親の叔父にあたる谷地森直景の娘(つまり隆親のイトコ)が大崎家当主・大崎義隆の妾であり、嫡子・庄三郎(義興)を生んでいたのである。

嫡子の母親の家系・つまりは外戚として、笠原一党は大崎家中における主流派を形成していた。ともなれば、お家の滅亡を黙って受け入れられないのも必定。笠原党は庄三郎を擁し、大崎家復興のために宮崎城で挙兵した。

浜田景隆の墓宮崎中学校わき)
胸部を撃ち抜かれても「体を城の方へ
埋葬してくれ」と言い残し死したという。
ときの権力者・秀吉から鎮圧を命じられたのは伊達政宗だった。伊達の軍勢は約1万。対する籠城軍は約3000人である。

攻撃は天正19年(1591年)6月24日から開始された。初日から伊達の智将・浜田隆景が討ち死にし、大松沢元実も腰を撃ち抜かれるなど被害甚大な激戦となった。

2日目になると伊達の総攻撃が始まるが、このときの原田宗時後藤信康のエピソードが伝わっている。二人はいつも先陣を競い合っていたのだが、後藤信康が夜にこっそり抜け出して城に忍び入って石壁に取りつくと「えらい早駆けじゃのう」という声がする。みてみると信康よりも先に忍び込んでいた原田宗時が城門の柱にしがみついていた。

城門から敵が攻めてきたが、二人は隠れて城内にとどまった。敵の攻撃がやんで城内に戻ると、二人は城門を開け放って味方を招き入れ、そのまま城は大混乱になったという。

城主・笠原隆親は降伏を申し出たたが政宗はこれを許さず、徹底的な殲滅を主張した。おそらくはここで撫で斬りのパフォーマンスをすることにより、他の一揆勢に対するデモンストレーションとしたかったのだろう。しかし伊達成実が「敵の本拠地は佐沼城にあり。佐沼も堅城である故、宮崎での犠牲は少なく済ませ、早急に佐沼へ向かうべし」と献策した。政宗は成実の意見に納得するも許しがたかったらしく、城は炎に包まれた。

笠原隆親は家臣らとともに秘密の坑道を抜けて脱出。出羽の小国へと落ち延び、舅を頼ろうとしたものの城内に妻子を残してきたためにどうも居心地が悪かったのか、最終的には由利まで赴いている。

宮崎城を落とした伊達勢は佐沼へと転戦。政宗の主張した「徹底的な殲滅」は佐沼にて行われることになる。

1-3.伊達領 宮崎所
葛西・大崎一揆の終結とともに宮崎も伊達領の一部となる。岡千仭『仙台藩史料』によれば「文禄より慶長のはじめ宮崎城は片平親綱、山岡志摩(重長)、石母田宗頼の三人に預けられ交代してここを管理」していたようだ。

江戸時代になると宮崎城は伊達四十八舘のひとつ、城郭ランク「所」として領内支配の拠点となる。江戸時代初期の統治者は記録には残っていないものの、『宮崎町史』では牧野家の支配管理下となったが、故あって改易、家断絶となったために伊達家の記録から抹消されたものと推測している。

記録が残っているのは承応元年(1652年)からで、この年に石母田家6代目の永頼が岩ケ崎から転封となって宮崎に入る。以下、7代・宗存、8代・頼在と続き、9代・興頼のころ、宝暦7年(1757)に高清水へと移封となる。

代わりに入ってきたのが古内氏で、5代・義清、6代・義周、7代・実徳、8代・実道、9代・実直と続き、10代・実広のころに明治維新を迎えた。

なお、石母田氏の時代、明暦元年(1655)には領主の館を移している。旧館は狭い傾斜地にあり、町場の形成に難があり、街道からも離れていたので宿場北側に移転したという。『史料 仙台伊達氏家臣団事典』では、石母田氏に代わって入封した古内氏もその館を引き継いだ、と推測している。


