2015年4月29日水曜日

中羽前/北羽前街道の旅 [後編]

【承前】中羽前/北羽前街道の旅 [前編]
2日目はチェックアウトの時間近くまでゆっくーり休んでからゆっくーり出発。

■ 鮭延城/真室城跡

ひとつめの目的地は、宿泊した新庄と同じ最上地方の真室川。新庄から県道308号を北西に進む。この地域は戦国時代にまさに激戦地となったところで、庄内地方の大宝寺氏、秋田南部の小野寺氏、山形の最上氏、三者の争奪のマトとなった。

はじめ、この地を支配する鮭延氏は小野寺傘下だったのが、1581年に最上義光に攻められて降伏。以後、鮭延貞綱は最上義光に仕え、重臣のひとりとなった。その拠点となったのが、今からいく鮭延城で、真室城とも。

そこそこ険しい道を上っていくと...


かなり広い空間が。野球場が2つは入りそうな広大なスペース。どうやら上ってきた道は搦手で、大手門は逆の方向らしい。


本丸からみた景色。目の前を鮭川が流れる。右手奥の街並みは真室川町。案内板によると、この本丸広場から川辺の地下船蔵まで地下道が通じていたように描写されている。なんとも男心をくすぐる施設ではないか。


鮭川を渡った地点からながめた鮭延城全景。なかなかの城跡である。この要害っぷりは、平穏な江戸時代には逆にアダとなり、後にこの地に入封した戸沢氏は一度はこの鮭延城に入ったものの、平地に新庄城を築いて移動したのは以前の記事で触れたとおり。城は廃城となり、放置された。

■ 清水城跡

次の目的地も最上郡の拠点となった城跡のひとつ、清水城。ほぼ鮭川に沿うかたちで、県道35号 → 国道458号を大蔵村まで南下。


清水城は最上の一族、清水氏が統治していたが、6代清水義氏には子がなく、最上義光の3男・義親を養子に迎えた。彼は養子として清水家に入る前、豊臣への人質として大阪に預けられていたために、豊臣秀頼と近しい仲だった。

1614年、大坂の陣の直前にこれが問題となってしまう。清水義親は実の兄である最上家親から豊臣に通じている疑いをかけられ、清水城は攻撃され切腹させられることになってしまった。


城の入口を登っていくと、二の丸と本丸の間の空堀にいきつく。空堀は相当深く、3メートル近くはあった。現在はこれをV字型の坂道で昇り降りするが、当時は橋がかかっていたのではないか。


二の丸は田んぼになっていたが、本丸は広場として整備されている。こちらも鮭延城並みに広い敷地で、当時はいろいろな屋敷や櫓が建っていたであろうことが想像される。


本丸から見下ろす城下。最上川の水運を利用できる絶好の位置にあることがわかる。まだ「五月雨を あつめてはやし」という時期ではないものの、その流れは十分に速い。

■ めざせ鳴子峡

さて、ここから旅の復路となる。今回は往路で通った鍋越峠、中羽前街道のひとつ北、北羽前街道を通る。こちらは松尾芭蕉が有名な『奥の細道』で通った道で、奥州から羽州に入った芭蕉のルートを逆走するかたちになる。

清水からはまっすぐ東に進んで国道47号(北羽前街道)に入る。途中、最上町のコンビニで小休止。このあたりも、戦国時代には小国城があった場所で、ちょうど写真奥の山がそれだと思われる。

とりあえず県境をこえてから、景勝地として有名な鳴子峡と、芭蕉ファンの間では有名な旧仙台藩の尿前の関を目指していたのだが、休憩中にググっていたら、街道沿いに山形藩側の関所である笹森番所跡なるものもあることを発見し、そちらも目指すことに。

ただ、最上町笹森のあたりにあることはわかったのだけど、肝心の跡地は見つからなかった。この北羽前街道はこのあと何度もとおることになると思うので、またの機会に後回し。

北羽前街道は、狭い道が続いた鍋越峠と比べると、ゆるやかで道幅も十分なふつうの国道である。ただ、その分トラックややたらとスピードを出す車も多く、原チャリ族にとってはむしろ走りにくい。

県境の中山峠をこえてしばらく進むと、目的地の鳴子峡。


橋の前にドライブインがあり、そこからの眺めが最高だ。本来、鳴子峡は秋の紅葉で有名な場所であるので、葉っぱが色づいてきたらもう一度来ようと思う。

鳴子峡の橋を渡ってちょこっと進むと、尿前の関跡がある。自分にとっては旧仙台藩の旧跡として興味がある場所なのだが、芭蕉ファン、および俳諧ファンにとっては「聖地」であり、一度は来なければならない場所らしい。


関所跡も復元され、周囲には芭蕉の句碑が建つなど、だいぶ整備されている。

■ 一大イベント

さて、景色のいいドライブを十分に満喫したところで、あとは岩出山経由で帰るだけなのだけど、今日は自分にとっての一大イベントを控えており、朝からそればっかりが気になっていた。朝、出発の段階でスクーターの走行距離が7700キロを超えており、このままいけば今日中に走行7777.7キロの7ゾロ目を迎えられそうだったのだ。

清水城を出たあたりで、おそらく鳴子のあたりで数字がそろいそうだなー、と思っていたところ、尿前の関で止まった時点で残り15キロくらいだった。

幸い、ここからは1.8車線くらいの本線脇に十分な幅がある道が続いていたので、メーターとにらめっこしながら自分の中でカウントダウンをしつつ、その時がくるのを待ちながら走る。そして...


祝! 7777.7㎞走破!!

