2014年6月21日土曜日

留守政景 / 伊達政景

るす まさかげ
留守 政景 
別名
雪斎(1587-)、伊達政景(1592-)
官位
従五位下 上総介
生誕
1549年(天文18年)
死没
1607年(慶長12年)2月3日 享年59歳
死因
自然死
君主
伊達晴宗 → (伊達よりの独立領主)
→ 伊達政宗
仙台藩
家格
一門
所領
1567 - 岩切城 宮城郡東部 16万石
1570 - 利府城 宮城郡東部 16万石
1590 - 大谷城 黒川郡
1591 - 磐井郡 黄海 2000貫(2万石)
1593 - 磐井郡 志津
1604 - 一関 1万8366石
氏族
伊達氏 → 留守氏 → 伊達氏
(子の宗利から水沢伊達氏となる)
在位
不明
実父:伊達晴宗
養父:留守顕宗
舅:黒川晴氏
久保姫(岩城重隆の娘)
兄弟
岩城親隆、阿南姫(二階堂盛義の妻)、
伊達輝宗、女子(伊達実元の妻)、女子
(小梁川宗盛の妻)、留守政景、
石川昭光、彦姫(蘆名盛興の妻)、
女子(佐竹義重の妻)、国分盛重、
杉目直宗
竹乙姫(黒川晴氏の娘)
伊達宗利、天童重頼
子孫
伊達宗景(伊達騒動期、ひ孫)
先祖
祖父:伊達稙宗
墓所
大安寺(岩手県 奥州市水沢区)
伊達晴宗の三男で、伊達16代当主・輝宗は兄。政宗からみると叔父にあたる人物。後に伊達姓を与えられて伊達政景と称す。

■ 留守氏

政景の継いだ留守氏は宮城郡の豪族で、米沢や現福島県北部を本拠地としていた伊達氏が現在の宮城県方面に進出するにつれてその勢力下に組み込まれていった家である。

政景もこの留守氏に養子として入るわけだが、系図をみるとそれよりも前から留守家には、伊達から続々と養子が送り込まれていたことがわかる。

14代留守郡宗(くにむね※)、16代留守景宗、そして18代政景がそれ。しかも、伊達家出身の郡宗の代からは留守家で代々「家」でとおしてきた通字がぱったりと消え、露骨に「宗」にかわっている。これは完全に伊達家の傘下である。
※「むらむね」とも
■ 留守家のっとり

そんな中、留守氏17代、顕宗の時代に留守氏で家督相続問題が発生する。

1566年(永禄9年)、この年顕宗は50歳であったが、本人も嫡子・宗綱(孫五郎)も病気がちであったため、これを憂いて再び伊達家から跡継ぎを得ようとする派と、それに反対する一派が対立した。

そんな中で結局、翌年の1567年3月7日、伊達家から晴宗の6男・政景が留守氏の跡継ぎとして岩切城に入った。しかし留守家中は

 親伊達/政景派
花淵伊勢、吉田左近、逸見遠江、逸見孫右衛門ら

 親大崎/留守顕宗の嫡子・孫五郎派
余目伊勢、余目三郎太郎の親子 (東光寺城)
村岡左衛門、兵衛の兄弟 (村岡城、後の利府城)
佐藤太郎左衛門、三郎の親子ら(駒犬城)

に分かれることになる。

政景はまず、永禄12年(1569)末に村岡城攻撃開始。雪により一時戦線が硬直するも翌2月に攻撃再開し村岡氏を滅ぼす。これに伴い、村岡氏の居城・利府城へと居城を移した。

続いて同じく孫五郎派の余目伊勢の領地を没収し、1572年には駒犬城に立てこもった佐藤太郎左衛門、三郎親子を攻撃し、これを逃亡させた。

岩切城・利府城・駒犬城
位置関係図(クリックで拡大)
時期ははっきりとはしないが、おそらくこれに前後して孫五郎は伊達輝宗によって高城氏の養子とされた。留守家中における反伊達勢力はシンボルも奪われ、その実働部隊も壊滅。ここに留守政景のお家のっとりがほぼ完成した。