2.宮崎城の構造
現在の加美町役場 宮崎支所の裏山、熊野神社の東側一帯が宮崎城の城域にあたる。熊野神社までは道が通っているが、城域には道がないので、雑木林をかき分けて進んでいくしかない。

登山道が整備されていないことも相まって、まずもって言えるのが、一目見ればわかる大要塞である。

以下は、Google map から取得した等高線だ。東西に二つ高台になっている箇所があり、東側の曲輪はすぐに田川へと落ち込む崖になっていることがわかる。


『宮崎町史』には宮崎城の推定図が載っており、これと一致する。


『宮崎町史』では東側を本丸、西側を二の丸としているが、高さはどちらもほぼ同じだった。おそらく当時は、二つの高台が橋で結ばれていたのだろう。

東側本丸から崖にそって、ゆっくりと標高が落ちていく箇所が登城道だったようだ。西側のふもとは今も住宅が並ぶが、ここに侍屋敷が数件立っていた。

2-1.西部二の丸近辺
城のふもとは畑になっていて、私有地っぽくて勝手に入るのも気が引けたので、熊野神社のわきを通る道、城の案内板があるあたりから雑木林の中に入っていくことにした。


すぐに山が段々になっており、曲輪の痕跡が残っていることに気づく。


周囲と比べると少し傾斜がなだらかになっている場所がある。ここが登城道の跡か。


そのすぐ下は、急な斜面で堀になっていた。


二の丸の平坦部。紫桃正隆氏の『仙台領内古城・館』には「東西80m、南北50mの長方形に近い」とある。

2-2.東部本丸


二の丸から降りて本丸へ向かう。その間は空堀になって隔離されている。右が二の丸、左が本丸。


かなり急な本丸の斜面。

本丸平坦部。『仙台領内古城・館』によれば「東西70m、南北50mの楕円形」


頂上部で、石神様を発見。この一帯で初めて人工構造物を発見かと思いきや...


木の根っこの下に洞穴が。写真後ろに映る積み上げられた木の枝もそうだが、どうも人の手が加えられている様な気がしてならない。もしかして誰か住んでた? (もしくは現在形で住んでる?)

こういう山の中で、動物よりも人の気配がすることがなにより怖い。日の明るい時間にきてよかったー、と心から思った。あるいは、これが笠原隆親が逃げたという地下道の跡!?



本丸のてっぺんは約145メートル。麓との比高は約70メートルで、かなり見晴らしもいいはずなのだが、木が生い茂っているせいでいい眺めを見れる場所はない。木の合間からちょこっとだけ見えているのが田川。

写真ではなかなか伝わりにくいと思うが、東本丸から田川へと落ち込む斜面。相当な急角度。


城を歩いていて遭遇したアオダイショウ。冬眠から目覚めたばっかりだろうか。周囲の景色に同化して、あやうく踏んづけるところだった。


2-3.城の周辺


城の西側・熊野神社。こちらは参道が整備されており、わざわざ林の中を歩かなくてもたどり着ける。1320年の勧進。


丸に三つ引きの紋。大崎氏の家紋は通常「丸に二つ引」だが、三つ引き紋が使われることもあったのだろうか。


近くの公園から見た東側の絶壁。ちょうど真上が東側本丸のあたり。田川と崖に阻まれた、まさに天嶮の要害。原田宗時、後藤信康のふたりはまさかこの崖を登って侵入したのだろうか。


山のふもとのあたり。城の南側から。『仙台領内古城・館』によれば大手門跡があるらしいのだが、発見にはいたらず。

この宮崎城、もともとかなりの要害であることは事前知識としてあったのだが、実際に訪れてみるとそれ以上のものがあった。だいたい、どこの廃城跡も登城道くらいは残されているものなのだが、宮崎城ではそれがないうえに草木は生えっぱなしで人の出入りした形跡がまるでない。iPhoneのGPS機能がなければ、スムーズな見学はできなかっただろう。ほら穴で人の気配を感じたり蛇に遭遇したりも相まって、自分の中では宮城県内トップクラスのスリリングな城跡だった。

