2015年4月7日火曜日

粟野宗国 -仙台南方の戦国領主-

あわの むねくに
粟野 宗国 
別名
重国、大膳亮
生誕
不明 (早くても1550年代、遅くて1566年)
死没
1623年(元和9年)
死因
不明
君主
伊達輝宗 → 伊達政宗
仙台藩
家格
一族
所領
名取郡北部一帯 主城:北目城
(少なくとも1万石級の動員力)
→ 磐井郡 大原城 60貫文程度 1591-
→ 宮城郡 松森城
氏族
粟野氏
在位
1566年以降か
粟野長国
不明
兄弟
姉(堀江長門室)、宗国
妹(朴沢長門室)、国治
不明
養子:重清(亘理重宗の子)
子孫

先祖
粟野高国(祖父)、粟野国定(曽祖父)
墓所
宗禅寺(仙台市大念寺山東麓)
粟野重国とも。なかなかはっきりしたことがわからない武将なのだが、現在の仙台市南部を支配していた人物である。以下、彼についてわかっていることを記してみよう。

■ 粟野氏

戦国時代の仙台市南部、北目領と呼ばれる地域を支配していたのが、「名取郡北方三十三郷旗頭」と呼ばれた粟野氏である。

もともとは越前の一族だったのが、南北朝時代に名取郡に所領を得たという。当主・国定の代にあたる文明年間(1469 - 1487年)に伊達成宗と争い、敗れてその支配下に入ったとされ、その子・国高とさらにその次男・国勝は伊達稙宗に従って小手森合戦で戦死。

粟野氏の主城・北目城跡。
国道4号仙台バイパス鹿の又交差点付近
国高の長男で宗国の父親にあたる遠江守長国は天文の乱で稙宗党につき、晴宗党の留守景宗と対立したことがわかっている。

同時に天文年間(1532 - 1555年)の間に伊達の「大老臣」となったとされるが、これが稙宗の時代だったのか、天文の乱の後の晴宗当主時代だったのかは不明である。(系図は下にあります)

■ 伊達のテコ入れ

さて、本記事の主人公・宗国は実はいつ生まれたのかがはっきりしない。が、どういった世代の人間だったのかを探る手がかりならある。

それは宗国の父・長国の没年がわかっており、その直後に粟野氏が伊達氏からの「御仕置」をうけている、ということ。

長国の没年は1566年(弘治2年)で、伊達氏から「御仕置」をうけたのは永禄年間(1558-80年)である。

この「御仕置」が具体的にどういったものだったのかはわからないのだが、『仙台市史』では長国の跡をついだ宗国が幼少であったため、粟野氏への支配を拡大させようとした伊達氏の目論見があったとしている。

永禄年間(1558-80年)に幼少であったとするならば、早くて1550年代、遅くても父の没年である1566年の生まれになる。

同じ名取郡には粟野氏の「後見」となったという菅井氏の存在があり、また北目給衆とよばれる伊達氏が粟野氏につけた寄騎衆の存在も知られている。おそらくこの「御仕置」のあとに粟野氏の監視・支配と軍事力強化を目的に派遣された者たちであろう。

また、宗国の「宗」の字も伊達輝宗氏からの偏諱であると思われる。

こういった「伊達化」は同じく仙台周辺の周辺豪族である近隣の留守氏・国分氏・葛西氏・大崎氏などに共通してみられる現象である。

■伊達・相馬戦争における動員力

1576年(天正4年)に伊達輝宗が相馬氏にうばわれた領土の奪還を目指すべく出兵を行った。この年の対相馬戦はかなり大規模な動員をかけたもので、伊達方のどういった武将が参戦しているかがわかっているのだが、そのなかに「6番備 粟野重国(宗国)」の名がみえる。

全11の備(そなえ)で構成されたこの伊達軍のなかで、単独で「備」を構成しているのは1番備:亘理重宗、2番備:泉田景時、3番備:田手宗時、4番備:白石宗実と6番・粟野宗国のみである。「備」とは陣を構成するための単位で、ひとつの備は300-800名で構成され、これだけの兵を養うには1万石級の国力が必要である。

伊達のテコ入れもあったおかげか、それなりの戦力と、伊達家内部における地位を確立していたのだろう。

これだけの動員力の背景として、粟野氏は独自の家臣団(→粟野家臣団)を持っていたことも確実で、伊達の軍事的な統制下におかれた後も、独立領主として自分の領地への支配権は確保していたことは近隣の留守・国分・秋保一族と共通である。


■伊達領北方の動乱 -国分騒動-

宗国の居城である北目城の近辺があわただしくなってくるのは、伊達政宗の南奥州統一戦争が大詰めを迎えてくる1587年(天正15年)あたりからである。

まずこの年の春には、近隣の国分氏で内紛があった。伊達氏から養子に入って国分氏を継いだ国分重盛(政宗の叔父)と家臣団が対立。この国分重盛に反抗した家臣団の急先鋒が堀江長門という人物なのだが、じつはこの人物、宗国の縁者にあたる。宗国の姉が堀江長門に嫁いでおり、義兄にあたる人物なのだ。

宗国の姉妹はどちらも国分家臣に嫁いでいる。また、系図からは同じく伊達北方の
領主である亘理家(亘理)・泉田家(岩沼)がみな血縁関係にあったことがわかる。

堀江長門は家中の反盛重勢力をあつめ、盛重の居城を落城寸前まで追いこんだ。しかし、盛重の兄である留守政景(彼も政宗の叔父)の援軍によりもちこたえ、敗れた堀江は北目城へと逃げこみ、宗国はこれをかくまっている。

