2014年6月29日日曜日

笹谷峠 / 有耶無耶の関

峠が好きだ。

まず、響きがいい。
漢字のつくりもまさに「読んで字の如く」で面白い。
峠のてっぺんから見下ろす景色に心をうばわれる。

何より、峠を越えて、上り坂が下り坂にかわる瞬間の「新しい土地に入った」という実感がたまらない。
国道沿いに掲げられた、無機質な「これより○○県××市」の標識からは得られない体感だ。

この感覚は、昔の日本人にとってはもっと大きいものだったであろう。
ましてや、明治以前の人間にとって峠越えとはほとんどの意味で「国境越え」と同義であった。


今回訪れた笹谷峠も、そんな旧「国境」のひとつ。

奥羽山脈で隔てられた陸奥の国と、出羽の国の国境。江戸時代から現在の地名でいえば、仙台(正確には宮城県川崎町)と山形市の境目。


大きな地図で見る

峠をこえる道筋は笹谷街道として知られ、古代には多賀城~出羽柵をつないだ歴史のある街道である。

戦国時代には米沢・山形間ルート、大崎・山形間ルートと共に伊達・最上両氏の攻防の焦点となり、慶長出羽合戦の際には留守政景率いる援軍もこの峠をこえて山形入りした。

続く江戸時代以降には、出羽(現在の山形・秋田)諸藩の参勤交代にも利用されたらしい。もっとも、参勤交代のルートは羽州街道の整備とともにそちらに移った様だが、現在も国道286号線として高速・山形自動車道も並走し、東北の東西を結ぶ主要道としてその重要度は今も廃れていない。


■ 峠越え

近年、全国の主要な峠道にはバイパスの役目を果たすトンネルが作られている。笹谷峠にも笹谷トンネルが走ってその任を負っているわけだが、高速の一部なので原チャリでは入れない旅の途中に一直線で風景の閉ざされたトンネルを使うような無粋なマネはしない。うねった峠道を登り、頂上でこれから入る新天地への思いを馳せてから坂を下る。これが峠…いや、国境越えの作法だ。

高速・山形自動車道 笹谷トンネル入り口(仙台側)
早朝から物流トラックが数多く行きかう
笹谷トンネル入り口付近、国道と登山道の分岐点にある説明版
(クリックで拡大)
峠道の入口付近では清流が並行して流れる
峠道といえばこれ。ヘアピンカーブ。どちらかといえば仙台側には
ゆるやかな曲線が多く、山形側でヘアピンが規則的に連続する
道の途中、仙台・太平洋側を望む。写真中央部、山間に広がる霧のじゅうたん。
さすがにこの標高で雲海ってことはないだろうが、朝の霞がそう見えないこともない。


景色と湾曲した道のを楽しみつつ、頂上へ…

「国境」をこえました。このあたりは見晴らしの良い割と開けた平坦地になっていて、高原といった感じ。案内板によると、八丁平という地名らしい。左側の写真でも確認できるが、背の高い植物が見当たらないので、このあたりが森林限界なのかもしれない。


■ どこへ消えた? 有耶無耶の関

さて、この旧国境には昔、「有耶無耶の関」なる関所があったらしい。今回はドライブとともにその関所跡を見たかったのも目的のひとつ。
関跡は、宮城県と山形県の県境の標高906mの笹谷峠にある。東の笹谷宿まで一里半、西の関根(関沢)宿まで一里半、笹谷峠の八丁平と呼ぶ平坦地の南東側にある。笹谷街道は、平安の時代から太平洋側の奥州と日本海側の羽州とを結ぶ重要な街道で、歌枕にも詠まれている。みちのくの難所として聞こえ、「いなむや」「ふやむや」「むやむや」などの名称でも呼ばれた。「義経記」にみえる「伊那の関」、「吾妻鏡」にみえる「大関山」は、この有耶無耶の関と考えられている。
(略)
昔から、笹谷峠は難所として知られている。そのためか、下のような伝説が伝えられている。
この峠には山鬼が住んでいて、人を取って食らっていた。しかしいつのころからか、仙台側の「無耶の観音」と山形側の「有耶の観音」の霊鳥が峠に住み着き、鬼がいる時は「有耶」、いない時は「無耶」と鳴いて旅人に知らせたという。
  (川崎観光ポータルサイト かわさきあそびWEB より抜粋)
もともとGoogleマップで場所は確認していたのだが、八丁平に案内板があったのでそれに従って探索開始。