■参考文献
・紫桃正隆『史料 仙台領内古城・館 第三巻』(宝文堂、1973年)
・紫桃正隆『宮城の戦国時代 合戦と群雄』(宝文堂、1993年)
・『日本城郭大系 第3巻 山形・宮城・福島』(新人物往来社、1981年)
・宮崎町史編纂委員会『宮崎町史』(1973年)


2015年5月3日日曜日

政宗配下の24武将、そのメンツに迫る ~『伊達家臣二十四将図』とは? ~

学研の『新・歴史群像シリーズ⑲ 伊達政宗』に「伊達家臣二十四将図」なる絵図がのっている。ページのはしっこに小さい写真で紹介されているだけなので、具体的に誰が24将に相当するのかは文字が小さすぎて判別できない。

この絵図は涌谷の町立史料館におさめられているもので、一度行って写真を撮影してきたのだが、遠くからとったものであるために拡大しても文字が読めないというポンコツ写真(およびポンコツ撮影技術...)だったため、24将が誰なのかをはっきりさせるためにも、もう一度涌谷まで行ってそれを見てくることにした。これがその、「伊達家臣二十四将図」である。



涌谷町立史料館は写真撮影可とのこと
場所は伊達二十一要害のひとつ、涌谷城址
■「伊達家臣二十四将図」

「24将」ではあるが、伊達政宗本人も含めて25人が描かれている。当然、「1」の一番上に大きく描かれているのが政宗である。以下
02.亘理兵庫元安(※元宗、元安斎)
03.伊達藤五郎成実
04.片倉小十郎景綱
05.鬼庭良直入道左月
06.留主上野政景(※留守)
07.大條薩摩実頼
08.伊藤肥前重信(※伊東)
09.後藤孫兵衛信康
10.原田左馬之助宗時
11.中村八郎右衛門盛時
12.白石若狭宗実
13.大町三河■■(※おそらく定頼)
14.斉藤外記永門
15.小梁川泥蟠斎(※盛宗)
16.泉田安藝重光
17.黒木肥前■■(※宗俊か宗元)
18.遠藤文七郎宗信
19.石田将監與純
20.小山田筑前定頼
21.津田豊前景康
22.小田邊勝成
23.石母田大膳宗頼
24.富塚小平治宗総
25.石川弥平実光 
となっている。上記の名は絵図の表記に従ったが、表記ゆれも散見されるので、その場合は(※)で補正した。■■の部分はどういうわけか黒墨で塗りつぶされていて読めない。



■24将紹介

それでは、それぞれ簡単にどういう人物だったのか紹介してみよう。


02. 亘理元宗
伊達稙宗(政宗の曽祖父)の12男で亘理家を継ぎ、亘理城主に。政宗の時代まで伊達家の重鎮として各地を転戦。のち元安斎と号し涌谷城主に。この絵図は「涌谷の殿さまは24将の中でも政宗のすぐ近くにいますよ」というアピールとして涌谷史料館に展示されている様だ。

03. 伊達成実
「智の小十郎」こと片倉景綱と並ぶ政宗側近中の側近で「武の成実」と呼ばれた猛将。父親は伊達稙宗の3男・実元、母親は政宗の叔母・鏡清院で政宗の従弟でもある。一時期出奔するが、関ヶ原の戦い前に帰参。大森城 → 二本松城 → 角田城を経て最終的に亘理城主に。

04. 片倉小十郎
言わずと知れた政宗側近。政宗の家臣の中で一番有名なのがこの小十郎だろう。輝宗の小姓だったが政宗の近習として仕え、参謀各として政宗を常に支え続けた。他の大名からも伊達の筆頭家老として認識されていた様である。後に大森城 → 亘理城を経て最終的に白石城主に。