さて、次にメーターがそろうのはあと7万キロ走った後か。原チャリで77777.7の数字を見た人っているんだろうか...笑

■ 岩出山とその周辺

これでメーターに気を取られることがなくなったので、あとはぶっとばして仙台まで帰るだけ。途中、道の駅岩出山(「あ・ら・伊達な道の駅」というナゾの名前なのだが)で遅めの昼食をとったあと、ちょっと寄り道して一栗城を目指す。


ここは大崎家の家臣、一栗氏の居城で、大崎家の執事でありながらたびたび本家に反抗した岩出山の氏家党の一派である。

その氏家党の本拠地・岩出山城はのちに伊達政宗の居城となるも、すぐに仙台に本拠地を移したため、事実上の拠点となったのは10年間程度だった。ただし、岩出山は仙台藩の要害として統治の拠点ではあり続けた。


今回はブログに使う全景写真をとりたかっただけなので、さらっと見学しておしまい。岩出山周辺には、有備館や伊達家の霊廟など見るべきところがいろいろあり、とても半日では収まらないのでこれもまたの機会に。

そのまま南下して、往路で通った中新田へ。そこからは同じルートをたどって帰宅。それにしても2日目は前日のようなトラブルもなく、走行距離も縁起のいい数字が並び、快適な一日だった。2日間を通して、天気のいいドライブ日和な日だったのも幸い。2週間前のお花見ツアーでも、これくらいいい天気が続けばよかったんだけどなぁ...。

■ 旅のルート・立ち寄りスポット


2015年4月28日火曜日

中羽前/北羽前街道の旅 [前編]

みちのく「トリッパー」を名乗っておきながら、全然旅のにおいがしない記事ばっかりのブログなので、ちゃんと旅の記事も書いてみることにした。いや、それなりに本人は旅を楽しんでいるんですが、記事にしてないだけで...。

以前の旅もルートは記録してあるので、そのうちさかのぼって記事にするかも。

■ とりあえず新庄、余裕があれば横手まで

月・火と連休になっていることに気づく。加えて、今週は2週間前の花見ツアーの時と違ってずっと天気がよさそうなので、どっかにいくことにした(どっかって...)。

週末に仕事で通った関山峠の雪もかなり溶けてきたことだし、春を感じながら峠越えルートを攻めたいな、ということで目的地に選んだのが仙台発からの山形県・新庄。

ブログ主の峠好きは、以前にも書いたとおり。ここを目的地にすれば、行きと帰りで、二つの峠をこえられるのだ。鍋越峠と、鳴子峡(正確には中山峠)である。時間に余裕があれば、もっと足を延ばして秋田南部、横手あたりまでいけるかもしれない...!!

■ 越えるぜ中羽前街道

仙台から北上して、加美町から西に折れて、そのまま中羽前街道(国道347号)で鍋越峠を通って山形県入りするルートを選ぶ。ただ、加美町までどうやって行くかが問題。というのも、簡単に考えるなら奥州街道(国道4号)を北上していけばいいのだけれど、4号は何度もとおっているので、さすがに飽きてきた。

ちょうど宮城県図書館で借りた本を返さなくてはいけないタイミングだったので、それを考えると図書館によったうえで4号とほぼ並行して走る国道457号で北上していけばいいことに気づく。となれば、その線上にある史跡を自作マップからいくつかピックアップして、吉岡と中新田によって、中羽前街道に入ることに決定。

結果、こんな感じになった今回の旅。詳しくは以下、本文

■ 城下町&宿場町 吉岡

ふだんは4号沿いに素通りしている場所なのだけど、ちょっと西に入るとそれなりの街になっている。江戸時代はここに伊達政宗の3男・宗清の領地となり、吉岡城を築城した。より正確には仙台藩の城郭ランクでいう吉岡「所」である。

櫓がナイス。現在の入口脇には実際に隅櫓があったらしい。
右側の林が、城の跡地になる。
跡地はなかなかおしゃれな公園になっている。厳密にはこの公園の東側が跡地だそうで、現在の公園の中心にある池は当時から湿地帯だったそうだ。宗清公はここで舟遊びをするのが好きだったという、なんとも粋な殿様である。さすが政宗の息子。


吉岡は、後に幕末の仙台藩を奉行として主導する但木土佐で有名な但木家の所領となる。奥州街道沿いの宿場町としても栄えた町である。

■ 大崎家の拠点・中新田

吉岡から北上して中新田。こちらは「なかにいだ」と読む。戦国時代には大崎家の領土。伊達政宗が大崎領に侵攻した大崎合戦の際は、大崎家の最終拠点として機能した。この中新田城を守った南条隆継のたくみな采配と、おりからの大雪に足をとられた伊達軍はボコボコにやられ、政宗の戦のなかでも珍しい負け戦となった(もっとも、本人は出陣しておらず、大将の留守政景泉田重光の仲が険悪だったりと、条件はそれなりに悪かった)。

現在は当時を偲ばせるものはほとんど残っておらず、長興寺、瑞雲寺の境内になっている。周囲を歩いてみると、水路があったり道が不自然に曲がっていたりと、街に埋もれた城跡独特のなごりが見当たらないこともない。

わかりやすいのは境内の一角? に大崎氏の祖である斯波家兼の銅像が立っていること。なかなか立派である。この人は室町幕府を開いた足利家の一族で、のちにその斯波氏の分家が大崎家、山形の最上家へとわかれ、それぞれ奥州探題、羽州探題を名乗った。奥州随一の実力者である。

戦国時代、伊達氏の下風に立たされることになった大崎家の銅像ではなく、室町初期の実力者であった斯波家兼の銅像をたてるあたり、あのころは良かった感がにじみ出ているように感じてしまうのはひねくれた見方だろうか。

■ 葛西・大崎一揆の激戦地・宮崎城

さて、中新田から西にルートを大きく曲げて中羽前街道 → 鍋越峠、の前に一か所寄り道。方向は同じなのだが、加美郡の宮崎(旧・宮崎町)という集落。ここも戦国時代の大崎領の一部で、笠原一族の治める土地だった。

その中心地、宮崎城では大崎家が奥州仕置で滅亡して以後、大崎家再興をめざす家臣たちが葛西・大崎一揆に乗じて立てこもり、撫で斬りが行われたことで有名な佐沼城に並ぶ激戦地となった。

現在の熊野神社の東部がその城跡なのだが、完全に山林に覆われててまともな準備なくしては入れない様子。仕方がないので周囲をぐるっと一周。


シャープな崖と、田川に囲まれた激戦も納得の天険っぷりである。この宮崎城の戦いでは伊達家の智将・浜田景隆も討ち死にするほどの激戦となり...ってあ! そういえば浜田景隆の墓がこの近くにあったはず! と思い出すと都合よく役所前の案内板に墓の位置を記した地図があったのでそこにも立ち寄る。