いちおう登山道になっているようなのだが、道というよりはけものみち。腰の高さまである植物が生い茂り、早朝というタイミングのせいか、朝の霜にまみれて、腰から下はびちょ濡れの状態に。

有耶無耶の関跡の探索中、地味につらかったトラップ。綺麗な
いろどりの花なんですが、そのトゲに何度痛い目にあわされたことか。
というわけで、いろいろと大変な思いをしてGoogleマップの指し示す場所まで来てみたはいいものの、その地点には何もない!

いや、この程度で大変などと言っていては登山家はおろか、最近はやりの山ガールにすら怒られてしまうかもしれない。が、こちらは歩いて数分のコンビニですらバイクを走らせる原チャリライダーである。肉体的にもさることながら、散々歩き回って何も見つからないのは精神的につらい!

Googleマップの指し示す地点付近。何もない!
案内板を見ても、登山道沿いに関所跡があるはずなのだが、おそらくこれがその登山道だろう、という場所を歩いてみても何もない。スマホでGPSを駆使しながらGoogleマップを見ていたので、考えられるのは
1.Googleマップ記載の位置が間違っている
2.GPSがおかしい
3.関所跡はなくなった(あるいは移転した)
4.ただ見逃しただけ
のどれかであろう。

2のGPSに関しては、場所によっては的外れの所を指すこともごくまれにあるけれども、マップを衛星写真モードにして目印になる送電線の鉄塔を確認しながら歩いたので、可能性は低い。

3の廃止・移転説については、後で気になったので川崎町の地域振興課に問い合わせてみた。職員さんによると「震災のダメージもなく、私もこの目で確認してますから。間違いなくありますよ」と強気の主張だったのでこれもない。

4の見逃した説も、前掲の川崎観光ポータルサイトによればこんなに大きな案内版が出ているはずなので、おそらくないだろう。

とすればやはり、1? Googleさん、そこんトコどうなのよッ!?

それにしても何も見つけられなかったのは悔しい。正確な場所や移転情報などを知っている方がいらしたら、ぜひともご一報いただきたいっ!!


■ 鬼は実在したか

山頂の休憩所から山形側を望む
いくら有耶無耶の関だからといって、このままにうやむやにレポートを終わらせてしまってはバツが悪い。ので、最後にちょっと考察じみたことをしてみる。昔この関所付近には人食い鬼が住んでいた、という伝説についてだ。

結論から言うと、おそらく山賊か落ち武者がこのあたりに住みついて、ときおり峠をこえる往来人を襲って生計を立てていたのではないかと思う。

前述のとおり頂上付近は八丁平と呼ばれ、見晴らしはかなり良い。峠を上ってくる人がいれば、すぐにわかるだろう。

また、現在でも冬季には豪雪のために封鎖される場所ではあるが、山地ゆえに植物や動物などの食糧にも恵まれてることが想像され、越冬の準備さえしておけば、通行人からうばった物資も活用することで十分に自活は可能だったのではと思われる。

そんな山賊、のぶせりの類の噂に尾ひれがついた結果、人食い鬼伝説が生まれたのではないだろうか。



…と心残りのある峠越えではあったが、最後の楽しみでるくだり道を通って山形方面へと降る。何が楽しいって、原チャリのエンジンを切って、慣性と位置エネルギーだけでみちを降りていくのが爽快なのだ。朝露でびちょびちょになった靴とGパンを乾かすためにも、おもいっきり足を開いた状態でバイクにまたがる。

