2014年8月20日水曜日

中島宗求

なかじま むねもと 
中島 宗求 
別名
新六郎、新太郎、左衛門、伊勢
※苗字については「中嶋」の表記ゆれも散見
生誕
1522年(天文21年)
死没
1622年(元和8年) 享年歳
死因
不明
君主
懸田義宗 → 伊達輝宗 → 伊達政宗
仙台藩
家格
一族
所領
金山城 2000石
氏族
中島氏
在位
当主:不明
中島宗忠
不明
兄弟
信利、宗求、信真
富塚宗綱の娘
中島宗勝
子孫
中島恒康(幕末期)
墓所
瑞巌寺
中島家はもともと懸田氏の家臣だった。主君の懸田義宗は、伊達稙宗に仕えた武将で、稙宗とその息子・晴宗が争った天文の乱の終息後も、新当主となった晴宗とはしこりが残っていたらしい。

乱の後の1550年代前半、懸田氏は伊達晴宗に対して反乱を起こすが、中島家はそれにしたがわず、伊達家への忠義をつくし、以後伊達家に直接に仕えるようになる。

宗求も、時期ははっきりしないが、伊達郡の保原城を賜り領主となる。

輝宗に従って各地を転戦。たびたび軍功があったという。いつのことかは定かではないが、輝宗時代の宗求のエピソードとして以下のようなものがある。

輝宗が軽装で敵軍の偵察を行っていた際、敵兵からの狙撃をうけた事件があった。その際、側近にあった宗求は身を挺して輝宗をかばい、頬を撃ち抜かれた。現代風にいうところのボディガード、ブレッドキャッチャーである。見事な忠誠心。顔面に銃弾を受けながらもひるまずに敵兵を倒し、輝宗のピンチを救った。

金山2000石城主へ

記録は今のところ見当たらないが、1581年(天正9年)の伊達政宗初陣、翌1582年(天正10年)の相馬攻めにも従軍していたであろう。

1584年には田村・白川・佐竹・岩城諸氏のあっせんにより相馬との和議が成立。忙しい戦ばたらきの合間をぬって、この時期に瑞巌寺の中興開基となって同寺を菩提寺に定めている。

1586年(天正16年)、再び勃発した伊達・相馬戦争における金山城攻めに父の宗忠とともに出陣。その陥落に大きな功労があったことから、保原から移って金山城主となり、金山本郷、大内、伊手の3ヶ村2000石を賜る。

この金山城攻めと2000石の拝領は宗求について語る資料ではかならずセットで記載されているが、おそらくは前述のエピソードしかり、親の代から伊達家に忠実に仕えたことから輝宗・政宗親子からの信頼は厚く、これまでの労にねぎらう意味での2000石拝領であったと思われる。対相馬最前線に配置したのもその信頼のあらわれであろう。

金山城。江戸時代には伊達21要害のひとつになった。
「要害」という名称にかわっても、ほぼ戦国の城塞の様子
を残したままだったと考えてよい。

21要害の中では遺構の保存状態が良く、石垣も残っている
比較的珍しい物件。本丸への登山道も整備されている。
1588年、伊達政宗の命によって金山城の改修を行い、対相馬前線としての機能を強化。このときに完成した姿が、現在の金山城の基礎となっている。

また同じ年、政宗に対して鹿の皮と鉄を献上したという記録がある。『丸森町史』には
「金山の西方約五〇〇㍍、雉子尾川西岸の山麓に位置しており」
「鉱石は柘榴(ざくろ)石や緑簾石などのスカルンを多少交える部分もあるが、ほとんど純粋の磁鉄鉱に近く、鉄分は六〇㌫を超え、硫黄、憐などに乏しい上鉱である」
という蛭田鉱山の記述があり、おそらくこれと関連付けて考えて間違いないだろう。鉄砲の配備をはじめとする配下の近代化にいそしんでいた政宗にとってうれしい献上物であったことだろう。

政宗時代の活躍

1589年(天正17年)、駒ヶ嶺城攻めでは敵兵からの「一人で来れば立ち退く」という申し出に応じて単独で入城。無血開城を実現させる。その功績によって宇多郡にて3ヶ村を加増された。

1591年(天正19年)、葛西・大崎一揆の鎮圧に出陣。

1592年(文禄元年)、政宗の朝鮮出陣の際にこれに従軍。

1595年(文禄4年)、秀次事件に連座して政宗にも疑惑がかかったが、関白・秀吉の怒りと疑惑をとくために湯目景康とともに奔走。ここでも功績をあげている。ちなみにこの際、湯目景康は秀吉に政宗の無実を訴えた地である「津田」の地名を苗字として賜っているが、宗求に対してはそういった配慮はなかったのだろうかは疑問に思われる。宗求は秀吉にとって印象に残らなかった、あるいは直接面会しなかったのかもしれない。
追記:きちんと秀吉に「直訴」していることを確認。やはり湯目景康に比べて印象が薄かったのか…。

晩年

いつからかははっきりとしないが、亘理郡小山村に隠居し、子・宗勝より隠居領として500石の分知をうける。さらにのちに気仙郡の長部村500石を加増され、同村に移住。

子・宗勝の死後、宗求の隠居領であった地は官納、つまりは藩に献上したが、それが再び中島家へと与えられ、中島家は金山2000石領主として幕末まで存続する。ちなみに戦国から明治時代にかけて同じ土地を治め続けた伊達家臣もわりと珍しい部類で(※)、金山の土地・領民と中島家のつながりも相当濃いものであったことが想像できる。
※たいていの伊達家家臣は政宗の小田原参陣後(岩出山転封時)、もしくは江戸時代初期の仙台藩創世期における家臣団再編の際に領地替えを体験している。

兄弟・子孫

中島家5代・宗盈は藩の奉行職に登用され、幕末期13代の恒康は勤皇派指導層のひとりとして活躍。さらに14代信成は四十七銀行創立者となった。なかなか華々しい一族である。

なお、『私本 仙台藩士事典』によると宗求の弟「中島大蔵信真」なる人物について記載がある。天正期のいずれかに政宗の命により間柳式部のあとを1300石で継いで別家をたてる、とある。

しかしその息子、つまり宗求の甥にあたる中島左門は小姓として政宗に奉公したが、「慶長七年故有り切腹を命ぜられ家亡」したとのこと。どういった「故有」ったのかはわからないが、小姓として政宗に仕えていたのは確実なので、もしかしたら政宗や他の小姓との間に色恋にまつわるドロドロの愛憎劇があったのかもしれない…という腐女がよろこびそうな妄想(失敬!)も可能である。

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