2015年4月16日木曜日

松森城 -仙台の鶴ヶ城-

まつもりじょう
松森城
松森城遠景(南方面から)
別称
鶴ヶ城、鶴館、乙森城
城の格
本城(国分氏時代、諸説あり)
在所(仙台藩、江戸時代~)
城郭構造
平山城、または山城
天守構造
なし
比高
約50m (ふもとの標高:約20m、本丸約70m)
残存遺構
曲輪、土塁、堀切、空堀、虎口
指定
特になし
築城
築城年
不明
築城者
国分氏?
城主
国分氏
国分宗政、盛重(-1587年10月)
石母田氏
石母田景頼(在番衆、-1588年6月)
粟野氏
粟野宗国、国治(定番、1588年6月-1589年6月)
不明
奥州仕置~江戸時代初期の扱いは不明
粟野氏
粟野宗国、重清(-1614年前後)
矢野氏
矢野定芳、定孝、定明、定継(1729年12月-)
廃城
廃城年
不明(江戸時代は在所として存続)
理由
不明
位置
住所
宮城県仙台市泉区 松森内町
現状
鶴ヶ城公園、山林、鶴ヶ岡中学校
鶴ヶ城、ときけば普通は会津の鶴ヶ城を思い浮かべるであろう。だが、実は仙台にも鶴ヶ城なる城がある。中世に松森城と呼ばれたものがそれで、現在の仙台市街地がちょうど北にすりきれるあたりに位置している。

1.松森城の歴史 
1-1.国分氏時代
松森城をいつ、誰が、何のために建てたのかはっきりしたことはわかっていないが、おそらくこの一帯を支配した国分氏によるものだろう。

1506年(永正3年)5月には国分家中の有力親族である松森盛次が反乱を起こしており、国分胤実の討伐を受けている。同じ年の4月には国分氏のライバル・留守氏との間で小鶴沼合戦が起きて大敗したばかりであり、これとなんらかの連動があったと思われる。

また、『伊達正統世次考』の牧野安芸・石田山城宛て伊達稙宗書状(1537年(天文6年12月26日条))で、国分氏と留守景宗との戦について述べるながれで松森城の名が出てくる。

1542年(天文11年)に天文の乱が発生すると、同年11月に晴宗党の留守景宗が稙宗方の国分氏・松森城に攻め入っていった。当時の国分当主は国分宗政である。

1-2.国分騒動
その後、国分氏には伊達家から伊達晴宗の子・盛重が入嗣する(1577年(天正5年)12月)が、『仙台領古城書上』ではこの盛重が小泉城から松森城に移り住んだとしている。となれば、松森城は国分氏にとっての本城であったことになる。

なお二の丸については盛重の家来・高平大学が城主となり「乙森城」とも呼ばれた。別の城として扱われていたのかもしれない。

しかし、養子として国分家に入った盛重の統治はうまくいかなかった。!1587年(天正15年)には盛重に反対する家臣らとの間で内紛がおきた。この年の春には反盛重の代表格・堀江長門が盛重居城(松森城のことかどうかは不明)を滅亡寸前まで追い込んだが、盛重の兄であり、ご近所の大名でもある留守政景の援軍によりなんとか事なきを得る。

一度は収まった騒動も、10月ごろになると再び反盛重の動きがたかまり、業を煮やした伊達政宗は小山田頼定に軍勢を預け、武力で国分盛重を鎮定しようとした。

驚いた盛重は米沢に参上してワビをいれ、国分領は盛重の手から離れることで一件落着した。その後、松森城を含む国分領はどうやら政宗直轄領になったらしい。

1-3.対大崎後方基地へ
政宗が国分領を直轄領としたのには、事情がある。この国分騒動と並行して、伊達北方の大崎領がどうもキナ臭くなりだしたのだ。

国分氏の場合と同じく大崎家中の内紛なのだが、政宗はこれに乗じて大崎領をわが物にしようともくろんだ。松森城はちょうど大崎領侵攻のうえで後方基地の任を担える位置にあり、政宗による松森城の体制強化が行われる。