迷惑この上ない走り方だが、交通量の極めて少ない早朝の峠道なら許される。
ハズ。

2014年6月22日日曜日

志村光安

信長の野望・創造」より
統率79/武勇79/知略78と、
戦闘では使い勝手が非常に良い
しむら あきやす

詳しい生年は不明。没年は1609年(慶長14年)とも1611年(慶長16年)ともされる。
ちなみに裏付けとしての参考にはならないが、『信長の野望・創造』のデータでは1565年誕生、1609年没となっている。名前の読みが「みつやす」になっているが間違いだろう。「光」の字は主君・最上義からの偏諱(字の拝領)であるため、「あきやす」が正しいハズ。
父親の代から最上家に仕えるが、彼の名が一気にとどろいたのが東の関ヶ原・慶長出羽合戦における長谷堂城の戦いにおいてである。

志村光安は副将格の鮭延秀綱らとともに長谷堂城にこもり、最上の本城・山形城を目指す上杉・直江兼続が率いる1万8000の兵をわずか1000名の手勢でくいとめた。

この間、最上は親戚にあたる伊達に援軍を要請し、政宗も留守政景の率いる援軍を送っているが、実際には戦闘には及ばなかったため、実質 孤立無援の戦いであった。

通常城攻めには敵の3倍の兵力が必要とされているが、この戦いにおいては上杉軍は籠城勢に対して18倍の兵力で、なおかつそれを率いるのはかつて上杉謙信にも才能をみこまれ、家康をめちゃクソに激怒させたこともある天下の軍師・直江兼続である。これを撃退したのだから、彼の名前が轟くのもうなずける。

戦後は東禅寺城、後に改名し亀ヶ崎城3万石を拝領した。

2014年6月21日土曜日

留守政景 / 伊達政景

るす まさかげ
留守 政景 
別名
雪斎(1587-)、伊達政景(1592-)
官位
従五位下 上総介
生誕
1549年(天文18年)
死没
1607年(慶長12年)2月3日 享年59歳
死因
自然死
君主
伊達晴宗 → (伊達よりの独立領主)
→ 伊達政宗
仙台藩
家格
一門
所領
1567 - 岩切城 宮城郡東部 16万石
1570 - 利府城 宮城郡東部 16万石
1590 - 大谷城 黒川郡
1591 - 磐井郡 黄海 2000貫(2万石)
1593 - 磐井郡 志津
1604 - 一関 1万8366石
氏族
伊達氏 → 留守氏 → 伊達氏
(子の宗利から水沢伊達氏となる)
在位
不明
実父:伊達晴宗
養父:留守顕宗
舅:黒川晴氏
久保姫(岩城重隆の娘)
兄弟
岩城親隆、阿南姫(二階堂盛義の妻)、
伊達輝宗、女子(伊達実元の妻)、女子
(小梁川宗盛の妻)、留守政景、
石川昭光、彦姫(蘆名盛興の妻)、
女子(佐竹義重の妻)、国分盛重、
杉目直宗
竹乙姫(黒川晴氏の娘)
伊達宗利、天童重頼
子孫
伊達宗景(伊達騒動期、ひ孫)
先祖
祖父:伊達稙宗
墓所
大安寺(岩手県 奥州市水沢区)
伊達晴宗の三男で、伊達16代当主・輝宗は兄。政宗からみると叔父にあたる人物。後に伊達姓を与えられて伊達政景と称す。

■ 留守氏

政景の継いだ留守氏は宮城郡の豪族で、米沢や現福島県北部を本拠地としていた伊達氏が現在の宮城県方面に進出するにつれてその勢力下に組み込まれていった家である。

政景もこの留守氏に養子として入るわけだが、系図をみるとそれよりも前から留守家には、伊達から続々と養子が送り込まれていたことがわかる。

14代留守郡宗(くにむね※)、16代留守景宗、そして18代政景がそれ。しかも、伊達家出身の郡宗の代からは留守家で代々「家」でとおしてきた通字がぱったりと消え、露骨に「宗」にかわっている。これは完全に伊達家の傘下である。
※「むらむね」とも
■ 留守家のっとり

