2014年8月20日水曜日

伊達・相馬戦争 その1 -天文の乱の傷あと-

■ 戦のはじまりとその舞台

天文の乱の後、息子・晴宗に敗れた伊達稙宗は、隠居領として丸森・金山・小斎・新地・駒ヶ嶺の五ヶ村を譲り受けて丸森城(丸山城とも)に隠居した。

【初期の伊達・相馬戦争 関連地図】
稙宗が隠居領としてあてがわれた丸森・金山・小斎・新地・駒ヶ嶺5ヶ村には
どれもそれに前後して築城が行われ、その主戦場になっている。
この地は相馬領に隣接する地で、かつ相馬勢は天文の乱において終始稙宗を支援した。相馬もさすがに稙宗の存命中は遠慮もあったと思われおとなしかったが、その威光も衰えてくるとこの地への侵略を実効に移した。

まず、1564年(永禄7年)に金山を攻略。

この間、稙宗は相馬の侵略に対して抵抗を試みた形跡はなく、戦いらしい戦いもなく相馬領化が進んでいる。あるいは乱の間も稙宗を支え続けた相馬顕胤に対し、稙宗も信頼、恩義があったのであろう。あえてこれを黙認していたのかもしれない。現に隠居後も相馬は稙宗への世話を続け、稙宗もまた、相馬を訪れていることから、両者の仲はそれなりに良好だったようだ。

あるいは、初めて相馬が伊達領を侵略した1564年というタイミングを考えるならば、これは稙宗の没する一年前である。相馬からすれば、稙宗の威光はすでに衰え、伊達の実権は息子の晴宗にうつっている。もはや年老いた稙宗に抵抗する力はない、加えて大きな貸しのある稙宗ならこれを黙認するであろう、とマキャベリスティックに判断して侵略をしたのかもしれない。

初期の伊達・相馬戦争はこの地を巡り、あるいは主戦場として行われるわけであるが、地図(『仙台市史 古代中世編』の資料を参考に作成)をみてみよう。この一帯が伊達にとって相馬領に対して半島の様に突き出ていることがわかる。

金山城から見た伊具盆地
(クリックで拡大、南から北に臨む眺め。正面が角田、右が太平洋方面)


伊達にとっては対相馬最前線あるいは太平洋沿岸までの領地拡大の足掛かりとして、相馬にとっては伊達の本拠地である伊達郡や奥州街道筋への入口としてそれぞれ戦略上重要なポイントだったことだろう。また、丸森・金山には鉄鉱山があったことも大きかっただろう。

相馬による実効支配

1565年(永禄8年)、伊達稙宗死去。

ことの真偽は定かではないが、稙宗の没後、相馬は「稙宗からこの地の相続を許された」と主張。死人に口なしであるが、大義名分を掲げて実効支配を正当化し、さらなる侵略を本格化した。

まず、家臣の藤橋紀伊井戸川将監にうばった金山の地に城を構築させた。続く1566年には稙宗の勢力下にあった小斎平太兵衛を攻め滅ぼして小斎城を占領。藤原紀伊を城代に任命した。

1570年(元亀元年)、もはや遠慮のかけらもなく、稙宗の隠居どころであった丸森城を攻略。相馬の勢力圏は伊具郡南部の阿武隈東岸全域に及んだ。同時に家臣団を再編し、
丸森城:門間大和
金山城:藤橋紀伊
小斎城:佐藤為信(宮内)
を配して実効支配を完成させた。

■ 天正4年 相馬の役

1576年(天正4年)5月には相馬盛胤による伊具郡再侵攻と、小斎城主・佐藤為信の家老取立てがあった。これにより相馬が小斎を重要拠点として位置付けていることが伝わったのか、同7月には伊達輝宗が小斎を攻めている。この年の戦は、輝宗にとって重大な決意をもって行われたようで、伊達領北方の家臣たちがほぼ総動員されている。以下、そのメンツを確認してみよう。
  • 01番備 亘理重宗
  • 02番備 泉田景時
  • 03番備 田手宗時
  • 04番備 白石宗実
  • 05番備 宮内宗忠、砂金常長
  • 06番備 粟野宗国
  • 07番備 四保宗義、沼辺重俊、福田助五郎
  • 08番備 石母田三郎、大町七郎、江尻彦右衛門
  • 09番備 村田近重、小泉下野、中名輿市郎、舟迫右衛門
  • 10番備 秋保勝盛、中嶋宗意、中村盛時、支倉時正、小野雅樂之允
  • 11番備 桑折宗長、大條宗直、成田紀伊、下郡山朝秀、西大窪九郎三郎、桐ケ窪治部大輔
  • 12番備 中目長政、中嶋宗求、桜田三河、間柳式部大輔、山崎丹後
  • 13番備 飯坂宗康、瀬上景康、大波長成、須田左馬之助、須田太郎右衛門
  • 14番備 原田宗政、富塚宗綱
  • 15番備 遠藤基信、濱田大和
  • 16番備 伊達実元
  • 17番備 御旗本(『性山公治家記録 巻之三』天正4年8月2日の条より)