赤が大崎領。伊達の本拠地からは飛び地となる「松山」と記した緑色の
一帯あたりが対大崎最前線となるのだが、国分領はとなりの留守領と
並んでその後方基地となりえる地勢であったことがわかる。
1587年(天正15年)12月16日の伊達政宗書状からは、大崎家の内紛に際して伊達の軍勢が松森城に駐屯しており、翌年1月の大崎攻めの際も松森城からの援軍を発進させる考えがあったことがわかる。

人員も強化され、田副帯刀助が派遣され、「在番衆」として石母田景頼が松森に駐屯した。1588年5月には石母田景頼が仙道方面に出動したため、北目城主の粟野宗国・国治兄弟が「定番」として松森城に詰めている。おそらく、この1587~88年が松森城近辺が一番あわただしかった時期ではないだろうか。

1-4.松森城の合戦
一度は収まった国分騒動だが、今度はどういう事情かはわからないものの、最終的に政宗は国分盛重を討つことに決めた。文禄5年(1596年)3月(1599年説もあり)、政宗の軍勢は松森城を攻め、国分盛重は義兄でもある常陸の佐竹義重のもとへ逃げ延びた。

このエピソードは『奥羽永慶軍記』に収められているのだが、なんとも謎が多い。そもそも1587年の段階で国分盛重の手を離れた松森城に、なぜ盛重がいるのかがよくわからない。加えて、松森城の兵はことごとく「討死に」したとあるのだが、盛重の子である古内重広などは後に仙台藩の重臣となっている。

いずれにしてもこの時期に政宗が国分盛重を討ち、その戦場となったのが松森城であることは確かなようだ。

1-5.「在所」松森
その後の松森城に関して記すところは少ないが、葛西・大崎一揆がおこると、大崎合戦のころと同じく後方基地としての重要性がクローズアップされ、1590年(天正18年)11月14日には一揆の鎮圧に赴いた蒲生氏郷が松森城に着陣している。

江戸時代になると松森城は城として機能することはなくなったものの、仙台藩の「在所として統治の拠点であり続けた。

大崎合戦の時期に「定番」として松森城に詰めた粟野宗国の所領となっている。宗国は比較的近所の北目城主から、奥羽仕置のあとで大原城(岩手県一関市)へと移封になり、再度宮城郡へ戻ってきたかたちになる。

『野初絵図』 宮城県図書館所蔵
宗国の子・重清は政宗の長男・秀宗にしたがって宇和島に行くことを命じられたがこれを断って改易となった。いつから松森が粟野家の所領となっていたかはわからないが、重清の改易が1614年前後であることから、それよりも前であることは確かである。

1-6.矢野氏時代
ここからまたしばらく松森の状況がわからなくなるのだが、享保14年(1729年)12月には矢野定芳が600石とともに松森の在所を拝領しており、以後矢野氏の所領となる。

矢野氏時代の松森は、隣の岩切城付近とあわせて狩場として用いられることが多く、仙台城からも近場であることからたびたび藩主が訪れたらしい。やがてこれが定着し、軍事訓練でもあり、御遊びとしての狩りでもある「野初のはじめ」として正月の恒例行事となった。現在、松森城付近は住宅地となっているが、おだやかな丘が続く地帯であり、仙台城からも近いことを考えると確かに狩りをするには絶好の場所かもしれない。

2.松森城の構造
松森城の別名「鶴ヶ城」は鶴が翼を広げた鶴翼のかたちに似ていることからきている。


上の図はGoogle Mapの衛星写真に、へたくそなマウス操作で引いてみた城郭ラインだ。大きく、西部の曲輪群東部の曲輪群にわけられていることがわかる。現在、大手通(青のライン)であったと思われる道を上っていくことができるのは東部の曲輪群のみで、西部は山林に埋もれている(よって、この記事で述べるのは主に東曲輪群と薬師神社一帯についてとなる)。