そんな中、留守氏17代、顕宗の時代に留守氏で家督相続問題が発生する。

1566年(永禄9年)、この年顕宗は50歳であったが、本人も嫡子・宗綱(孫五郎)も病気がちであったため、これを憂いて再び伊達家から跡継ぎを得ようとする派と、それに反対する一派が対立した。

そんな中で結局、翌年の1567年3月7日、伊達家から晴宗の6男・政景が留守氏の跡継ぎとして岩切城に入った。しかし留守家中は

 親伊達/政景派
花淵伊勢、吉田左近、逸見遠江、逸見孫右衛門ら

 親大崎/留守顕宗の嫡子・孫五郎派
余目伊勢、余目三郎太郎の親子 (東光寺城)
村岡左衛門、兵衛の兄弟 (村岡城、後の利府城)
佐藤太郎左衛門、三郎の親子ら(駒犬城)

に分かれることになる。

政景はまず、永禄12年(1569)末に村岡城攻撃開始。雪により一時戦線が硬直するも翌2月に攻撃再開し村岡氏を滅ぼす。これに伴い、村岡氏の居城・利府城へと居城を移した。

続いて同じく孫五郎派の余目伊勢の領地を没収し、1572年には駒犬城に立てこもった佐藤太郎左衛門、三郎親子を攻撃し、これを逃亡させた。

岩切城・利府城・駒犬城
位置関係図(クリックで拡大)
時期ははっきりとはしないが、おそらくこれに前後して孫五郎は伊達輝宗によって高城氏の養子とされた。留守家中における反伊達勢力はシンボルも奪われ、その実働部隊も壊滅。ここに留守政景のお家のっとりがほぼ完成した。

ちなみにこのときに留守氏の内乱の鎮静化につとめたのが、同じく伊達勢力圏北方の独立領主・黒川晴氏であった。後に政景は晴氏の娘・竹乙姫をめとる。

黒川氏との婚姻は伊達北方の門番をつとめる政景にとっても、都合がよかったのだろう。

ちなみに留守氏は代々、宮城郡東部をその勢力圏としていた。同じく宮城郡西部を治める国分氏とは宿命のライバル関係だったのだが、これも弟の盛重が入嗣することによって対立関係が解消する。兄弟そろって、北方勢力を「伊達化」するために派遣されたのであった。

兄である伊達輝宗が畠山義継に殺された粟ノ巣の変の際には、伊達成実とともに現場に居あわせながら彼を救うことができなかった。1585年(天文13年)には、人取橋の戦いにも参加して奮戦する。

■ 大崎合戦

1588年の大崎合戦では、泉田重光とともに大将に任じられるが、折から留守家臣の八幡家の相続問題で対立していた泉田とは意見が合わず、出撃前から口論に及んだ。

おおざっぱにいうと、一気に中新田城を攻めようと主張した泉田に対し、政景は慎重論を展開。このあたりには、舅にあたる黒川晴氏が大崎・伊達のはざまで苦しい立場に追いやられていた事情もあったと思われる。

案の定、黒川晴氏は大崎方について参戦し、先鋒した泉田は新沼城に籠城を余儀なくされ、大崎・最上の捕虜となってしまう。大崎合戦は伊達勢の敗北に終わった。

なお、伊達に反旗を翻した黒川晴氏に対して、政宗は相当に怒ったらしい。しかし娘婿の留守政景のとりなしによって許され、余生を全うした。

■ 豊臣政権時代

1590年(天正18年)、羽柴秀吉の小田原征伐に加わらなかったことから、奥州仕置において留守氏は所領を没収されてしまう。このあたりが留守氏の位置づけのあいまいなところで、ドメスティックには伊達家の家臣として認識されていたのであろうが、秀吉からは独立した大名として扱われて処分をうけているのである。