1579年(天正7年)12月には、伊達と相馬の間で一時的な和解が成立した。

■ 小斎を巡る攻防

1581年(天正9年)4月、硬直していた戦線であるが、ひょんなことから小斎が伊達の手におちる。小斎城主・佐藤為信が相馬を裏切って伊達についたのである。詳しくは「佐藤為信」の項を参照していただきたいが、一言でいうと相馬家中のいざこざが原因であった。これに前後して、伊達勢は冥護山に設陣し、亘理元宗も西山に布陣している。

この間(最後の小斎城は伊達にとって棚からボタ餅的に得た戦果であり)、終始相馬に押されっぱなしであったこの戦であったが、伊達が逆襲を始めるのは政宗の登場以降である。

名称について

おそらく、どの文献を探しても「伊達・相馬戦争」なる項目はみつからない。当ブログが便宜上かってにつけた名前である。これを一連の戦争としてとらえるのであれば、その時期はおおまかに3期にわけられる。すなわち
第1期:相馬の実効支配が進んだ永禄年間
第2期:戦線が膠着した輝宗時代(但し、小斎の奪還はあり)
第3期:政宗によって伊達が失地を挽回する天正年間(1580年代前半)
第4期:田村家の相続をめぐって争われた1580年代後半
この「伊達・相馬戦争 その1」のページでは、第1期、2期について述べたことになる。

第3期に関しては後編で詳しく述べるが、(固有名詞としての扱いかどうかはともかく)「相馬の役」と記述している資料もあり、一般的に伊達と相馬の戦争といえば、伊達政宗が初陣を飾ったことで最も華々しく、また激しかったこの時期を指すのが一般的であろう。

名称について真面目に考えるのであれば、単純に当事者の名をとって「伊達・相馬戦争」、あるいは戦場名をとって南伊具合戦、阿武隈東岸の戦い、小斎合戦(第2期限定)などが考えられるだろうか。

ただし、第3期の戦場は浜街道筋にまで及んでおり、第4期にいたっては蘆名を筆頭とする仙道筋の大名連合との戦争とも関連付けて論じられるべき性格をもつので、やはり別物として扱うのが妥当かもしれない。

なお、4期については「田村継承戦争」なる名前がしっくりくるのではないかとひそかに自負している。相馬の影響力を排除し、田村の世継ぎを定めた政宗の施策を「田村仕置」といい、こちらは歴史用語として定着しているらしい。

その他、期間をとって「25年戦争」などが考えられるだろうか。

■以下、余談ではあるのだが...(司馬遼太郎風)

伊達家の戦国時代を考える場合にややこしいのが、特に政宗の登場以降顕著なのだけれども、どの戦争も連動していることだ。あっちゃこっちゃに神出鬼没の動きをみせる政宗のせいで、多数の戦線が同時進行で動くのだ。このあたりの同時多発的な戦争の進め方は、信長に匹敵するだろう。ましてや信長と違い、政宗には「秀吉による天下統一」というタイムリミットが迫っていたためになおさらそれが激しい。

うん。わかるよ、わかるよ政宗さん。焦っていたんだよねぇ。

しかし、いろんな角度から研究され、様々な文献で語られている信長の戦争と異なるのは、各戦争の名称が定着していないために、ということはつまり、学術的な分類があいまいなために、すべてを同時に語らなければならず、それがわかりにくさの原因になっていることだ。

たとえば奥羽仕置以前の伊達関連で名称の定着している戦いといえば、「天分の乱」「人取橋の戦い」「摺上原の戦い」くらいなものであろう。前者はともかく、後者ふたつは対蘆名戦争という大きな文脈のなかでのひとつの事件にすぎない。ミクロな事件には名前があっても、マクロな流れに歴史的名称が与えられていないのだ。

ここで「対蘆名戦争」ととりあえず呼んでみたマクロな戦いの流れに対して、具体的に何という名称がふさわしいのかは学者さんに議論していただくとして、なんらかの名前を与えておいたほうが大きな歴史の流れがわかりやすくなると思うのだが、同意いただけないだろうか?

よって、当ブログでは勝手ながらいろんな事象に名前をつけていくことをお断りさせていただきたい。今回、そういう宣言もこめて記事のタイトルを「伊達・相馬戦争 その1」とした。学術的なブログではないのであくまで勝手な行為であることは自認しているが、事象に名を与えることによって物事を分類し、わかりやすく物事を記述したいからだ。

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