2014年12月2日火曜日

芭蕉の辻 -仙台城下町のへそ-

仙台には「芭蕉の辻」なる交差点がある。現在はただの一般的な交差点で、交通量もそう多いわけではないし、なにがあるわけでもないのだが、昔は仙台城下町の中心部だったのだ。

■ 仙台城下町の"へそ"

そもそも芭蕉の辻とは、奥州街道と、仙台青葉城の大手門通り(大町通り)が交差する地点のこと。東北を縦断する奥州街道と、青葉城の大手通の交差点ということで、江戸城下町の日本橋に相当する、まさに仙台のへそだった場所である。

なお、当時の奥州街道は現在の国道4号(東二番町通り)ではなく、国分町通り、青葉神社通りに相当する。



■ 四隅の建物

辻の四隅の城郭風の建物(仙台市博物館の配布物によれば「重層・入母屋造りの建物」)には龍、兎、唐獅子をかたどった瓦がのっており、「奥州仙台名所尽集 芭蕉の辻」「慶応元年仙台城下図屏風」など数々の絵図、資料に記載されていることから、仙台城下のシンボルであったことがうかがえる。

建物の一階部分は地元の商人に貸し出され、店として利用されていたという。このド一等地に店を構えるのは、仙台の商人にとってすさまじいステータスだったことだろう。

「芭蕉の辻 錦絵」 文化遺産オンライン より
建物は何度か火災で焼失したが、そのたびに仙台藩の費用で立て直された
という。維新のあとも存続したが、明治時代に火事で三棟が焼失。残った西北の棟も、1945年7月の仙台空襲によって失われてしまった。
明治時代中期の様子

再建の計画については聞いたことがないが、もはや仙台駅前や国分町に移ってしまった町の中心からは外れた位置にあり、ここがかつての仙台の中心だった、と言われてもピンとこないかもしれない。

道のワンブロック、100メートル手前まではアーケード街が伸びているのだが、そこから先は急に人通りが少なくなる、というのがなんともさみしい。

下は現在の様子。仙台で一番メジャーな地銀、四十七銀行の芭蕉の辻支店が建つ。北西の角には、記念碑が。













■ 名称について

西側の道の中央に高札が掲げた札場があったことから、正式名称は「札の辻」という。

なぜ「芭蕉の辻」と呼ばれるようになったかについては諸説あり、伊達政宗から辻の四隅の建物を賜った僧の名にちなんだ、という有力説の他、芭蕉の木が植えてあったから、という説もある。

ネーミングに松尾芭蕉との関係はないのは確かだが、彼は「奥の細道」の道程、国分町で数泊し、知人を訪ねたり仙台の名所めぐりをしている。その際におそらくこの芭蕉の辻も通っていると思われ、同じ名前のこの交差点に、何らかの思いをはせたのではないだろうか。

■参考文献
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 通史編3 近世Ⅰ
・現地案内版

仙台・南部藩 藩境 相去番所 / 藩境塚 / 鬼柳番所跡 -現在に残る旧"国境"あと-

岩手は盛岡までいってきた。高速は使わずに、下道(国道4号、奥州街道)をひたすら北上。途中、何度か寄り道をしていたのだけれども、そのうちの一つ、旧伊達・仙台藩と南部藩の藩境が目に見えてわかる面白い場所があったのでご紹介。

なお、以下現地の表記に従って「番所」「御番所」という表現を用いているが、要は関所のことである。

■ 相去御番所跡

跡地には当時を偲ばせるもの
はなく、案内板のみが残る。
相去は「あいさり」と読む。1658年(明暦2年)、2代藩主伊達忠宗のころに設置。関ヶ原の戦があってから60年もたってからの設置は遅いように感じるが、実は仙台・南部藩の藩境が確定したのは1641年(寛永18年)になってからのことだった*1

番所にはこがらみ、ちくも、さすまた、十手といった捕手道具の他、鉄砲十丁、弓十張、槍十本が備え置かれた。なかなかに物騒であるが、これはまだ戦国の熱気冷めやらぬ江戸時代前期のことであり、番所の役目は次第に国境の警備から物資や人の流れの監視に移っていく。