場所は、現在の宮崎中学校の横。浜田伊豆守景隆を打ち取ったのは、宮崎にこもる笠原家の家老・今野与惣座衛門。大崎領内屈指の鉄砲名人で、「一発与惣座衛門」の異名をとった。墓は江戸時代に浜田の子孫が再建したもの。

■ いざ、鍋越峠

これで宮城県内のよりみちは終了。あとは中羽前街道を直進して、鍋越峠越えで山形へ。


峠越えルートは、鳴瀬川にそった崖にせり出した細い道が続く。ところどころ1.5車線やら相互片側通行の場所もあり、なかなかの難所続き。工事車両も多く、小回りのきく原付のほうがむしろ走りやすい。

この日は気温が25度近くまであがったかなりあったかい、というかもはや暑い日だったのだけど、高度があがってくるとさすがに空気も冷えて雪も残っている。

この鍋越峠、冬季は閉鎖されるのだが来年(2016年)からは通年通行可になるらしい。ところどころで道路の拡幅工事をしていたのはおそらくそのせいか。

■ 続く災難

肝心の鍋越峠はまだ路上に雪が残っていた上にかなり細い道だったので、危険と判断してトンネルを利用。無事に山形県に突入。この時点でまだ午前11時。これは、新庄なんかかるく通過して秋田まで余裕でいけるじゃないか...と思った瞬間、異変に気付く。

肩が...軽い?


この日は実は、小さなバックパックを背負っていたのだ。中にはパソコンやら本やら、一泊分の荷物が入っている。

それが、バックパックが、ない!!


ええぇーーーーー!!



どこかにおいてきたに違いない。いや、どうりでやけに肩がかるいわけだ。パソコンも入っていたのでそれなりの重量がある。それがないことに気づかず、気分よく峠越えをしていたとは...。

それにしてもどこにおいてきたのか見当がつかない。写真を撮るために留まった場所か? タバコ&水分補給でとまったときか? そもそも見つかるのか? 不安を抱えたまま、とりあえず宮崎城まで戻ることに。

まさか走っている途中にリュックを落してそれに気付かないなんてことはさすがにないだろうと思いつつも、念のために道路脇に目をこらしながら、どこに立ち寄ったかを思い出しながらひたすら道を戻る。

城跡でも見つからず、とりあえず加美町の交番にいってみたところ...あった!!

というか浜田景隆の墓の隣の中学校で、生徒さんが拾ってくれたそうで、そのまま中学校が預かっているとの連絡があったとのこと。そういえばあの時点で気温が上がってきたので、中のセーターを脱いだ時にリュックおろしたな...。

というわけで中学校にとりにいって旅を再開。それにしてもバックパックを落とすなんて、そうそうあることじゃないよなぁ。昼休み中にお邪魔した中学校の先生、その節はお忙しい中ありがとうございました。

気を取り直して再び鍋越峠へ、と思ったのだが、同じ道をまた行くのもなんだかアレである。

鍋越峠のちょっと北には県道262号が走り、そこには旧仙台藩の軽井沢番所跡もあるので、そっちを行くことにした。いちおう、さっき鍋越峠は越えて山形に入ったしね。

というわけで県道262号を進んでいくと...


まさかの通行止め!!

整備されたアスファルト道がいきなり砂利道になったと思いきやの通行止めである。わきに「冬季通行止め」と書いてあるけど、もう4月ですよ!? もう桜散り始めてますよ!?

どちらにせよ、これだけの砂利道なのでオフロードバイクか登山の準備がないときつい。というかこれで県道なの? 同じ道を引き返すのも2度目になるが、もう一度鍋越峠をめざすことに。まぁ、景色よかったし、いっか。

ちなみにこの宮城・山形県道262号(旧名・軽井沢越え、現・最上小野田線)は、調べてみたところ6月3日まで冬季通行止めだそうだ。ただし、山形県側の情報しか見つからなかったので写真の先、宮城県側はいつになったら開通するのか、そもそも開通の予定はあるのかどうかわからない。

■ ようやく新庄へ

道の駅 尾花沢
山形に入ってからは、ほとんど寄り道をせずにひたすら目的地の新庄へ。途中、一件だけ道の駅・尾花沢で遅めの昼食。

新庄についた時点で、予約していた宿にはチェックインできる時間になっていたので、荷物を預ける意味でも入ってしまうことにした。この時点で15時半くらいだったので、途中のゴタゴタで2時間近くロスしたとはいえ、がんばれば秋田まで行けなかったこともない。

ただ、体力うんぬんよりも精神的に疲れてしまったので、ちょっと部屋で休みつつ、情報収集をすることにした。今回の旅はあまり計画を練ったものではなく、前日にいきなり「どっかいこう」と思いついたものだったので、旅先の予習を全くと言っていいほどしていなかった。だから通行止めとかで困るんだよなぁ...。

一息ついて、まだ明るかったのでとりあえずは新庄城址(現・最上公園)まで向かうことにした。


なにやら、お祭りの最中である。公園内は出店や、課外学習中? の中学生、高校生、遅めの花見客でだいぶにぎわっている。

お城としての新庄城は1625年の築城。もともとは秋田の角館が本拠地だった戸沢氏が常陸の松岡をへてから新庄藩として入封。もともとは鮭延城(明日来訪予定)に入城したのだが、山城であることから不便であるために、この地に新しく城を築いた。

江戸時代の築城とあって、軍事的な要害さよりも、政治の中心となるべく建てられた、水堀をかまえた平城である。東北は山城ばっかりなので、こういった水堀をともなった平城(一般的な城址公園のイメージ)はかなり珍しい。山城だと城めぐりをしていて人に会うことはほとんどないのだが、大勢の人でにぎわう城跡、というのもかなり久しぶりな気がする。


この戸沢氏もそうなのだけど、東北の大名は江戸時代に移封となっても、それが東北内で完結することが多く、東北をテーマに旅とブログ執筆をしている自分にとってはうれしい限りである。

新庄藩は幕末の戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の一員でありながら、佐竹秋田藩とともに途中でこれを離脱。これに激怒した庄内藩によって攻め込まれ、この新庄城も城下町ともども焼け落ちてしまった。