また、訪れた限りでは薬師神社のあたりも独立した曲輪群のように見受けられたのだが、上述の『野初絵図』では東西の曲輪が城として認識されているのに対し、薬師神社の近辺は曲輪としては描かれていない。あるいは神聖な神社の一帯は狩場から外れたのかもしれず、これも城の一部とするのが自然だろう。

上記の「1-2.国分騒動」で触れた「二の丸には高平大学が住んで乙森城と呼ばれ云々...」の二の丸に相当するのは、おそらく西曲輪群のことだと思われる。

2-1.東曲輪群 登城口
登城口は途中で大きく曲がりくねっている。


登りきると、現在の駐車場になっている広場にいきつく。はじめ東曲輪群の三の丸に相当するものかと思ったのだが、写真左側が相当な急角度でえぐれているため、駐車場を設けるために整地したものだろう。

駐車場からは徒歩で移動。これもまた大きく曲がりくねっている。

おそらくここが大手門跡か。この先から二の丸と本丸に道が分かれる。本丸に向かう道はさらに曲がりくねり、虎口になっている。

2-2.東曲輪群 本丸
本丸の様子。かなり広い。お隣の鶴ヶ岡中学校のチャイムが響く。

本丸から仙台市街を一望(クリックで拡大)。画面中央奥の山並みが留守氏の岩切城。右手の煙突は松森のクリーンセンター。左の広場が本丸。右側で大きく突き出している広場が二の丸。

二の丸から見上げた本丸。上のパノラマ写真は、ちょうど画面中央の枯れ木のあたりから撮影。

2-3.東曲輪群 二の丸
本丸の南東部に大きく細長く突き出ているのが東曲輪群の二の丸である。

本丸から見下ろした二の丸。

向かいに見える山は、国分氏のライバル・留守氏の岩切城(高森城)。現在は二つの城の間は住宅地となっているが、当時、ふたつの城に挟まれた場所で平和に暮らせるわけがない。

特筆するべきはその距離の近さで、二つの城の距離はたったの1500メートル程しかないのだ。しかも、松森城、岩切城ともにそれぞれ国分・留守の本城であった可能性があり、そうなれば一触即発。記録に残っている戦い以外にも、小競り合いが頻発していたのではないかと思われる。いよいよもって、これらの城の間に住むのは危険極まりない。

二の丸の南側は大きく落ち込んだ沢になっている。

2-4.薬師神社一帯
この一帯が松森城の一部であったかどうかは定かではないが、本記事ではそうであったと仮定したうえで話を進める。ただし、東曲輪群と薬師神社一帯の間には大きく落ち込んだ堀切があり、薬師神社へも一度山を下りたうえで長い階段を上っていくことになる。

神社の奥に続く道をゆくと...

大きく落ち込んだ堀切がある。写真の左手が東曲輪群、右手が薬師神社一帯。

2-5.松森城周辺
松森城の裏側(北川)にあたる鶴ヶ岡中学校。住宅地化が進んでおり、だいぶ整地された後だと思われるが、このあたりも城の一部だったのではないか。


松森城の南側から。仙台では貴重な田園地帯となっている。ふもとの住宅地付近には城下町とまではいかないまでも、集落があったことが中世の絵図からわかる。また、水堀も存在した(上記『野初絵図』参照のこと)。写真の左側が東曲輪群、右側が薬師神社一帯。間の木が生えていないあたりが、上記写真の堀切である。

松森城の北側。今回の訪問では入ることのできなかった西曲輪群の裏側あたりにあたる。急な崖がそびえたつ。
最後に、松森城の遠景。南側から撮影したもの。いやー、天気のいい日でよござんした。

■参考文献
・仙台市史編さん委員会 『仙台市史 特別編7 城館
・古内泰生『政宗が殺せなかった男 秋田の伊達さん』(現代書館、2014年)
・紫桃正隆『みやぎの戦国時代 合戦と英雄』(宝文堂、1993年)
・現地案内板

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