政景は利府城から立ち退き、黒川郡大谷城へと居城を移した。

1591年には磐井郡黄海に2000貫を与えられる。93年には磐井郡志津へ転封。

伊達成実、亘理重宗らとともに、文禄の役にも出陣。京における出陣式でも伊達勢のパレードに馬を加えた。1592年には肥前名護屋の陣中にて政宗から「伊達」の苗字を与えられた。

■ 長谷堂城の戦い

東北の地方レベルを脱し、留守政景の名が全国区の戦国史で確認できるのは、東北の関ヶ原・慶長出羽合戦である。上杉家臣・直江兼続の攻撃を受ける最上家は伊達に救援を要請。これをうけて政宗は留守政景を大将に援軍を送った。

Wikipediaより拝借。
留守政景の援軍は仙台方面から笹谷峠を越え、9月24日に直江兼続の後背に位置する沼木に布陣。

山形城の支城・長谷堂城では、これを取り囲む直江兼続に対して志村光安、鮭延秀綱らが少数の兵ながらに奮戦するが、留守政景の援軍到着により戦局は硬直。そのうちに西での三成敗北の報がとどき、上杉は撤退した。

このときの留守政景の動きついては、政宗の意図にそって消極的である。政宗の意図とは、最上への援軍は送るものの、なるべく兵の消耗を避けて確実な勝機があればこれをつかむ、というもの。

事実、政景は最上領へ入って上杉勢を牽制しつづけるものの、直接交戦はしていない。戦火を交えるのは、上杉軍が撤退してからこれを後追いしたときだけである。

■ 晩年

戦後の1604年(慶長9年)、一関2万石を与えられる。

いつのエピソードかはわからないが、慶長合戦における直江兼続との交戦について、家康が政景を江戸に呼び、戦の状況を問うてその功績を直接たたえたという。(『一関市史』)
1607年(慶長12年)に没。家臣4名(辺見藤兵衛清住、久保肥前安親、相沢和泉慶久、近藤文左衛門良成)が殉死した。

■ 参考文献
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 通史編2 古代中世
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 通史編3 近世Ⅰ
・塩竈市史編纂委員会『塩竈市史 本編1
・一関市史編纂委員会『一関市史 第1巻
・水沢市史編纂委員会『水沢市史2 中世
・水沢市史編纂委員会『水沢市史3 近世 上

2014年6月15日日曜日

大窪城 -対大崎最前線-

涌谷城を目指していた途中、たち寄った道の駅おおさとの案内板にて「大窪城址公園」なる表示を発見。完全にノーマークだったのだが、よりみちしてみる。

ちなみにGoogle Mapでは「大窪城址公園」と検索してもでてこない。実際には宮城県道40号と16号の交差点、および16号沿いの城址公園入口に案内板がたっていたので、迷わずに到着。



というわけで、事前情報は全くなしの状態で立ち寄ったのだが、案内板の記述によると、宮沢時実が伊達尚宗の時代(※1)に大崎・葛西に対する北の守りとして築城したとのこと。

ということは、このあたりが伊達の勢力圏と大崎・葛西勢との境界、あるいは伊達勢力圏の北限、ということになるのだろう。
※1 ということは、1400年代後半から1500年代前半。尚宗は、伊達宗家第13代当主。政宗の祖父の祖父。
初代、宮沢時実から2代目・裕実、3代・実家、4代・景実を経て、5代目宮沢元実の時代が、伊達政宗の時代とクロスオーバーする。

記念碑には「相馬及び大崎の軍に従いて」と書いてあって、この宮沢元実が相馬・大崎に従って伊達勢と戦ったのか、それとも大崎・相馬の政宗軍に従軍したのか、わかりにくい日本語になっているのだが、文脈から判断するに後者だろう(後で調べたらその通りでした)。