新庄城見学と、お祭りのふんいきを楽しんだところで空が暗くなってきたので、本日の旅はこれにて終了。翌日は新庄周辺をもう少しまわって、鳴子峡へ。

後編に続く

2015年4月21日火曜日

戦国時代 秋保一族

秋保あきう

秋保(あきう)の郷。仙台近郊の温泉地として有名。
戦国時代は伊達・最上間の街道として重要だった。
湯元・長袋・境野・馬場・新川秋保五ヶ村からなる。
秋保 盛房(讃岐守、~1551年(天文20年))
秋保義光の嫡男。伝承によれば、明応9年(1500年)に名取郡大曲の領主・長井晴信から攻められ、出羽の最上義守のもとへ12年間身を預けることになった。しかし秋保の百姓が決起して盛房を帰還させ、長井晴信が拠点とした楯山城を攻め落としたという。
もっとも、最上義守は1521年の生まれであり、長井晴信なる人物の実在性も疑わしいが、秋保と最上氏のつながりを示す伝承ではある。

秋保 盛義
→ 義光の子。馬場盛義。

秋保 則盛(伊勢守)
盛房の嫡男。最上義守の娘を妻としており、上記の伝承となんらかの関わりがあるものと思われる。一方で、現在の宮城県南部に勢力を伸ばしてきた伊達稙宗に臣従することになった。1543年(天文12年)7月12日、伊達稙宗から大崎義宜の指揮下に入って活動するよう命じられており、天文の乱の際は稙宗党であった可能性が高い。

秋保 勝盛(大膳亮、美作守)
則盛の嫡男。母は最上義守の娘であり、同じく義守の娘・義姫を母とする伊達政宗とは従兄弟の関係にあたる。国分盛氏の娘を妻とした。天正4年(1576年)の伊達輝宗による対相馬出兵の際は10番備にその名がみえる。


秋保 盛久
→ 則盛の次男。境野盛久。

秋保 盛頼
→ 則盛の三男。竹内盛頼。

秋保 資盛
勝盛の嫡男。おそらく早世したものと思われ、跡を弟の直盛が継いだ。

秋保 直盛(平五郎、弾正忠)
勝盛の3男。当初、祖母の実家である最上氏を頼り、天童氏の婿となる。しかし、兄である資盛の死去により秋保家へ戻り家督を継承した。1587年(天正15年)の『伊達天正日記』では米沢に出仕しており、鮭を献上するなど伊達家の一員であったことがわかる。1591年(天正19年)には政宗の指示で葛西・大崎一揆の鎮圧に出動。また同じ年、秋保氏は正式に伊達家御一家に格付けされる。朝鮮出兵の際は肥前名護屋の政宗からその様子を知らされている。
直盛へあてた留守政景書状によれば秋保氏と馬場氏の間に何らかの対立が生じ、これが解決にいたった旨が記されている。また、1587年の国分騒動の際は境野玄蕃の粗略を非難した政宗から境野氏を差配するように言われ、代わりに国分から最上領へ移動するものたちの荷物を改めるように命じられている。

秋保 定盛(播磨・雅楽) 
直盛の子。この代に領地替えがあり、慶長8年(1603年)、秋保宗家は刈田郡 小村崎村(現・宮城県蔵王町)に移封となった。寛永元年(1624年)、長袋・湯元・境野・馬場の各村に野谷地25町を与えられる。この開発をもとに承応元年(1652年)、伊達忠宗から楯山原の在郷屋敷を賜り、小村崎村から9軒の家中を率いて秋保へ帰郷した。

秋保氏系図


馬場氏

馬場 盛義(助太郎、賀沢左衛門)
義光の子で盛房の弟。馬場に居住し上館城を築き、馬場氏を称した。

馬場 直重
盛義の子。

秋保 定重(摂津守)
直重の子。天正17年(1589年)の正月には伊達政宗に年賀の進物をしていることから、秋保一族であると同時に政宗の直臣であったことがわかる。大崎合戦後に政宗を裏切った長江月鑑斎を預かり、後にこれを政宗の命により殺害した。1599年(慶長4年)8月19日付の政宗書状には秋保に知行地を与えられている衆は定重の命に従うようにとあり、おそらく秀吉没後の政情不安定な時期に対最上防衛を整える措置だったと思われる。秋保宗家の直盛と並んで、あるいはそれ以上に政宗から重用されている様子がうかがえる。
領内では上館から移って豊後館を築いた。また、湯本小屋館を築城したとも伝えられ、秋保地域の東西を抑える役目を担っていた。祖父・盛義の代から馬場氏を名乗っているはずだが、なぜか「秋保」の姓で登場する。

秋保 頼重(刑部)
定重の子。慶長8年(1603年)に刈田郡 円田村(現・宮城県蔵王町)に移封となる。慶長遣欧使節団を乗せた船・サン・ファン・バウティスタ号建設の際の船奉行として、その造船に関わった。


境野氏

境野 盛久(信濃)
秋保則盛の次男で勝盛の弟。境野・新川地区を領有し、境野氏を称した。『伊達天正日記』によれば、境野氏は秋保本家からは独自に政宗のもとに出仕していたことがわかる。

境野 盛元
盛久の子。

境野 玄蕃
天正15年(1587年)7月の秋保直盛宛て政宗書状によれば、同年の国分騒動の際、国分領を離れ最上領へ移動しようとした者の荷物が境野玄蕃によって留められたが、政宗は玄蕃の粗略を非難して直盛が境野氏を差配するように命じている。この玄蕃が上記の盛久、もしくは盛元のどちらかなのか、あるいは別の人物なのかは不明。

境野 盛忠
おそらく盛元の子だと思われるが詳細は不明。この代に境野氏は加美郡大村(現・宮城県色麻町)へ移封となった。


竹内氏

竹内 盛頼
秋保則盛の3男で勝盛の弟。長袋地区の竹内を領有し、竹内氏を称した。

その他

秋保若狭、秋保惣右衛門、秋保外記、秋保出雲、秋保五郎右衛門
『最上義光分限帳』に名前が見える。それぞれ詳細は不明だが、最上氏に仕えていた秋保一族もいたようである。