ちなみにこのときに留守氏の内乱の鎮静化につとめたのが、同じく伊達勢力圏北方の独立領主・黒川晴氏であった。後に政景は晴氏の娘・竹乙姫をめとる。

黒川氏との婚姻は伊達北方の門番をつとめる政景にとっても、都合がよかったのだろう。

ちなみに留守氏は代々、宮城郡東部をその勢力圏としていた。同じく宮城郡西部を治める国分氏とは宿命のライバル関係だったのだが、これも弟の盛重が入嗣することによって対立関係が解消する。兄弟そろって、北方勢力を「伊達化」するために派遣されたのであった。

兄である伊達輝宗が畠山義継に殺された粟ノ巣の変の際には、伊達成実とともに現場に居あわせながら彼を救うことができなかった。1585年(天文13年)には、人取橋の戦いにも参加して奮戦する。

■ 大崎合戦

1588年の大崎合戦では、泉田重光とともに大将に任じられるが、折から留守家臣の八幡家の相続問題で対立していた泉田とは意見が合わず、出撃前から口論に及んだ。

おおざっぱにいうと、一気に中新田城を攻めようと主張した泉田に対し、政景は慎重論を展開。このあたりには、舅にあたる黒川晴氏が大崎・伊達のはざまで苦しい立場に追いやられていた事情もあったと思われる。

案の定、黒川晴氏は大崎方について参戦し、先鋒した泉田は新沼城に籠城を余儀なくされ、大崎・最上の捕虜となってしまう。大崎合戦は伊達勢の敗北に終わった。

なお、伊達に反旗を翻した黒川晴氏に対して、政宗は相当に怒ったらしい。しかし娘婿の留守政景のとりなしによって許され、余生を全うした。

■ 豊臣政権時代

1590年(天正18年)、羽柴秀吉の小田原征伐に加わらなかったことから、奥州仕置において留守氏は所領を没収されてしまう。このあたりが留守氏の位置づけのあいまいなところで、ドメスティックには伊達家の家臣として認識されていたのであろうが、秀吉からは独立した大名として扱われて処分をうけているのである。

政景は利府城から立ち退き、黒川郡大谷城へと居城を移した。

1591年には磐井郡黄海に2000貫を与えられる。93年には磐井郡志津へ転封。

伊達成実、亘理重宗らとともに、文禄の役にも出陣。京における出陣式でも伊達勢のパレードに馬を加えた。1592年には肥前名護屋の陣中にて政宗から「伊達」の苗字を与えられた。

■ 長谷堂城の戦い

東北の地方レベルを脱し、留守政景の名が全国区の戦国史で確認できるのは、東北の関ヶ原・慶長出羽合戦である。上杉家臣・直江兼続の攻撃を受ける最上家は伊達に救援を要請。これをうけて政宗は留守政景を大将に援軍を送った。

Wikipediaより拝借。
留守政景の援軍は仙台方面から笹谷峠を越え、9月24日に直江兼続の後背に位置する沼木に布陣。

山形城の支城・長谷堂城では、これを取り囲む直江兼続に対して志村光安、鮭延秀綱らが少数の兵ながらに奮戦するが、留守政景の援軍到着により戦局は硬直。そのうちに西での三成敗北の報がとどき、上杉は撤退した。

このときの留守政景の動きついては、政宗の意図にそって消極的である。政宗の意図とは、最上への援軍は送るものの、なるべく兵の消耗を避けて確実な勝機があればこれをつかむ、というもの。

事実、政景は最上領へ入って上杉勢を牽制しつづけるものの、直接交戦はしていない。戦火を交えるのは、上杉軍が撤退してからこれを後追いしたときだけである。

■ 晩年

戦後の1604年(慶長9年)、一関2万石を与えられる。

いつのエピソードかはわからないが、慶長合戦における直江兼続との交戦について、家康が政景を江戸に呼び、戦の状況を問うてその功績を直接たたえたという。(『一関市史』)
1607年(慶長12年)に没。家臣4名(辺見藤兵衛清住、久保肥前安親、相沢和泉慶久、近藤文左衛門良成)が殉死した。

■ 参考文献
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 通史編2 古代中世
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 通史編3 近世Ⅰ
・塩竈市史編纂委員会『塩竈市史 本編1
・一関市史編纂委員会『一関市史 第1巻
・水沢市史編纂委員会『水沢市史2 中世
・水沢市史編纂委員会『水沢市史3 近世 上

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