元実は常に先鋒をつとめ、朝鮮の役にも参加して功績があったらしい。ながく大松沢の地を治めたことから、政宗に大松沢に改名するように命じられ、以後大松沢氏は仙台藩の家格において「一族」に列せられる。地図で確認してみると、確かにこのあたりの住所は大松沢である。

こちらは公園入口をぬけてすぐの二の丸に相当する広場。なかなかの広さ。記念碑、城址略図もこの広場内にあり。













城址略図にも「現在の登り口」という表記は地図の公園入口と対応するのだがわざわざ「当時の」と書いてあるあたり、現在の入口と城の虎口は別物なのだろうか? 写真右の「空堀跡」の写真が入口付近の様子なのだが、そこだけ空堀にかかる土橋になっている。やはりここが城門正面か。


二の丸広場の写真中心部に見える階段を上ると、本丸へ。













本丸の様子。当時のものかどうかはわからないが、井戸が。

やたらとハスの葉っぱが生い茂っていただが、標高80m以上の本丸で湿地ということはさすがにないだろうか…!? 訪問したのは、ちょうど梅雨時の約1週間にわたる長雨のあと、久々の晴れ空の日。たまたまそういう時期だったのかな。


城からの眺め。付近の地理には不案内だったため、後で参考にした『大郷町史』から引用。
本丸に立って周囲を眺めると、南方には鶴田川ぞいの水田地帯から遥かに旧品井沼の美田地帯を一望のもとにおさめ、さらに対岸の大谷地区の羽生・山崎・不来内などの各所を遠望することができる。まさに長世保の南西部を固め、大谷保や黒川耕土方面を監視するのにふさわしい場所であることがわかる。
『大郷町史』を読んでみると、このあたりはまさに伊達(およびその配下の留守氏)・大崎・葛西の勢力圏のはざまに位置するようで、戦国-江戸の時代を境に記録からみえなくなった家名も多いのだとか。

というわけで、この現・大郷町ちかくの戦国サバイバルはなかなかにハードだったわけで、戦のたび、あっちについたりこっちについたり裏切ったり、それなりに忙しかったようだ。

そのなかでこの大窪城を残し、伊達の臣下として明治以降まで家を残した宮沢、改姓して大松沢元実という男は、なかなかしたたかな武将だったのか。それとも、たまたま運が良かっただけなのか。




2014年6月8日日曜日

泉田重光


いずみだ  しげみつ
泉田 重光
別名
助太郎、安芸守
生誕
1529年(享禄2年)
死没
1596年(慶長元年)享年68歳
君主
伊達政宗
仙台藩
家格
一家
所領
岩沼城 8000石
薄衣所 1400石(1591年-)
氏族
泉田氏
在位
当主:1582-87年の間 - 1596年
泉田景時
八幡景業の娘
兄弟
光時、重光、小平重隆
不明
養子:泉田重時(亘理元宗の子)
子孫
泉田志摩(幕末期)
墓所
東安寺
岩沼城主・泉田景時の二男。母親は、留守氏の家臣筋にあたる八幡景業の娘。

元服がいつなのかは定かではないが、現代風にハタチで成人したと考えても1549年。おそらく思春期を天文の乱(1542 - 1548年)に重なる時期にすごしたはずである。この伊達家内乱において泉田家がどちらに組したかは定かではないが、時期的には伊達稙宗 → 晴宗 → 輝宗、そして政宗と4代にわたって仕えている計算になる。

父である泉田景時の名前は、伊達の軍勢が総動員された天正4年(1576)の対相馬戦でみつけることができる。このとき泉田景時は単独で2番備えを形成している。ひとつの備えは300 - 800人で形成され、それを養うには1万石近い経済力が必要であった。

実際に泉田家は岩沼城主時代に8000石の知行があったとされる。伊達家のなかでも、泉田家はなかなかの大身であったはずだ。天正4年の対相馬戦のとき、重光は48歳。彼も出陣していたと考えるのが自然だろう。