秋保氏関連の城館
仙台・山形間最短の山越え街道である二口街道(県道62号)に城館が点在しているのがわかる。
水色はおとなり・国分氏の城館。より詳細な地図はこちらから。
■ 参考文献
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 通史編2 古代中世』(仙台市、2000年)
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 通史編3 近世Ⅰ』(仙台市、2001年)
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 特別篇7 城館』(仙台市、2006年)
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 特別篇9 地域誌』(仙台市、2014年)
・秋保・里センター 「秋保の歴史

2015年4月18日土曜日

伊達家・仙台藩に関する史料一覧

伊達家や仙台藩の歴史について研究するうえでよく登場する史料/資料について解説する。基本的には伊達家の記録だが、家臣や一門の領内について参考になる史料についても併せて記入した。

あ行

『会津四家合考』
(あいづしけ ごうこう)
寛文2年(1662)、会津藩士・向井新兵衛吉重が著す。会津を領有した蘆名・伊達・蒲生・上杉4家の歴史を記述したもの。
天正8年(1580)の蘆名盛氏の死去から、慶長6年(1601)に上杉景勝が会津から去り、蒲生秀行が会津城主となって入封するまでを扱っている。全12巻で、巻9~12は附録。

『飯坂盛衰記』(いいざか せいすいき)
伊達家の分流である飯坂氏についての記録。上下巻。記述は、政宗時代の飯坂家当主・飯坂宗康、その娘で政宗の側室となった飯坂の局、彼女の養子になった飯坂宗清について集中しており、飯坂家が断絶するまでを描いている。
いつ、誰が書いたのかは明確ではないが、その筆法から飯坂家の遺臣によるものではないかと推測される。

『石川氏一千年史』(いしかわし いっせんねんし)
陸奥国の独立領主でもあり、戦国時代末期には伊達家臣となった石川氏についての記録。石川家あるいは石川家ゆかりの旧家に残されていた史料がまだ散逸していなかった大正7年(1918)に編纂された。上下巻と続編からなり、上巻では石川晴光までの時代を、下巻では角田に移って以降の昭光~邦光までの時代について書かれている。『角田市史』の別巻①として1985年に復刊。

『遠藤山城文書』(えんどう やましろ もんじょ)
遠藤山城とは伊達輝宗の側近・遠藤基信のこと。31通の書状が所蔵されており、そのうちのほとんどが遠藤基信宛のもの。早いうちから室町幕府に見切りをつけ、信長とも連絡をもった輝宗外交について解き明かすうえで大切な史料。

『奥羽永慶軍記』(おうう えいけい ぐんき)
伊達家というよりも奥羽の戦国時代全般にわたる軍記物語。著者は出羽の国 雄勝郡 横堀生まれの戸部正直(一憨斎、一閑斎とも)。15歳のころから諸国を旅して歩き、旧記を求め、史跡を訪ねて古老の話を聞き、ついに元禄11年(1696年)それらの成果をまとめた『奥羽永慶軍記』40巻をまとめあげた。一閑斎54歳のころであるから、実に40年ちかくかけた大作である。
同時代の人物による著作ではなく、軍記物語として「文学」に分類されることも多いので基本的には一次史料として扱うことはできないうえ、明らかな史実上の誤りや」混同も散見される。しかし、奥州の戦国時代に関する記録自体が少ないため、どうしても参考にしなければならない部分も多く、引用する歴史家も多い。その内容、ボリューム共に軍記ものの傑作であるとされている。伊達家に関する部分も多い。

『奥州余目記録』(おうしゅう あまるめ きろく、『余目氏旧記』『留守氏旧記』とも)
宮城郡の記録と、その中心・留守氏の歴史。永正11年(1514)成立。
著者は留守氏の執事で、塩釜津の領主・佐藤氏と言われる。大崎氏の奥州支配の正当性を強調していることから、留守氏内の伊達派に対する大崎派に属する人物だと思われる。

か行
『片倉代々記』(かたくら だいだいき)
伊達家家臣・片倉家の正式記録。著者および編集の年代は代をおっているので数次にわたっている。初代・景綱~3代・景長までの部分は、貞享2年、片倉家第4代当主・村長が家臣・本沢直方に命じて書記させたものをベースに、水野与茂九郎、上野十治郎、佐藤権右衛門、渋谷左衛門らが編集し、最後に片倉村長自身が細詳を加えて貞享3年(1688)11月5日に完成したもの。本沢直方は、『伊達治家記録』編纂事業に史料を提供したこともある人物である。
現在は『白石市史4 史料篇(上)』に収録されている。

『木村宇右衛門覚書』(きむらうえもん おぼえがき)
9歳のころから伊達政宗の小姓を務めた木村宇右衛門可親(よしちか)が書き留めた政宗の言行録。『覚書』の記録は政宗の没年である1636年までにとどまらず、慶安5年(1652)の17回忌の記事までを収録しており、同じ年に木村宇右衛門に対し知行があてがわれている。これらから考えると、政宗の17回忌である1652年に間もない時期に成立したと考えるのが妥当であろう。
のちに『伊達治家記録』を編集する田辺希賢、遊佐木斎らは、その過程で『木村宇右衛門覚書』も参考にしている。彼らの『覚書』に対する評価は「大形者相違多キ者ニ相見ヘ」た様だが、それでも『覚書』から多くを引用しており、やはり政宗の言行を直接目撃した小姓の証言録として当時から貴重であったことがうかがわれる。『伊達政宗言行録』として1997年に復刊。

『御知行被下置御帳』(ごちぎょう くだされおき おんちょう)
延宝4(1676)年の末から3年4ヶ月かけて、仙台藩が十石以上の武士達に、知行する土地の「先祖以来の拝領の由緒」を書き出させ、それをまとめたもの。『仙台藩家臣録』として出版されている。

さ行

『成実記』(しげざねき)
伊達成実が晩年の寛永年間(1624~1644)に記したとされる、政宗と自身の軍記もの。自身が従軍した仙道方面の戦について特に詳しく、また出奔したとされる時期については記述がない。題名の異なる多くの異本が残されているが(『政宗記』『伊達日記』『伊達成実日記』など)、『成実記』を元に編集、脚色を加えたものだと考えられている。