設置の際には102名の足軽が詰めたというが、その後も常時それだけの兵力を抱えてたとは思えない。案内板には
武頭ぶがしら1名(250石、出入司支配扱い、百日交替で仙台より出張)、組頭2名、床頭とこがしら1名、足軽4名が常時勤務した
とあるので、やはり国境の緊張緩和とともに常駐兵力は削減されていったのだろう。設置時の102名の足軽、というのは南部藩に対するデモンストレーションの意味もあったのではないか。その後は「足軽4名」で足りたのだから...。

■ 藩境塚

仙台藩の相去番所と南部藩の鬼首番所のちょうど中間地点に位置している。

実際にはこの一基のみではなく、東西に渡って藩境沿いに数百基が並んでおり、奥羽山脈から太平洋まで130キロ以上にもわたる。これだけヴィジュアル的に一目瞭然な「藩境」は(海や河川を除けば)全国にも類がない。

...よくぞここまでやったもんだと言いたくなるが、東北でも大きな(それもあまり仲のよろしくない)2つの藩が260年にわたって国境を接し続けた結果がこれであろう。

厳密には、基準となる大塚と、その間で補助的におかれた小塚からなっており、明治時代まで補修と増築を繰り返しながら維持された。

■ 鬼柳関所跡

1658年設置の仙台藩・相去番所に先立つこと1631年(寛永8年)の設置。このころはまだ両藩の藩境が確定していない時期なのだが、南部藩はこの地の関所をおくことで実効支配を進めたかったのだろうか。

関所には二人の役人と数名の足軽が常駐しており、藩主・公儀の宿泊所や休憩施設である御仮屋、馬を乗り継ぐ伝馬所などがおかれた。ということは、参勤交代のときに藩主がここで宿泊することもあったのかもしれない。

道をはさんで写真の反対側には、もうひとつ看板が掲げてあったのだが、いかんせんインクがハゲていてほとんど判読不能だった。文字というよりは絵のように見えたので、おそらく昔の街道沿いの様子が絵図にして載っていたのだろう。惜しまれる限りである。

なお、まぎらわしいのだが仙北街道沿いは仙台藩の鬼おにこうべ番所がある。今回紹介したのは南部藩の鬼番所である。

■ 場所について

面白いのは、この3つの旧跡が奥州街道沿いに一直線に並んでいること。もっとも、藩境塚に関しては東西に渡って数百基も並んでいるので、そのうちの一つが二つの番所跡に位置しているにすぎない。

奥州街道とはいえ、旧道なので現在の国道4号とは道筋を異にする。道は現在の岩手県道254号線沿いで、和賀川の南、東北新幹線と並走するあたりである。

実はブログ主、この旧跡の存在は知っていたのだが、正確な場所を調べるのにはかなり苦労した。どのサイトをみても、詳細な場所がのっていないのである! 不幸中の幸いは、写真を掲載しているサイトが多かったことと、このあたりでGoogleストリートビューの利用が可能だったこと。

写真を手掛かりに、新幹線らしき高架線の付近であることを手掛かりにストリートビューをさまようこと約1時間。やっとの思いで場所が特定できた。もっとも、旧奥州街道が岩手県道254号に相当することさえ知っていれば、もっと早く特定できたのだが...。

というわけで、これから訪れる人のために、当ブログではきちんと場所を示した地図を掲載しておこうと思う。ご参考に!



*1: 平成版『仙台市史』通史編3 近世1

2014年11月22日土曜日

政宗の家督相続と大内定綱 -政宗の仙道攻略戦1-1-

「伊達輝宗像」(仙台市博物館所蔵)
若干18歳の政宗への家督継承を決断
■ 政宗、家督相続

天正12年(1584年)10月、伊達輝宗は隠居し、嫡子・政宗に家督を譲ることを決断した。このとき政宗は若干18歳である。

父・輝宗は、対相馬戦において武将としての才覚をみせた政宗に期待する一方、それを快くおもわず、弟・小次郎を擁立しようとする一派の存在も認識していた。このまま伊達家中が政宗派・小次郎派に分裂することは輝宗の望むところではなく、父・晴宗(政宗の祖父)との対立を経験した輝宗にとっては一家の内紛はなんとしても避けたいところであった。