05. 鬼庭左月斎
政宗の父・輝宗の側近で政宗の時代には60歳越えのおじいちゃん世代でありながらも第一線で活躍した猛将。人取橋の戦いでは政宗を逃がすためにしんがりを務め、壮絶な戦死を遂げる。息子の綱元も政宗の側近として彼の治世を支え、伊達成実、片倉小十郎、鬼庭綱元の3人を「伊達三傑」と呼ぶことも。


06. 留守政景
政宗の叔父にあたる人物で、留守家を継ぐ。大崎合戦では泉田重光とともに大将、長谷堂の戦いでも大将を務めるなど、政宗の信頼は厚かったらしい。後に雪斎と号す。亘理元安斎、小梁川泥蟠斎とあわせて、政宗の「一族衆シニア組三傑」と勝手に命名。後に伊達姓に復帰し、水沢伊達氏の祖となる。 ⇒ 個別記事

07. 大條実頼
「おおえだ」と読む。蘆名氏に嫁いだ彦姫(政宗の叔母)に従って蘆名氏に属していたが、1588年に彼女が死去すると伊達家に帰参。以後奉行職、丸森城主に任命されるなど重用された。大條氏はもともと伊達氏の庶流であり、明治になってから伊達に復姓した。この家系の末裔にサンドウィッチマンの伊達みきおがいる。

08. 伊東重信
人取橋の戦いで活躍。大崎合戦の際は伊達領北方の防衛にあたった。1588年の郡山合戦では政宗の身代わりになって討ち死にしたというエピソードが残る。また、孫にあたる伊東重孝は寛文事件(伊達騒動)に関連する人物でもあり、伊達宗勝を討とうとするも失敗して捕縛された。

09. 後藤信康
会津・蘆名氏への備えとして4年間檜原城主を務める。以後も葛西・大崎一揆の鎮圧や朝鮮出兵などで武功多数。常に黄色の母衣を身にまとい「黄後藤」の異名をとった。一時期政宗から追放されるが(原因は不明)、後に帰参。子の代、後藤家は不動堂城主となる。 ⇒ 個別記事

10. 原田宗時
後藤信康に決闘を挑むも、「つまらないことで死ぬくらいならその命を伊達家のために使おう」と諭されて以後、信康とは刎頚の友となったというエピソードがあり、彼とともに各地で多くの武功をたてた猛将。朝鮮出兵の際に風土病を患い、帰国かなわぬまま病死した。


11. 中村盛時
中野宗時(名前がまぎらわしい...はじめこの人の間違いかと思った)が謀反を起こした際にこれに加わるように誘われたが固辞した。小手森の戦いで武功あり。人取橋の戦いでも奮戦して20騎を打ち取り浜田景隆の窮地を救うが、政宗はこの手柄を認めなかった。抜刀して「この刀で20騎を切った」と直訴すると政宗は初めてこれに応じ、500石まで加増したというエピソードが残る。

12. 白石宗実
若いころには諸国を遊学し、信長屋敷で講義したり、家康に招かれたりするなど博学の士であったらしい。仙道方面の戦いで活躍し、白石城から宮森城主に。奥州仕置後は水沢15000石の城主となる。朝鮮から帰国後の1599年に没。後に子孫は登米城主となり、伊達氏の名乗りを許された。 ⇒ 個別記事

13. 大町兼頼
大町家は奉行を務め、金ヶ崎要害の主となった家系。絵図には「三河」としか記されていないが、人名事典によれば「三河」を称したのは兼頼である。天文の乱で稙宗党であったため、晴宗の命により弟の頼明が家を継ぐことになり、兼頼は隠居、流浪した。


14. 斉藤永門
外記と称す。大坂の陣の後、松平忠直に謀反の噂が立つと政宗の命で越前にこれを探りに行く。たまたま伊達家から逃げ出した下郡山清八郎なるものが松平家で鷹匠をしているのを見つけ、彼を捕らえる。政宗は喜び望みを聞いたところ「財産はいいので名前を残したい」と答え、仙台城下町に「外記町」なる地名が残った(現在は青葉区本町)。