『塵芥集』(じんかいしゅう)
伊達稙宗が定めた分国法。前文、本文171ヶ条、稙宗の署名と花押のあとに添えられた12名の家臣の起請文から成っている。一般的に、この起請文の日付である天文5年(1536)4月14日が制定年月日とされている。当時なにを規制しなければならなかったのかを示す史料であるため、当時の社会の様子がみてとれる。

『仙台領古城書上』(せんだいりょう こじょうかきあげ)
仙台藩内にかつて存在した中世の城館536城について作成された記録。江戸幕府に提出され、その時期は延宝年間(1673~1681年)のことと言われている。
城館について郡村ごとに平城/山城の別、大きさ、城主、来歴などについて記してある。多くの写本があり、内容について若干のばらつきはあるものの基本的な情報について大きな差異はなく、中世の城館について研究するうえでの基本史料となる。

た行

『伊達家史叢談』(だて かし そうだん)
伊達家31代目当主の伊達邦宗による、伊達家にまつわる記録を集めた書。大正9年~11年(1920~1922)にかけて作成。伊達の家系、歴代当主の事跡、仙台城の様子、家中行事などについての記載がある。

『伊達治家記録』(だて じかきろく、じけきろく)
『伊達治家記録』
仙台藩で編集された仙台藩、および伊達家の正史。正史であるがゆえに「勝者側の記録」という批判はどうしても免れないが、信頼性も高く、伊達家について研究するうえで一番外せない基本史料となる。
当主の代ごとにまとめられており、それぞれ『●●公治家記録』と呼ばれ、たとえば政宗の場合『貞山公治家記録』となる。
輝宗の代の『性山公治家記録』および政宗の代の『貞山公治家記録』は4代藩主・伊達綱村田辺希賢、遊佐木斎ら仙台藩の儒学者を用いて1703年(元禄16年)に完成。その後も編纂が続き、幕末の伊達慶邦の代までがおさめられている。

『伊達正統世次考』(だて せいとう せじこう)
伊達氏初期の系譜に疑問が多かったために興味をもった仙台藩4代藩主・伊達綱村が編集させたもので、落合時成・窪田権九郎・遊佐木斎・田辺希賢らが担当した。元禄16年(1703年)頃の成立と見られる。
「伊達出自正統世次考首巻」と、神代から伊達初代・朝宗に至る伊達氏の系譜を記した「伊達出自世次考」、朝宗から15代・晴宗までについて記した「伊達正統世次考」、「伊達出自正統世次考系図」から成る。中世までの伊達氏の動向を知る上での基本史料。

『伊達世臣家譜』(だて せしんかふ)
仙台藩の100石以上の知行をうける全藩士について、その家祖から明和(1764~1772年)・安永(1772~1780年)年間までの系譜と、知行高の増減、役職の任免などについて記している。藩の儒学者である田辺希文・希元・希績らが三代にかけて編集し、寛政4年(1792)の頃に成立した。希績はその後も編集を続け、文政7(1824)年までの諸家の系譜を記載した『伊達世臣家譜続編』を文政7年(1824)頃に完成させた。漢文調。

伊達天正日記』(だて てんしょう にっき)
天正15年(1587)1月1日~天正18年(1590)4月20日まで、飛び飛びではあるものの伊達家の公式記録として書かれた日記を集めたもので、信憑性は高い。その性質上、伊達家当主である政宗の行動やその周辺に重点がおかれている。著者は不明だが、決められた一人の記録者によって書かれ続けている。ただし、途中で記録者の交代はあった。
タイトルは「天正日記」であるが、編集されたのは江戸時代、伊達綱村による収支事業が推進された時期と考えられており、『治家記録』の引用参考書のなかに「当家其時代之日記」とあるのはこの天正日記のことであると考えられる。したがって、成立は1703年より以前となるが、編集により日記は忠実に保全され、内容に手が加えられることはなかった。

『伊達騒動実録』(だてそうどう じつろく)
自身も仙台藩士であった国語学者・大槻文彦による寛文事件(伊達騒動)の記録。関係各家の史料などをふんだんに盛り込んでおり、騒動についての基本史料となっている。
大槻文彦の祖父で蘭学者の大槻玄沢の時代、すでに伊達騒動は小説、軍談、歌舞伎の題材として世に知られていたが、どれも脚色され、真実からは遠ざかっていた。それをなげいた玄沢は伊達騒動の実録を作ろうと考えてその材料を集め、その子玄幹(文彦の叔父)がそれに増補して「寛文秘録」と題する書を編じた。しかし、当時は関係する各家の名誉も考慮しなければならない時代であったために、発表する機会に恵まれなかった。意思を継いだ文彦は明治35(1902)年に編集をはじめ、明治42年(1909)に『伊達騒動実録』を完成させた。

『段銭古帳』(たんせん こちょう)
天文7年(1538)成立。『棟役日記』と同じく、伊達稙宗が領内の支配を整えるために作成したもの。

は行

『晴宗公采地下賜録』(はるむねこう さいち かしろく)
天文の乱後の天文22年(1553)正月、伊達晴宗が家臣に所領安堵の判物を給与した際の控えを集成したもの。366通の安堵状や給与の文書が収録されている。伊達領内の領主・支配地の様子がうかがえる。

ま行

『棟役日記』(むねやく にっき)
天文4年(1535)成立。伊達稙宗が領内の支配を整えるために作成。

『茂庭家記録』(もにわけ きろく)
伊達家家臣・茂庭家に関する記録。天保5年(1834)に編纂された。

ら行

『留守分限帳』(るす ぶげんちょう)
戦国時代の留守領の様子を示した史料。『御館之人数』(おやかたのにんず)、『里之人数』(さとのにんず)、『宮人之人数』(みやうとのにんず)の三冊からなる。『御館之人数』では留守氏譜代の直属家臣、『里之人数』では外様の家臣、『宮人之人数』では塩釜神社の神職について、それぞれの知行地の規模が貫高で示されている。天文の乱が終結した天文17年(1548)以後に、混乱した家臣の所領について整理・確定するために作成されたものと思われる。