天正10年(1582)年には、重光の兄である光時が相馬との戦で討死。

鮎貝宗信の謀反に際し、湯目景康、宮沢元実らとともにこれを攻めたのが天正15年(1587年)である。兄の戦死からこの間に、正式な家督を継承したと思われる。1582年に当主就任としても既に54歳。なかなかの遅咲きである。

■ 大崎合戦における主戦論

天正16年(1588)の大崎合戦では留守政景とともに大将格として出陣するが、折から母親の実家の相続問題に関して留守とはもめていたため、松山千石城における出陣前の軍議でも口論におよぶ。

一気に中新田城を攻めようとする泉田に対し、留守政景は慎重論を展開。確かに、伊達軍の出撃拠点・松山千石城から中新田城までの間には桑折城・師山城が備えており、これを素通りしての中新田攻めはのちのち挟み撃ちになるリスクが高い、という留守説のほうが常識論の様にきこえる。

大崎合戦における関連城配置図。青が伊達、赤が大崎の城。伊達の出撃拠点・松山千石城から中新田城までは約20キロのみちのり。
当初、鳴瀬川沿いに西進する伊達勢と岩手沢の氏家吉継とが大崎の拠点・中新田城を挟み撃ちにする計画であった。

この留守政景の主張に対し泉田は
「兵は拙速を尊ぶ」
「桑折城の黒川晴氏は留守殿の舅に当たられる人物。戦にときをかけるとは、時間をつぶして大崎を利するつもりでもあるのか?」
「黒川晴氏は留守殿の親戚なのだから、そなたがなんとか参戦を阻止できよう」
と嫌味ったらしい反論。加えて、松山千石城主・遠藤出羽守の親戚が師山城の後背に位置する新沼城を守っていることもあり、これを無力化できるとの見込みもあった。

戦場の常で、慎重論よりも勇ましい攻撃案が採用され、泉田先鋒、留守後陣で伊達軍は出陣する。

■ 中新田城攻め失敗と虜囚生活

出陣した泉田勢は、師山、桑折城を素通り。このときは留守の恐れた両城からの挟み撃ちもなく静かな様子であったため、泉田勢は「大崎勢はわれらに恐れをなした」とはなから相手をナメきっている。しかし、これはあえて伊達の主力を素通りさせる黒川晴氏の策であったのだ。

泉田勢は中新田城を攻めるも、大雪(季節は新年早々の1月)と、城を囲む湿地帯に阻まれて思うように攻撃がはかどらないうえ、守将の南条隆信も戦に長けた人物で、みごとな采配で泉田を阻む。

結局撤退を余儀なくされるが、ここにきて南条隆信は城を出て泉田勢を追撃。さらに、素通りした師山城、桑折城からも敵兵が出撃し、泉田は敵中に完全に孤立。なんとか新沼城へとのがれこみ、ここから約1か月の籠城戦が始まる。

大河ドラマ 『独眼竜政宗』より
解放された泉田重光 (by高品格)を自ら迎える政宗 (by渡辺謙)
なお、この撤退戦において配下の小山田頼定が戦死。留守の率いる後陣もなんとか泉田に合流・救出しようと奮戦するが、かなわなかった。

2月29日、黒川晴氏の斡旋により城の包囲は解かれたが、泉田は人質として長江月鑑斎勝景と共に大崎方に引き渡される。最上義光からは政宗に叛くように促され、長江はこれを受け入れて解放されるも、一方の泉田はこれを断り、山形まで連行されてさらなる拘禁が続く。

7月21日、義姫の仲介により大崎・最上との和睦が成るとようやく解放。約半年にも及ぶ虜囚生活であった。

この時期、北方の大崎・最上や南方の蘆名との戦が相次ぎ、四面楚歌の状態でも政宗は泉田重光の解放にこだわり、見捨てなかった。松山千石城での留守との口論を見る限り猪武者のような印象もうけるが、政宗からの信頼はよほど厚かったのだろう。