この、一見すると時期尚早ともいえる輝宗の譲位は、反政宗派の蠢動を早々と防ぎ、円滑な政宗への権力移譲を狙ったものであるといわれている。

■ 曲者小大名・大内定綱

さて、政宗の家督相続を機に、周辺の諸族は政宗の家督相続を祝いに米沢まで参上した。その中の一人として米沢に赴いていたのが、大内定綱である。大内定綱は、小浜城主、塩の松(四本松)地方を治める小大名で、伊達の同盟軍・田村の後押しで主君・石橋氏から独立しながら、さらに田村家からも事実上の独立を勝ち取った油断のならない人物であった。

政宗が大内定綱に「今後は伊達に仕えることができるか」と問うと定綱は忠勤を約束して米沢に屋敷を賜ることを願い出た。政宗はこれを許し、大内もそのまま米沢で年を越した。

ところが年が明けると、妻子を伴って再び米沢へと帰ることを約束した上で小浜へと引き換えしたまま、米沢に帰ることはなかった。政宗は何度も使いを出して督促したが、ついに政宗に従う意思を示すことはなかった。

父・輝宗も独自に大内定綱へ使いを送った。宮川一無斎、原田休雪斎がこの任に当たったが、定綱は彼らの説得を聞き入れるどころか罵詈雑言を浴びせて彼らを返した。

二人から報告をうけた政宗は、大内定綱を討つことを決めた。

■ 政宗の狙い -大内領 塩松の戦略的価値-

大内定綱の領土は、塩の松といい、もともとは四本松と呼ばれていたものが転じたものらしい。政宗にとって大内領・塩の松の価値とはなんであったか。それは
1.仙道筋への足掛かりとなる土地
2.同盟国・田村氏との連絡が可能になる回廊
である。

仙道筋 せんどうすじ とは、今の福島県中通りのことである。現在も阿武隈川、奥州街道(国道4号)および東北自動車道、JR東北本線および東北新幹線が走る、奥州の大動脈である。ここを制すことなく、南奥州の覇権を手にすることはできず、また(このときの政宗がどこまで望んでいたかは定かではないが)、天下に覇を唱えんとするならばその先の関東侵攻、上洛も不可能という場所である。まさに、政宗にとっては天下への足掛かりとなる土地なのだ。



この仙道筋には、塩の松・大内氏、二本松・畠山氏、三春・田村氏、須賀川・二階堂氏、三芦・石川氏、白河・結城氏などの中小勢力がひしめき合い、それぞれ仙道北部の伊達氏、会津の蘆名氏、常陸の佐竹氏といった大勢力をを頼みとしながら、勢力争いを続けていた。

この中で田村氏だけが、愛姫と政宗の婚礼を機に同盟を結んでいる状況である。

また、畠山善継は相馬攻めの際に伊達方として兵を出したこともあったが、その嫡子・国王丸は大内定綱の娘と婚姻し、大内の同盟国であるために大内攻めとなればこれに加勢することは必定である。

こういった状況の中、大内定綱の裏切りは、政宗にちょうどいい仙道侵攻の口実を与えた、といってもいいかもしれない。


しかし、政宗が出陣したのは大内領の塩の松ではなく、会津方面、檜原峠であった。

■ 政宗の仙道攻略戦

1.大内領 塩松攻略戦
1-1.政宗の家督相続と大内定綱
1-2.檜原峠の戦い
1-3.小手森城撫で斬り
1-4.小浜城攻め

2.畠山領 二本松攻略戦
2-1.粟の巣の変(輝宗拉致事件)
2-2.二本松城の戦いと政宗包囲網
2-3.人取橋の戦い
2-4.二本松開城と論功行賞

2014年11月20日木曜日

白石宗実

しろいし むねざね
白石 宗実 
別名
老後丸、若狭守
生誕
1545年(天文14年)1月10日 ※本文参照
死没
1599年(慶長4年)10月27日 享年55歳
死因
自然死
君主
伊達輝宗 → 伊達政宗
仙台藩
家格
一門 第五席
(※正確には息子の宗直の代から)
所領
白石城
1586- 宮森城 安達郡塩松33邑
1591- 水沢城 15000石
氏族
白石氏
(※登米伊達家は子の宗直から数える)
在位
不明
白石宗利
不明
兄弟
不明
桑折宗長の娘
娘:心月院
養子:白石宗直(梁川宗清の息子)
子孫

