2014年12月2日火曜日

芭蕉の辻 -仙台城下町のへそ-

仙台には「芭蕉の辻」なる交差点がある。現在はただの一般的な交差点で、交通量もそう多いわけではないし、なにがあるわけでもないのだが、昔は仙台城下町の中心部だったのだ。

■ 仙台城下町の"へそ"

そもそも芭蕉の辻とは、奥州街道と、仙台青葉城の大手門通り(大町通り)が交差する地点のこと。東北を縦断する奥州街道と、青葉城の大手通の交差点ということで、江戸城下町の日本橋に相当する、まさに仙台のへそだった場所である。

なお、当時の奥州街道は現在の国道4号(東二番町通り)ではなく、国分町通り、青葉神社通りに相当する。




■ 四隅の建物

辻の四隅の城郭風の建物(仙台市博物館の配布物によれば「重層・入母屋造りの建物」)には龍、兎、唐獅子をかたどった瓦がのっており、「奥州仙台名所尽集 芭蕉の辻」「慶応元年仙台城下図屏風」など数々の絵図、資料に記載されていることから、仙台城下のシンボルであったことがうかがえる。

建物の一階部分は地元の商人に貸し出され、店として利用されていたという。このド一等地に店を構えるのは、仙台の商人にとってすさまじいステータスだったことだろう。

「芭蕉の辻 錦絵」 文化遺産オンライン より

建物は何度か火災で焼失したが、そのたびに仙台藩の費用で立て直されたという。維新のあとも存続したが、明治時代に火事で三棟が焼失。残った西北の棟も、1945年7月の仙台空襲によって失われてしまった。

明治時代中期の様子

再建の計画については聞いたことがないが、もはや仙台駅前や国分町に移ってしまった町の中心からは外れた位置にあり、ここがかつての仙台の中心だった、と言われてもピンとこないかもしれない。

道のワンブロック、100メートル手前まではアーケード街が伸びているのだが、そこから先は急に人通りが少なくなる、というのがなんともさみしい。

下は現在の様子。仙台で一番メジャーな地銀、四十七銀行の芭蕉の辻支店が建つ。


北西の角には、記念碑が。



■ 名称について

西側の道の中央に高札が掲げた札場があったことから、正式名称は「札の辻」という。

なぜ「芭蕉の辻」と呼ばれるようになったかについては諸説あり、伊達政宗から辻の四隅の建物を賜った僧の名にちなんだ、という有力説の他、芭蕉の木が植えてあったから、という説もある。

ネーミングに松尾芭蕉との関係はないのは確かだが、彼は「奥の細道」の道程、国分町で数泊し、知人を訪ねたり仙台の名所めぐりをしている。その際におそらくこの芭蕉の辻も通っていると思われ、同じ名前のこの交差点に、何らかの思いをはせたのではないだろうか。

■参考文献
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 通史編3 近世Ⅰ
・現地案内版

仙台・南部藩 藩境 相去番所 / 藩境塚 / 鬼柳番所跡 -現在に残る旧"国境"あと-

岩手は盛岡までいってきた。高速は使わずに、下道(国道4号、奥州街道)をひたすら北上。途中、何度か寄り道をしていたのだけれども、そのうちの一つ、旧伊達・仙台藩と南部藩の藩境が目に見えてわかる面白い場所があったのでご紹介。

なお、以下現地の表記に従って「番所」「御番所」という表現を用いているが、要は関所のことである。

■ 相去御番所跡

跡地には当時を偲ばせるもの
はなく、案内板のみが残る。
相去は「あいさり」と読む。1658年(明暦2年)、2代藩主伊達忠宗のころに設置。関ヶ原の戦があってから60年もたってからの設置は遅いように感じるが、実は仙台・南部藩の藩境が確定したのは1641年(寛永18年)になってからのことだった*1

番所にはこがらみ、ちくも、さすまた、十手といった捕手道具の他、鉄砲十丁、弓十張、槍十本が備え置かれた。なかなかに物騒であるが、これはまだ戦国の熱気冷めやらぬ江戸時代前期のことであり、番所の役目は次第に国境の警備から物資や人の流れの監視に移っていく。