15. 小梁川盛宗
小梁川家は伊達氏庶流で、盛宗は伊達晴宗の娘を正室に迎えるなど、晴宗政権下では重臣のひとりとなった。輝宗の死後、老齢を理由に泥蟠斎と号して隠居するが、政宗のアドバイザーとして仙道方面の戦に従軍、幕閣に加わり続ける。

16. 泉田重光
岩沼城主。大崎合戦の際は留守政景と共に大将を務めるが、中新田城の攻略に失敗し、新沼城への籠城を強いられた。彼が捕虜となることで城兵は解放されるものの、山形まで連行され約半年間に及ぶ虜囚生活を過ごす。最上義光からは何度も投降を進められたが、伊達家に叛くことはなかった。後に薄衣城主に。 ⇒ 個別記事

17. 黒木宗俊、宗元
黒木「肥前」と記されており、諱は黒墨で消されていてわからない。黒木家には宗俊、宗元の親子がいるがどちらも「肥前」を称しており、どちらを意図したのかは不明である。なんで黒墨で消してしまったんだ、まったく。黒木家はもともと懸田氏を名乗った伊達の臣だったが、天文の乱後に謀反を起こして相馬に逃亡。後に伊達に帰参して駒ヶ嶺城主となった。

18. 遠藤宗信
政宗の父、輝宗の最側近だった遠藤基信の息子。輝宗の死後、基信が殉死すると代わって政宗に仕えた。小十郎が不在のときは政宗の相談相手となることが多く、信頼されていた様子がうかがえる。原因は不明だが一時期出奔し、後に帰参。1593年、若くして22歳で没。遠藤家は宿老として幕末まで伊達家に仕え続けた。

19. 石田與純
「よしずみ」と読む。14歳のとき、伏見で政宗の近習に抜擢される。大阪の陣では戦功があり、小姓頭に昇進。政宗が死去すると、徳川家光は仙台藩に対し殉死を止め忠宗に仕えるように促したが、與純は老中・酒井忠勝に対し強く殉死を望んだため、これを許された。瑞鳳殿の本殿脇に墓があり、政宗とともに眠る。


20. 小山田定頼
柴田郡の将。政宗に仕え各地を転戦。大崎合戦の際は軍監として従軍。大崎勢が反撃に転じると乱戦の中で定頼も苦境に立たされ、敵兵ともみ合いになる。敵兵は刺しぬかれたものの定頼を離さぬままに絶命。動けぬところを寄ってきた大崎の兵によって打ち取られるという、壮絶な戦死を遂げた。

21. 津田景康
旧姓は湯目。秀次事件の際に政宗がその関与を疑われると、この無実を中島宗求とともに津田ヶ原にて秀吉に直訴、政宗は無罪となる。これにちなんで「津田」の姓を与えられる。後に佐沼城主となり、忠宗の代には評定役に任命され奉行職を務めた。

22, 23. 小田辺勝成 / 石川実光
共に元二本松家臣。小田辺は騎馬で敵をかき乱すことに優れたので「乗込の大学」、石川は歩兵として防戦することに優れたので「不屬(しらます、勢いを殺すこと)の弥平」と呼ばれた。二本松滅亡後に浪人するが、後に片倉小十郎を通じて伊達家に仕えるようになる。長谷堂城の戦いでも活躍。

24. 石母田宗頼
元朝倉家臣の子。はじめ小早川英秋に仕えたが1599年から政宗に仕え重臣・石母田景頼の娘婿となる。白石城の戦いでは先陣を務め、大坂の陣は抜群の武功があった。政宗が没すると殉死を願い出るが、徳川家光の上意により差し止められる。忠宗の代には奉行職に任命された。

25. 富塚小平治宗総
「むねふさ」と読む。絵図には「富塚小平治宗総」となっているが、どうも二人の人物がまざっている様だ。どちらも似たような経歴なのだが、共通しているのは宿老・富塚信綱の弟で、上杉との戦で安田勘助なる者を討ち取ったが、政宗にこの手柄を認められなかったので憤慨して出奔。秀頼に仕えて大坂城に籠った、ということである。富塚「小平治」は後に山川帯刀と変名した人物で、富塚「宗総」ははじめ「小平太」と称し柴田五左衛門と変名した人物である。



■24将の選抜基準とは!?