先祖
刈田経元(白石氏家祖。藤原経清の子、
奥州藤原氏・藤原清衡の同母兄弟)
墓所
龍雲寺(京都伏見)
養雲寺(登米市)にも供養塔あり
宗実は「むねざね」と読む。「むねみ」ちゃんではない。

片倉小十郎、伊達成実とともに「伊達三傑」の一人に数えられることもあるが、宗実の代わりに茂庭綱元を当てるものもある。一応、『登米町誌』『白石城物語』など白石氏ゆかりの資料には三傑に宗実がカウントされている。

これは想像だが、宗実は1599年に没しており、活躍は政宗の小田原参陣前の南奥州統一戦において目立つ。かわってもう一人の茂庭綱元は、それ以降、政宗政権の官房長官格としての活躍が目立つことから、宗実の死後に入れ替わるように呼称されたのではないだろうか。あるいは、完全に後世にできた呼称かもしれないが。
※ なお、亘理元宗を伊達三傑に数えるものもあり、市町村史をはじめとする郷土史本では、意見のわかれるところ顕著である。
■ 生い立ち

刈田郡白石城主 白石宗利の嫡男として生まれる。登米伊達家の急進らで結成した温故会の編纂した『登米伊達家』によると、宗実は若くして兵学にたけ、諸国遍歴の旅に出た。その造詣は東海・近畿までも聞こえ、京都の信長屋敷に兵学の講義を求められた。帰路の三河でも家康の歓待を受けたという記録が残るという。1575年(天正3年)に白石に帰国。30歳。

父・宗利は『登米藩史稿』『白石氏系図書』によると1553年に死去しているが、『性山公治下記録』には元亀元年1570年の項に中野宗時・牧野久仲親子の謀反の際、彼らが相馬領へと逃げるのを防げなかった白石大和守宗利、宮内中務宗忠、田手式部宗光、小梁川盛宗に対し激怒、という記載があり、少なくともこの年まで生きていたことになる。
現在は片倉小十郎の城として
有名な白石城。元は宗実の城である。

これは宗実の帰国の5年前であることから、その死去もそれ(元亀元年)からさらに存命だったとすれば、嫡男の宗実が30歳まで諸国遍歴をできたこともうなずける。あるいは3歳年上の宗実の従兄(父・宗利の弟・綱辰の長男綱与)が宗実の後見をしていたとされ、宗実の留守中は彼が白石を代行して統治していたのかもしれない。

■ 対相馬戦

諸国遍歴から帰国して早々の翌1576年、伊達輝宗が対相馬の戦において一大兵力を招集する。その4番備えに白石宗実の名前が見えるのだが、この陣触れにおいて単独で「備」を構成しているのは、全11個の備のうち、1番備・亘理重宗、2番備・泉田景時、3番備・田手宗時、6番備・粟野重国の他にはおらず、この時点ですでにかなりの兵力を動員・指揮できる立場にあったことがうかがえる。
※備:そなえ。戦において陣形を組むための単位。ひとつの備えについては300-800名で構成されるといわれており、1万石級の所領があれば単独で「備」を動員できるといわれている。
1581年(天正9年)11月、相馬義胤が伊具郡に侵入。輝宗は臣下たちにその対策を諮問したが、宗実は「現在雪深く、兵を動かすには時期が悪い。春の雪解けを待って出動するのが得策」と建言し、これが採択された。