設置の際には102名の足軽が詰めたというが、その後も常時それだけの兵力を抱えてたとは思えない。案内板には
武頭ぶがしら1名(250石、出入司支配扱い、百日交替で仙台より出張)、組頭2名、床頭とこがしら1名、足軽4名が常時勤務した
とあるので、やはり国境の緊張緩和とともに常駐兵力は削減されていったのだろう。設置時の102名の足軽、というのは南部藩に対するデモンストレーションの意味もあったのではないか。その後は「足軽4名」で足りたのだから...。

■ 藩境塚

仙台藩の相去番所と南部藩の鬼首番所のちょうど中間地点に位置している。

実際にはこの一基のみではなく、東西に渡って藩境沿いに数百基が並んでおり、奥羽山脈から太平洋まで130キロ以上にもわたる。これだけヴィジュアル的に一目瞭然な「藩境」は(海や河川を除けば)全国にも類がない。

...よくぞここまでやったもんだと言いたくなるが、東北でも大きな(それもあまり仲のよろしくない)2つの藩が260年にわたって国境を接し続けた結果がこれであろう。

厳密には、基準となる大塚と、その間で補助的におかれた小塚からなっており、明治時代まで補修と増築を繰り返しながら維持された。

■ 鬼柳関所跡

1658年設置の仙台藩・相去番所に先立つこと1631年(寛永8年)の設置。このころはまだ両藩の藩境が確定していない時期なのだが、南部藩はこの地の関所をおくことで実効支配を進めたかったのだろうか。

関所には二人の役人と数名の足軽が常駐しており、藩主・公儀の宿泊所や休憩施設である御仮屋、馬を乗り継ぐ伝馬所などがおかれた。ということは、参勤交代のときに藩主がここで宿泊することもあったのかもしれない。

道をはさんで写真の反対側には、もうひとつ看板が掲げてあったのだが、いかんせんインクがハゲていてほとんど判読不能だった。文字というよりは絵のように見えたので、おそらく昔の街道沿いの様子が絵図にして載っていたのだろう。惜しまれる限りである。

なお、まぎらわしいのだが仙北街道沿いには仙台藩の鬼おにこうべ番所がある。今回紹介したのは南部藩の鬼おにやなぎ番所である。

■ 場所について

面白いのは、この3つの旧跡が奥州街道沿いに一直線に並んでいること。もっとも、藩境塚に関しては東西に渡って数百基も並んでいるので、そのうちの一つが二つの番所跡に位置しているにすぎない。

奥州街道とはいえ、旧道なので現在の国道4号とは道筋を異にする。道は現在の岩手県道254号線沿いで、和賀川の南、東北新幹線と並走するあたりである。

実は筆者、この旧跡の存在は知っていたのだが、正確な場所を調べるのにはかなり苦労した。どのサイトをみても、詳細な場所がのっていないのである! 不幸中の幸いは、写真を掲載しているサイトが多かったことと、このあたりでGoogleストリートビューの利用が可能だったこと。

写真を手掛かりに、新幹線らしき高架線の付近であることを手掛かりにストリートビューをさまようこと約1時間。やっとの思いで場所が特定できた。もっとも、旧奥州街道が岩手県道254号に相当することさえ知っていれば、もっと早く特定できたのだが...。

というわけで、これから訪れる人のために、当ブログではきちんと場所を示した地図を掲載しておこうと思う。



■ 三日月の丸くなるまで

この日は、ここ以外にもぶらぶらと立ち寄りながら盛岡まで向かった。ほぼ一日、岩手県で過ごしていたことになる。

三日月の 丸くなるまで 南部領」という句? がある。

奥州街道を北上する際、南部領は広大であるため、この鬼柳番所から南部藩に入ったときは三日月でも、南部領を抜けるころにはもう満月になっている、それだけ通過に時間がかかるという意味だ。

実はこの日、満月にして月食の日だったのである。帰りは高速で仙台まで帰ったのだが、空を見上げるとちょうど月食のタイミングだった。

ちょっと欠けてます

一日にして三日月から満月の復帰、「三日月の 丸くなるまで 南部領」を味わいつくした一日であった。

うーん。粋。

*1: 平成版『仙台市史』通史編3 近世1