...さて、この24人なのだが、一言でいうとバラバラである。バラバラすぎて、共通項を見出すことがなかなか難しい。

ひとつめに時代。鬼庭左月斎は1585年の人取橋の戦いで戦死している一方で、石田與純は1589年の生まれである。したがって、この絵図の様に24人プラス政宗が一同に会したということは歴史上ありえない。

ふたつめに忠誠度。黒木肥前はもともと相馬の家臣であったし、小田辺勝成、石川実光は元二本松家臣、富塚小平治宗総にいたっては人名事典に「叛臣」とまで明記されている人物である。

最後に家格。仙台藩では時代とともに家臣の家格ランクが明確に整備された。最高ランクの「一門」第一席は石川昭光なる人物で、一門、一家、準一家、一族、宿老、着座、太刀上...という家格の序列が明確に定められている。
話はそれるが、石川昭光はこの24将に含まれておらず、恥ずかしながら24将に含まれている石川実光の存在を知らなかった筆者は、「石川光」は「石川光」の書き間違えではないのか? と疑ってしまった。
他にも家格の高い「一門」の岩城政隆、白河義綱、あるいは「一家」の秋保氏、鮎貝氏、柴田氏なども含まれていないし、伊達家の家臣には他にも城主クラスがゴロゴロいる。一方で、一介の侍や武者頭クラスの武将が24将に選ばれている。

何を選抜の基準として24人が選ばれたのか、もう少し考察が必要みたいだ。

■秀次事件当時の重臣たち

参考までに、秀次事件時の19人の重臣、というくくりがある。1595年の秀次事件で政宗の関与が疑われた際に、当時の重臣19人が連判起請文を提出し豊臣氏への忠誠を誓ったものである。これは当時の記録なので、その時代において自他ともに認める重臣たちであったことは間違いない。そこに名前が記されているのが

  • 石川 中務大輔 義宗
  • 伊達 藤五郎 成実
  • 伊達 上野介 政景 (留守政景)
  • 亘理 兵庫頭 重宗
  • 伊達 彦九郎 盛重 (国分盛重)
  • 泉田 安芸守 重光
  • 大條 尾張守 宗直
  • 桑折 点了斎 不曲 (桑折宗長)
  • 白石 若狭守 宗実
  • 石母田 左衛門 景頼
  • 大内 備前守 定綱
  • 中嶋 伊勢守 宗求
  • 原田 左馬助 宗資
  • 富塚 内蔵頭 信綱
  • 遠藤 孫六郎 玄信
  • 片倉 小十郎 景綱
  • 山岡 志摩守 重長
  • 湯目 民部少輔 景康
  • 湯村 右近 親元    (以上、『貞山公治家記録 巻之十九』 文禄4年8月24日の条)

である。緑色かつ太字なのが24将図にも記されている者で、一致しているのは6名のみ。色付きだけの者は本人ではなくともその親族が24将にカウントされている者たちである。この時代、手柄は個人というよりも家系に蓄積されていくものだったから、それらも含めれば19人中13人が一致した。

一方、国分宗重、桑折宗長、大内定綱、中島宗求、山岡重長、湯村親元は24将に含まれておらず、かわりに鬼庭左月斎、伊東重信、後藤信康、中村盛時、大町兼頼、斉藤永門、小梁川盛宗、黒木肥前、石田與純、小山田頼定、小田辺勝成、石川実光がカウントされている。