翌82年(天正10年)4月1日には政宗が梁川八幡宮に参詣したのちに梁川城に入城。士卒はこれを歓迎したが、宗実の行列は他にぬきんでて盛んだったという。同じ月に小斎城主・佐藤為信が伊達家に帰属すると輝宗は新地・駒ヶ嶺へ攻め入ったが、大雨にあい後退した。相馬義胤はここぞとばかりにこれに追い打ちをかけたが、白石宗実は手勢500をもって殿をつとめ、武将級10、雑兵100余りを打ち取り、本体には何の損害も与えない、という大殊勲を立てた。

1584年天正12年、輝宗は隠居し、政宗が家督を相続。このとき政宗はわずか18歳であったため、家臣のなかにはこれの実力を疑う声もあった。宗実はこれを心配し、娘を男装させ、政宗に奉公させることにした。諸将もこれにならって子弟を政宗に仕えさせることになったが、これは政宗が諸将の人質を得たことを意味し、政宗の軍令を軽んずる風潮は改まった。宗実は娘が11歳になったときにこの密謀が露見するのを防ぐために暇を願い出た。

宗実の娘出仕の後に諸将がこれに倣った、ということは、この時すでにそれなりに伊達家中における名声を得ていたのだろう。1545年誕生説に従うなら、この時すでに40歳。心身ともに働き盛りである。

■ 大内攻略戦

1585年(天正13年)大内定綱が蘆名家への傾倒を強めると、政宗はこれを討つことを決めた。はじめ会津の檜原峠を進軍し、あたかも会津・蘆名を直接打つように見せかけたが、狙いはあくまで小浜の大内定綱である。

8月、伊達成実が大内家の刈松田城主・青木修理の籠絡に成功すると、大内討伐軍の先鋒として白石宗實、片倉景綱、小梁川泥播斎、浜田伊豆、原田宗時らが刈松田に近い飯野に布陣した。8月24日、諸将は小手森城の攻略を開始。先鋒・川俣兵衛、右翼・小梁川泥播斎、白石宗実は右翼隊長として布陣。この包囲戦の最中、宗実は大内の一族、大内長門の士・松本与市以下50を打ち取り、その功績として政宗から駿馬1頭を授けられている。27日、小手森城落城。有名な撫で斬りがあったのはこのときであった。

 ※更新続く

2014年10月12日日曜日

雑感 -Google Mapのありがたさ-

■Google先生の弱点

史跡めぐりをしていて避けて通れないのが、その場所の特定である。当たり前だが、場所がわからなければ訪れることはできない。

さすがに「大阪城」だとか「松下村塾」といったレベルの史跡ならば、Google先生に訪ねれば一発で解決なのだけれども、なかには場所がわかりにくいものもある。

たとえば仙台には「芭蕉の辻」という歴史的に有名な交差点がある。旧奥州街道と仙台城の大手通が交わる、仙台の「ヘソ」だ。これも残念ながら、「芭蕉の辻」と検索してもピンポイントでは指し示してくれない。

史跡としての「芭蕉の辻」跡は検索されない。
ヒットするのは「芭蕉の辻 支店」。これがGoogleの限界か。

これはまだ交差点だけあって場所の特定が楽なほうなのだが、中には城跡など、場所の特定が極めて難しいものもある。それこそ図書館で市町村史をみて「~旧○○街道の××里西方に」だの「本丸には○○神社が残っており」だのといった文言を参考に、現地で人に訪ねまわって、ようやく場所がわかるものもあるのだ。

「最寄りのTSUTAYA」とか「整形外科」といったような生活に必要な情報なら抜群の威力を誇るのだが、史跡という観点からみれば、まだGoogle先生は万能の存在とは言い難い。

…と、タイトルが「Google Mapのありがたさ」なのに、なんだか天下のGoogle先生をディスる内容になってしまった。このままではタイトル詐欺である。

■ 苦労してこそ旅の思い出

ただし。

個人的には「場所の特定」も含めての史跡めぐりだとおもっているので、それはそれで楽しいから問題ないと考えている。

上記のように図書館で調べものをしたり、土地の人に訪ねながら目的地を探すのは、楽しいし、むしろそこにこそ、旅の本質がある。目的地まで一直線の旅なんて、面白くない。

何より、そういった苦労話も含めて自分の体験を元に特定した場所を具体的に指し示すところに、こういった史跡巡り系ブログの価値が生まれるのである。そして、その表現方法としてのGoogle Mapに、ブログ主はありがたさを感じている、というのが今回述べたいことなのだ。

