2014年11月22日土曜日

政宗の家督相続と大内定綱 -政宗の仙道攻略戦1-1-

「伊達輝宗像」(仙台市博物館所蔵)
若干18歳の政宗への家督継承を決断
■ 政宗、家督相続

天正12年(1584年)10月、伊達輝宗は隠居し、嫡子・政宗に家督を譲ることを決断した。このとき政宗は若干18歳である。

父・輝宗は、対相馬戦において武将としての才覚をみせた政宗に期待する一方、それを快くおもわず、弟・小次郎を擁立しようとする一派の存在も認識していた。このまま伊達家中が政宗派・小次郎派に分裂することは輝宗の望むところではなく、父・晴宗(政宗の祖父)との対立を経験した輝宗にとっては一家の内紛はなんとしても避けたいところであった。

この、一見すると時期尚早ともいえる輝宗の譲位は、反政宗派の蠢動を早々と防ぎ、円滑な政宗への権力移譲を狙ったものであるといわれている。

■ 曲者小大名・大内定綱

さて、政宗の家督相続を機に、周辺の諸族は政宗の家督相続を祝いに米沢まで参上した。その中の一人として米沢に赴いていたのが、大内定綱である。大内定綱は、小浜城主、塩の松(四本松)地方を治める小大名で、伊達の同盟軍・田村の後押しで主君・石橋氏から独立しながら、さらに田村家からも事実上の独立を勝ち取った油断のならない人物であった。

政宗が大内定綱に「今後は伊達に仕えることができるか」と問うと定綱は忠勤を約束して米沢に屋敷を賜ることを願い出た。政宗はこれを許し、大内もそのまま米沢で年を越した。

ところが年が明けると、妻子を伴って再び米沢へと帰ることを約束した上で小浜へと引き換えしたまま、米沢に帰ることはなかった。政宗は何度も使いを出して督促したが、ついに政宗に従う意思を示すことはなかった。

父・輝宗も独自に大内定綱へ使いを送った。宮川一無斎、原田休雪斎がこの任に当たったが、定綱は彼らの説得を聞き入れるどころか罵詈雑言を浴びせて彼らを返した。

二人から報告をうけた政宗は、大内定綱を討つことを決めた。

■ 政宗の狙い -大内領 塩松の戦略的価値-

大内定綱の領土は、塩の松といい、もともとは四本松と呼ばれていたものが転じたものらしい。政宗にとって大内領・塩の松の価値とはなんであったか。それは
1.仙道筋への足掛かりとなる土地
2.同盟国・田村氏との連絡が可能になる回廊
である。

仙道筋 せんどうすじ とは、今の福島県中通りのことである。現在も阿武隈川、奥州街道(国道4号)および東北自動車道、JR東北本線および東北新幹線が走る、奥州の大動脈である。ここを制すことなく、南奥州の覇権を手にすることはできず、また(このときの政宗がどこまで望んでいたかは定かではないが)、天下に覇を唱えんとするならばその先の関東侵攻、上洛も不可能という場所である。まさに、政宗にとっては天下への足掛かりとなる土地なのだ。



この仙道筋には、塩の松・大内氏、二本松・畠山氏、三春・田村氏、須賀川・二階堂氏、三芦・石川氏、白河・結城氏などの中小勢力がひしめき合い、それぞれ仙道北部の伊達氏、会津の蘆名氏、常陸の佐竹氏といった大勢力をを頼みとしながら、勢力争いを続けていた。

この中で田村氏だけが、愛姫と政宗の婚礼を機に同盟を結んでいる状況である。

また、畠山善継は相馬攻めの際に伊達方として兵を出したこともあったが、その嫡子・国王丸は大内定綱の娘と婚姻し、大内の同盟国であるために大内攻めとなればこれに加勢することは必定である。

こういった状況の中、大内定綱の裏切りは、政宗にちょうどいい仙道侵攻の口実を与えた、といってもいいかもしれない。


しかし、政宗が出陣したのは大内領の塩の松ではなく、会津方面、檜原峠であった。

■ 政宗の仙道攻略戦

1.大内領 塩松攻略戦
1-1.政宗の家督相続と大内定綱
1-2.檜原峠の戦い
1-3.小手森城撫で斬り
1-4.小浜城攻め

2.畠山領 二本松攻略戦
2-1.粟の巣の変(輝宗拉致事件)
2-2.二本松城の戦いと政宗包囲網
2-3.人取橋の戦い
2-4.二本松開城と論功行賞

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