...どうやら、政宗が現役だった時代の価値観を反映した選抜基準ではなさそうだ。

■「伊達家臣二十四将図」が描かれた背景

この24将図は明治14年(1881年)11月21日に発行され、佐久間徳郎なる人の手によって描かれたものである。
※涌谷の史料館には作者についての記載はなかった。しかし、この記事を書く上で参考にした『仙台人名大辞書』にはこの「伊達二十四将図」の絵に酷似した肖像が載っており、「肖像は書人佐久間德郎の筆なり」とある。
当時はどうだったか知らないが、あくまで筆者の主観でものを言わせてもらうと、さほど知名度が高くない武将が含まれているように感じる。実際、中村盛時、斉藤永門、石川実光、富塚宗総の4名は今回はじめて見た名前だった。かわりに茂庭綱元、屋代景頼、あるいは一般的な知名度が高い支倉常長なんかが入っていても良い気がする。

結論をいうと、この24将は作者の独断と偏見で選んだ24名、と断定して間違いないだろう。おそらく有名な「武田二十四将」や「上杉二十五将」に触発されたのではないだろうか。念のため史料館の方に「あの24将図ってのは、明治時代の人が勝手に24人選んだものってことですよね?」と聞いてみたところ「そうでしょうね」という答えが返ってきた。

戦国時代、あるいは仙台藩創世期に「24将」なる呼ばれ方が使われたことはまずなかっただろうし、もし仮にあったとしても、そのメンツはおそらく違うものであったはずである。

とはいえ、これはこれで、明治時代にどんな武将が注目されていたのかを示す貴重な史料ということも言えるだろう。明治時代といえば、東洋ナンバーワンの軍事大国・大日本帝国の発展とともに過去の戦国武将たちの活躍が再注目され、講談、特に軍談が流行った時代だった。

中には小田辺勝成 & 石川実光コンビの様に「キャラ立ち」した武将もおり、そのあたりは平成の世である現代にも共通するものが感じられる。日本人は昔っから、戦国武将に憧れを抱いていたのだ。

2015年5月1日金曜日

『伊達政宗 Sendai, Miyagi in easy English Date Masamune』と「馬上少年過...」

本棚を整理していたらこんな本が出てきた。
表紙も金ピカのまさに「伊達」な一冊

タイトルは『伊達政宗 Sendai, Miyagi in easy English Date Masamune』という。本というよりは冊子、といった厚さなので、買ったことをすっかり忘れて他の本の間に埋もれていた。

どういった内容かというとコレ、伊達政宗について英語で紹介したおそらく日本で(あるいは世界でも)唯一の単品書籍であろうと思われる。

40ページくらいの冊子で、見開きの半分は写真や図説になっているので、実質的な長さとしてはセンター試験の長文問題くらいだろうか。タイトルにeasy English とあるとおり難易度もそれほど高くなく、関係詞に気を付けながらところどころ辞書をひけば高校1・2年生でも読めると思う。あるいは大学入試にむけた勉強中の学生なら、これくらいは読めないと焦ったほうがいいレベル(笑)である。

発行は仙台国際日本語学校で、もともとそちらの教材として使われているものらしい。奥付をみてみると、
Author(著者)  Kazuhiko, Endo
Translator(訳) Satomi, Sugai
となっている。おそらく学校の先生たちだろう。

この本を書店でみかけたのは今年(2015年)の2月、仙台駅前、アエルの丸善だった。洋書部門のランキングトップとして目立つ場所に置かれていたので、みかけた方も多いのではないだろうか。ISBNの発給されたれっきとした書籍だが、仙台国際日本語学校さんのブログによると、仙台丸善松島の伊達政宗歴史館でしか手に入らなさそうだ(残念ながらAmazonで検索してもでてこなかった)。

副題にSendai, Miyagi とあるように、どちらかといえば米沢時代の「武将」政宗よりも、仙台に移ってからの「統治者」政宗に焦点があてられており、仙台開府、北上川の改修、遣欧使節団の派遣など、政宗の生涯後半についての記述が多い。