一度は収まりかけた騒動も10月ころになると再び盛重に不満をもつ家臣が堀江や宗国のもとに集まりだし、盛重を攻撃する事態にまで陥った。ここにいたってようやく政宗は盛重を米沢に帰還させ、反盛重家臣団をたてるかたちで騒動を収束させた。

この国分騒動があった1587年には、宗国居城・北目城にたびたび政宗の使者として伊藤重信が派遣されていることが確認できる。また、宗国の妹も同じく国分家臣の朴沢政時に嫁いでおり、おとなりさん大名として国分家とはそれなりのつながりがあったことがわかる。

■ 大崎合戦と仙道への出撃

翌1588年(天正16年)には北方で大崎合戦が勃発し、同時に政宗が侵攻をすすめる仙道地域(現・福島県中通り)でも郡山合戦がおこるなど、伊達領はまさに四面楚歌の状況におちいる。

そんな中で宗国のもとには伊藤重信や石母田景頼が派遣され、話し合いのうえで国分領の防衛にあたることを命じられている。このことからも、前年の国分騒動以来、宗国が国分領の経営にある程度関与していたことがうかがえよう。

松森城、小泉城の防衛は石母田景頼が担当することになったが、彼は5月に仙道方面への出撃を命じられたため、かわりに宗国とその弟・国治が松森城で「定番」として警備にあたることとなった。

その宗国も翌1589年(天正17年)6月には留守政景とともに仙道方面へ出撃を命じられ、政宗の軍事行動に参加することになった。蘆名・佐竹軍との決戦がせまっている時期であり、北方の大崎領とのゴタゴタも収まっている時期であることから、南方に戦力を集中させたかったのだろう。

1590年(天正18年)4月、岩城氏から攻撃を受けた田村領の救援を目的に出兵した政宗軍勢のなかにも、宗国の姿があった。

■ 弟・国治との争論

『荒町毘沙門堂縁起』の「沖館没落之次第」という部分には、次のような話がのっている。

粟野宗国が北目城に住む一方、弟の国治は広瀬川を挟んで沖野城に住んでいた。ある日、北目城のすぐそばまで川の浸食がすすんだため、宗国は「川除」(堤防のことか)を築いたところ、今度は川が国治の領地を侵食し、これが兄弟の争いに発展してしまった。

国治は伊達政宗に訴えでたが、政宗は宗国の主張もたずね、こちらを正しいとした。結果、弟の国治は逃亡を余儀なくされ、彼の所領は兄の宗国が得たという。

現在の仙台市周辺、中世の城館。黄色が粟野氏関連の城
水色は国分氏、きみどりは留守氏。より詳細な地図はこちらから。

どこまで本当のエピソードなのかはわからないのだが、本当だとすれば先述のとおり1588年の大崎合戦の際は兄弟ふたりで松森城防衛の任にあたっているため、この年から粟野氏の転封(1591年)までのいずれかに起きたはずである。

■ 大原への移封とその後

政宗が秀吉による奥州仕置(1590年)を受け、葛西・大崎一揆を鎮圧し、岩出山に転封(1591年)となると、その家臣団も再編を迫られることになる。

粟野宗国は磐井郡大原(岩手県、現・一関市、旧・大東町)へと所替えとなる。『藤原姓粟野家譜』には「天正一九年北目城没」とあり、これをうけてか宗国が1591年の政宗 岩出山転封の際に政宗に攻められ滅亡したという記述もネット上でみられるのだが、おそらくこの「北目城没」は北目城からの移動を誤って記録したものだと思われる。



大原への転封に際し、『仙台市史』では家禄を60貫文程度まで減らされたとしており、これが本当なら600石程度である。かつて万石級の動員力を誇った国力からすれば相当な収入減になる。

もっとも、この時期は政宗のブラック上司っぷりはおいといて他の家臣も一様に家禄を減らされているので、彼だけが割りをくっているわけではない。

その後、大崎合戦の際には防衛任務についた松森城に再度配置がえとなり、旧領の北目付近にもどってくることになるが、これが宗国の代であったかどうかはわからない。

粟野氏のその後は、宗国のあとを亘理氏から養子にはいった重清が継いだ。しかし重清は政宗の長男・忠宗について伊予宇和島藩へ行くことを命じられながらこれに従わなかったため、家禄没収の上に追放処分となってしまう。
松森城遠景。宗国は再び宮城郡へ帰ってきた。

粟野氏そのものはその後も血縁の者が下級家臣として仙台藩に仕えたが、かつての「名取郡北方旗頭」の面影はもはや残されてはいなかった。

■ 宗国の名について

「宗国」のほかに「重国」の名も見られるが同一人物であることは確実だ。

「宗国」は仙台市若林区荒町の毘沙門堂にあった鰐口(仏具の一種)の寄進者名に「大檀那藤原朝臣宗国」と記されている。これは天正9年(1581-82)の銘とともにあるので、そのころには宗国と名乗っていたことがわかる。

一方の「重国」は彼の菩提寺である宗禅寺(仙台市太白区根岸町)の墓碑銘に残っている。彼の没年は1623年(元和9年)。

おそらく「宗」の字を伊達輝宗からもらって「宗国」と名乗ったのだが、後に養子・重清の代に粟野家は追放処分になってしまうため、これを返上して「重国」と名乗ったのだろう。よって、伊達家の武将として現役だった時代には「宗国」の名を用いていただろうと判断し、本ブログではこちらを記事名とした。

■ 参考資料
  • 仙台市史編さん委員会 『仙台市史 通史編2 古代中世
  • 仙台市史編さん委員会 『仙台市史 特別編7 城館
  • 菅野正道「名取郡北目城主粟野氏の盛衰(上)(中)(下)」 仙台郷土研究会『仙台郷土研究』(各通巻255号、258号、259号所収)


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