■ 留守政宗との関係 -八幡騒動-

この大崎合戦より以前から留守政景と折り合いが悪かった理由として、母親の実家(※1)である八幡氏の家督相続問題があげられる。
※1 Wikipediaには「嫁の実家」とあるがこれは間違い。
簡単に述べると、留守氏の家臣筋にあたる八幡家に、景兼(かげやす)、業継(なりつぐ)という異母兄弟がいた。かねてより仲が非常に悪く、どちらも幼少であったために家督相続で大いにモメたらしい。

結局、景兼が八幡家を継ぎ、業継は叔父である下間景継の養子となるのだが、この叔父をはじめとする業継派は景兼を廃嫡して業継に八幡家をつがせる、もっと率直にいえば乗っ取ろうとした。追い込まれた景兼は主君筋にあたる留守政景に救援をもとめ、留守は下間家を滅ぼした。

後ろ盾を失った業継は留守領を出て放浪するが、後にそれを世話したのが泉田重光だった。実は業継の妹が、泉田重光の母親なのである。このあたり、似かよった名前が非常に多く登場するのでとてもややこしい。
留守政景 → 八幡景兼 vs 下間(八幡)業継 ← 泉田重光
詳しい関係は下記の系図をじっくり眺めていただくとして、できるだけシンプルに構造を示したのが上の一行。八幡家の異母兄弟・景兼、業継の対立を留守が主君として、泉田が親戚筋としてそれぞれバックアップしていたかたちになる。

岩沼から薄衣へ約100キロ北方への移封(クリックで拡大)
■ 薄衣へ移封

話が前後したが、1591年に秀吉による奥州仕置が行われ、伊達家そのものが大きく領地を減らされてしまう。政宗も本拠地を米沢から岩出山へ移し、家臣団の再編を行う。

このときの地行割りで泉田重光は、岩沼から磐井郡 薄衣に所替えとなる。知行は約1400石。

これについては、大敗した大崎合戦からあまり年月が立っていないタイミングでの移封であることから左遷とみる意見もあるようだ。なにせ岩沼8000石から1400石である。約6分の1。

しかし、伊達家そのものが多くの所領を没収されたことで、留守政景や亘理元宗といった重臣であっても知行を減らされたうえで所領替えとなっているため、やむを得ない処置だったとも思われる

亘理重宗の息子・重時を養子に迎え、泉田家は代々薄衣を治めた。薄衣は江戸時代の仙台藩においては「所」のランクを与えられたミニ砦となる。

1596年(慶長元年)没。享年68歳。なお、大崎合戦時には政宗22歳に対して泉田重光60歳。政宗からみたらおじいちゃん世代であった(【参考】 伊達家臣 年齢対応表)。

■ 系閥

本文中ではあまり触れなかったが、亘理家との婚姻関係が太いのが目立つ。これは亘理城主の亘理家、岩沼城主の泉田家はどちらも相馬方面に対する要であったため、結束を固める意味があったのだと思われる。



重光の弟・重隆は亘理宗隆の婿養子となり、宗隆の没後は小平城に入って小平姓を名乗った。こちらも対相馬前線の城である。

ちなみにこの系図をつくりながら自分も初めて気づいたのだが、仲の険悪だった泉田と留守は亘理家・伊達宗家を経由して遠い親戚筋にあたる。このあたりの関係が、東北の戦国武将は本当にややこしい。

【追記】2020.05.023
上の系図を見直していて、留守政景と亘理氏の間に黒川氏を挿入できることに気付いた。上の系図に修正を加えたものを下に掲載する。大崎合戦における因縁の3人、泉田重光、留守政景、そして黒川晴氏までもが、親戚の関係だったのだ。ザ・閨閥ラビリンス。




■ 参考文献
・『岩沼市史