奥州仙台おもてなし集団 伊達武将隊
仙台城で会える小十郎はサムライの格好だ!
伊達政宗に関する必要最低限なことについて簡単な英語でコンパクトにまとめられており、非常におもしろい。

英語話者の友達に仙台を案内するとき、ダースベイダーの外見のモデルについて外国人にうんちくをたれたいとき(そんな場面あるのか?)には必携の一冊であろう。

別に外国人の友達がいなくても、伊達政宗が好きだったり、英語を勉強中の方なら十分に楽しめる内容だ。しかも値段も500円とリ-ズナブル! 仙台に住んでいるならさっそく買いに行くべきだし、旅行で仙台に行くなら下手なガイド本を買うよりもこっちにしたほうがいい。

...と、非常にすばらしい本なのだが、このブログの性質上、あえて重箱の隅をつつくようなツッコミを入れさせていただくと(失敬!!)...

政宗の師である虎哉宗乙とともに片倉小十郎が"tutor" (家庭教師、指導教員)と紹介され、その後、共に戦ったような記述が見受けられないので、あくまでも政宗配下の武将であり側近であった彼の一面が欠け落ちているように思えた。

これを読んだ後に仙台城で伊達武将隊の姿を見たら、「先生」だと思っていた片倉小十郎がサムライの格好をしているのをみて違和感を覚えてしまうかもしれない。2人の"tutor"のうち虎哉和尚についてははっきりと"monk"(僧)と書いてあるのでなおさらである。

まぁ小姓やら近習やらといった概念の説明も大変で紙幅の関係もあるだろうし、"tutor"でもけっして誤りではないので、ホント揚げ足とりの様で申し訳ない...。

本の最後には、政宗の辞世の句である
曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く
が英訳されている。
I am moving forward in the changing era with a peaceful mind that shines like a clear moon
有名な政宗の肖像画。左上が例の漢詩。
...ってか「伊達政宗」で検索してこの画像
みつけるのにすごく苦労した。「政宗」で
てくるのって、一体どうなんだっ!?
なるほどねー。「浮世の闇」を"the changing era"と訳したか...。

おそらく詩なり句の翻訳って、そもそも解釈がわかれてくるのでまずは現代語にどう訳すか、それをさらにどう英訳するか、という2つのステップを踏まなくてはならず、一番難しい分野だと思う。だからこそ他の人の翻訳は勉強になるし、とてもおもしろい。

ただ、個人的には辞世の句よりも「酔余口号」と題する漢詩のほうが有名で、かつ面白いし政宗らしさをうまく表現していると思っているので、そちらを英訳してほしかった。「馬上少年過ぐ...」という例のアレである。

...と、文句をつけてばっかりなようで仙台国際日本語学校の方に悪い気がしてきたので、いっそのこと自分で英訳してみることにした。
馬上少年過 馬上少年過ぐ
世平白髪多 世は平らかにして白髪多し
残躯天所赦 残躯天の赦す所なれば
不楽是如何 楽しまずして是れ如何せん
The days I devoted all my time to fighting on the back of a horse was a long time ago
Now the world sets peaceful and my hairs went gray
Luckily or somehow I survived the age of lingering wars
God would permit me to spend my remaining life with a great joy
うーん、文法的にはあってるハズだが、どこまでニュアンスが通じているかは自信がない(笑)それにしても、これだけの内容をわずか5×4文字で表現できてしまう漢詩のすごさに改めて驚く。この英文の、漢詩に対する自分の解釈も含めた逆訳としては
馬上で戦にあけくれた日々は遠い昔となり
世は平和となって私は老い白髪が増えてしまった
幸運にも戦乱の世を生き延びることができたのだから
天も余生を楽しむことを許してくれることだろう
といったところ。

 一番の違和感は「天の赦す所」の「天」を"God"にしちゃってるところなんだが、"The God of the Sun" ってしちゃうのも説明的な気がするし、むしろ天照大御神をさしちゃう気もするし...。

仙台国際日本語学校さん、添削してくださいっ!!