…どれもなかなか手に入りにくいものばかりで嫌になる。古本を探そうとするとアホみたいな値段がつくものばかりなので、図書館に通うのが現実的だろう。宮城県の図書館だと、宮城県図書館メディアテーク(市民図書館)の郷土史コーナーがとても充実している。関東の人なら、国会図書館に行けば何でもそろうはず。

手に入ったとしても、古文・漢文調なのは当然で、活字化されていない古文書や書状となれば崩し字になるので、現代人たる我々にはなかなか素直に読みにくいものばかりだ。

郷土史研究の道は長い。

2015年4月16日木曜日

松森城 -仙台の鶴ヶ城-

まつもりじょう
松森城
松森城遠景(南方面から)
別称
鶴ヶ城、鶴館、乙森城
城の格
本城(国分氏時代、諸説あり)
在所(仙台藩、江戸時代~)
城郭構造
平山城、または山城
天守構造
なし
比高
約50m (ふもとの標高:約20m、本丸約70m)
残存遺構
曲輪、土塁、堀切、空堀、虎口
指定
特になし
築城
築城年
不明
築城者
国分氏?
城主
国分氏
国分宗政、盛重(-1587年10月)
石母田氏
石母田景頼(在番衆、-1588年6月)
粟野氏
粟野宗国、国治(定番、1588年6月-1589年6月)
不明
奥州仕置~江戸時代初期の扱いは不明
粟野氏
粟野宗国、重清(-1614年前後)
矢野氏
矢野定芳、定孝、定明、定継(1729年12月-)
廃城
廃城年
不明(江戸時代は在所として存続)
理由
不明
位置
住所
宮城県仙台市泉区 松森内町
現状
鶴ヶ城公園、山林、鶴ヶ岡中学校
鶴ヶ城、ときけば普通は会津の鶴ヶ城を思い浮かべるであろう。だが、実は仙台にも鶴ヶ城なる城がある。中世に松森城と呼ばれたものがそれで、現在の仙台市街地がちょうど北にすりきれるあたりに位置している。

1.松森城の歴史 
1-1.国分氏時代
松森城をいつ、誰が、何のために建てたのかはっきりしたことはわかっていないが、おそらくこの一帯を支配した国分氏によるものだろう。

1506年(永正3年)5月には国分家中の有力親族である松森盛次が反乱を起こしており、国分胤実の討伐を受けている。同じ年の4月には国分氏のライバル・留守氏との間で小鶴沼合戦が起きて大敗したばかりであり、これとなんらかの連動があったと思われる。

また、『伊達正統世次考』の牧野安芸・石田山城宛て伊達稙宗書状(1537年(天文6年12月26日条))で、国分氏と留守景宗との戦について述べるながれで松森城の名が出てくる。

1542年(天文11年)に天文の乱が発生すると、同年11月に晴宗党の留守景宗が稙宗方の国分氏・松森城に攻め入っていった。当時の国分当主は国分宗政である。

1-2.国分騒動
その後、国分氏には伊達家から伊達晴宗の子・盛重が入嗣する(1577年(天正5年)12月)が、『仙台領古城書上』ではこの盛重が小泉城から松森城に移り住んだとしている。となれば、松森城は国分氏にとっての本城であったことになる。

なお二の丸については盛重の家来・高平大学が城主となり「乙森城」とも呼ばれた。別の城として扱われていたのかもしれない。

しかし、養子として国分家に入った盛重の統治はうまくいかなかった。!1587年(天正15年)には盛重に反対する家臣らとの間で内紛がおきた。この年の春には反盛重の代表格・堀江長門が盛重居城(松森城のことかどうかは不明)を滅亡寸前まで追い込んだが、盛重の兄であり、ご近所の大名でもある留守政景の援軍によりなんとか事なきを得る。

一度は収まった騒動も、10月ごろになると再び反盛重の動きがたかまり、業を煮やした伊達政宗は小山田頼定に軍勢を預け、武力で国分盛重を鎮定しようとした。

驚いた盛重は米沢に参上してワビをいれ、国分領は盛重の手から離れることで一件落着した。その後、松森城を含む国分領はどうやら政宗直轄領になったらしい。

1-3.対大崎後方基地へ
政宗が国分領を直轄領としたのには、事情がある。この国分騒動と並行して、伊達北方の大崎領がどうもキナ臭くなりだしたのだ。

国分氏の場合と同じく大崎家中の内紛なのだが、政宗はこれに乗じて大崎領をわが物にしようともくろんだ。松森城はちょうど大崎領侵攻のうえで後方基地の任を担える位置にあり、政宗による松森城の体制強化が行われる。

赤が大崎領。伊達の本拠地からは飛び地となる「松山」と記した緑色の
一帯あたりが対大崎最前線となるのだが、国分領はとなりの留守領と
並んでその後方基地となりえる地勢であったことがわかる。
1587年(天正15年)12月16日の伊達政宗書状からは、大崎家の内紛に際して伊達の軍勢が松森城に駐屯しており、翌年1月の大崎攻めの際も松森城からの援軍を発進させる考えがあったことがわかる。

人員も強化され、田副帯刀助が派遣され、「在番衆」として石母田景頼が松森に駐屯した。1588年5月には石母田景頼が仙道方面に出動したため、北目城主の粟野宗国・国治兄弟が「定番」として松森城に詰めている。おそらく、この1587~88年が松森城近辺が一番あわただしかった時期ではないだろうか。

1-4.松森城の合戦
一度は収まった国分騒動だが、今度はどういう事情かはわからないものの、最終的に政宗は国分盛重を討つことに決めた。文禄5年(1596年)3月(1599年説もあり)、政宗の軍勢は松森城を攻め、国分盛重は義兄でもある常陸の佐竹義重のもとへ逃げ延びた。

このエピソードは『奥羽永慶軍記』に収められているのだが、なんとも謎が多い。そもそも1587年の段階で国分盛重の手を離れた松森城に、なぜ盛重がいるのかがよくわからない。加えて、松森城の兵はことごとく「討死に」したとあるのだが、盛重の子である古内重広などは後に仙台藩の重臣となっている。

いずれにしてもこの時期に政宗が国分盛重を討ち、その戦場となったのが松森城であることは確かなようだ。

1-5.「在所」松森
その後の松森城に関して記すところは少ないが、葛西・大崎一揆がおこると、大崎合戦のころと同じく後方基地としての重要性がクローズアップされ、1590年(天正18年)11月14日には一揆の鎮圧に赴いた蒲生氏郷が松森城に着陣している。

江戸時代になると松森城は城として機能することはなくなったものの、仙台藩の「在所として統治の拠点であり続けた。

大崎合戦の時期に「定番」として松森城に詰めた粟野宗国の所領となっている。宗国は比較的近所の北目城主から、奥羽仕置のあとで大原城(岩手県一関市)へと移封になり、再度宮城郡へ戻ってきたかたちになる。

『野初絵図』 宮城県図書館所蔵
宗国の子・重清は政宗の長男・秀宗にしたがって宇和島に行くことを命じられたがこれを断って改易となった。いつから松森が粟野家の所領となっていたかはわからないが、重清の改易が1614年前後であることから、それよりも前であることは確かである。

1-6.矢野氏時代
ここからまたしばらく松森の状況がわからなくなるのだが、享保14年(1729年)12月には矢野定芳が600石とともに松森の在所を拝領しており、以後矢野氏の所領となる。

矢野氏時代の松森は、隣の岩切城付近とあわせて狩場として用いられることが多く、仙台城からも近場であることからたびたび藩主が訪れたらしい。やがてこれが定着し、軍事訓練でもあり、御遊びとしての狩りでもある「野初のはじめ」として正月の恒例行事となった。現在、松森城付近は住宅地となっているが、おだやかな丘が続く地帯であり、仙台城からも近いことを考えると確かに狩りをするには絶好の場所かもしれない。

2.松森城の構造
松森城の別名「鶴ヶ城」は鶴が翼を広げた鶴翼のかたちに似ていることからきている。


上の図はGoogle Mapの衛星写真に、へたくそなマウス操作で引いてみた城郭ラインだ。大きく、西部の曲輪群東部の曲輪群にわけられていることがわかる。現在、大手通(青のライン)であったと思われる道を上っていくことができるのは東部の曲輪群のみで、西部は山林に埋もれている(よって、この記事で述べるのは主に東曲輪群と薬師神社一帯についてとなる)。

また、訪れた限りでは薬師神社のあたりも独立した曲輪群のように見受けられたのだが、上述の『野初絵図』では東西の曲輪が城として認識されているのに対し、薬師神社の近辺は曲輪としては描かれていない。あるいは神聖な神社の一帯は狩場から外れたのかもしれず、これも城の一部とするのが自然だろう。

上記の「1-2.国分騒動」で触れた「二の丸には高平大学が住んで乙森城と呼ばれ云々...」の二の丸に相当するのは、おそらく西曲輪群のことだと思われる。

2-1.東曲輪群 登城口
登城口は途中で大きく曲がりくねっている。


登りきると、現在の駐車場になっている広場にいきつく。はじめ東曲輪群の三の丸に相当するものかと思ったのだが、写真左側が相当な急角度でえぐれているため、駐車場を設けるために整地したものだろう。

駐車場からは徒歩で移動。これもまた大きく曲がりくねっている。

おそらくここが大手門跡か。この先から二の丸と本丸に道が分かれる。本丸に向かう道はさらに曲がりくねり、虎口になっている。

2-2.東曲輪群 本丸
本丸の様子。かなり広い。お隣の鶴ヶ岡中学校のチャイムが響く。

本丸から仙台市街を一望(クリックで拡大)。画面中央奥の山並みが留守氏の岩切城。右手の煙突は松森のクリーンセンター。左の広場が本丸。右側で大きく突き出している広場が二の丸。

二の丸から見上げた本丸。上のパノラマ写真は、ちょうど画面中央の枯れ木のあたりから撮影。

2-3.東曲輪群 二の丸
本丸の南東部に大きく細長く突き出ているのが東曲輪群の二の丸である。

本丸から見下ろした二の丸。

向かいに見える山は、国分氏のライバル・留守氏の岩切城(高森城)。現在は二つの城の間は住宅地となっているが、当時、ふたつの城に挟まれた場所で平和に暮らせるわけがない。

特筆するべきはその距離の近さで、二つの城の距離はたったの1500メートル程しかないのだ。しかも、松森城、岩切城ともにそれぞれ国分・留守の本城であった可能性があり、そうなれば一触即発。記録に残っている戦い以外にも、小競り合いが頻発していたのではないかと思われる。いよいよもって、これらの城の間に住むのは危険極まりない。

二の丸の南側は大きく落ち込んだ沢になっている。

2-4.薬師神社一帯
この一帯が松森城の一部であったかどうかは定かではないが、本記事ではそうであったと仮定したうえで話を進める。ただし、東曲輪群と薬師神社一帯の間には大きく落ち込んだ堀切があり、薬師神社へも一度山を下りたうえで長い階段を上っていくことになる。

神社の奥に続く道をゆくと...

大きく落ち込んだ堀切がある。写真の左手が東曲輪群、右手が薬師神社一帯。

2-5.松森城周辺
松森城の裏側(北川)にあたる鶴ヶ岡中学校。住宅地化が進んでおり、だいぶ整地された後だと思われるが、このあたりも城の一部だったのではないか。


松森城の南側から。仙台では貴重な田園地帯となっている。ふもとの住宅地付近には城下町とまではいかないまでも、集落があったことが中世の絵図からわかる。また、水堀も存在した(上記『野初絵図』参照のこと)。写真の左側が東曲輪群、右側が薬師神社一帯。間の木が生えていないあたりが、上記写真の堀切である。

松森城の北側。今回の訪問では入ることのできなかった西曲輪群の裏側あたりにあたる。急な崖がそびえたつ。
最後に、松森城の遠景。南側から撮影したもの。いやー、天気のいい日でよござんした。

■参考文献
・仙台市史編さん委員会 『仙台市史 特別編7 城館
・古内泰生『政宗が殺せなかった男 秋田の伊達さん』(現代書館、2014年)
・紫桃正隆『みやぎの戦国時代 合戦と英雄』(宝文堂、1993年)
・現地案内板