■紙の限界と、デジタルマップの有用性

とある史跡ガイドの定番本より、花巻周辺。
こんなおおざっぱでわかるかっ!!
史跡の場所について具体的に地図を載せている旅行ガイド本は多い。

しかし、問題はその縮尺である。一枚の地図に多くのスポットを載せようとするあまり、おおまかな位置はわかっても、実際に現地で近づいてみると場所がまったくわからないものも多いのだ。

「とにかくがんばれ」だの「熱意があれば伝わる」といった精神論だけを説き、具体的な指示をくれないポエム系上司の説教にどこか似ている。「なんとなくその辺に行けば見つかるよ」と。

それがどこやっちゅうねん。

とはいえ、一件ずつ詳細な地図を載せるのも、紙幅の関係上難しいのであろう。地図はあんがい、スペースを食う。

やはり同じ理由で、説明と地図のページがかけはなれていて、いちいちページを往復できない構成のものもあり、それもまた不便に感じる。

その点、Google Mapはありがたい。

たとえば、(手前味噌で申し訳ないのだが)当ブログ主が編集した下の地図を見ていただきたい。これは、江戸時代の仙台藩における城/要害/所/在所/番所/関所をまとめた地図である(ただいま絶賛更新中)。



このデジタルマップならば、拡大して詳細な位置を確認するのも、縮小しておおざっぱな位置関係を捕らえるのも、思いのままなのである。

こういった城郭関連だととくにそうなのだが、城の位置関係を大局的な地図でながめて、
「あぁ、仙台藩の要害は北方の対南部、旧葛西・大崎領、南方の対相馬・仙道口に集中しているんだなぁ」
とか
「旧気仙郡には要害も在所もないけど、統治はどうしてたんだろう」
とかいったヒントを得られることもあるし、城の位置をもっと狭いスケールで確認して、実際に訪れるときの助けにしたり、周りの地形と照らし合わせながら、
「絶妙な場所に本丸があったんだなぁ」
とか
「この位置なら、この街道を抑えるのがこの城の役割だったんだろうなぁ」
といったヒントを得ることができるのだ。

拡大縮小も、同じ一枚の地図でできる。

その上、(機能は上記のように完璧でないにせよ)検索もできる。

地図に載っていない情報でも、自分で編集して加えることができる。

さらに、それをブログに埋め込める

あと地味に便利なのは、「この史跡から次の史跡まで車で何分」というルート表示・検索もできること。一枚の地図が、歴史的考察の助けにも、カーナビ替わりにもなるのだ。

このブログは特に埋め込みではない画像地図を作成する際にも、Google Mapの地形図をべースに編集させてもらうことが多い。

まさに、当ブログはGoogle Mapにはおんぶにだっこ状態なのである。

2014年10月5日日曜日

黒川晴氏 -伊達と大崎のはざまで-

くろかわ はるうじ
黒川 晴氏 
別名
月舟斎
生誕
1523年(大永3年)
死没
1599年(慶長4年)8月25日 享年77歳
死因
病死
君主
(大崎寄りの)独立領主 ⇒ 伊達政宗


家格
一家(伊達家の元で)
所領
黒川郡一帯
居城:鶴館城(下草城)
氏族
黒川氏
在位
当主:1568-
黒川稙国
不明
兄弟
稙家、晴氏
大崎吉兼の娘
実子:竹乙姫(留守政宗の妻)
養子:黒川義康(大崎義直の子)
子孫
黒川季氏(孫、この代で黒川家は無嗣断絶)
先祖
黒川景氏(祖父)
墓所
不明
■黒川一族

黒川氏は、宮城県北部・黒川郡を所領とした一族。あくまで独立した勢力ではあったが、大崎・葛西、および少しずつ北進してくる伊達氏に挟まれた地政学的にかなり不安定な土地柄であったため、大崎や伊達氏の家臣の様に書かれることもあり、事実上そうなっていた時期もないとは言い切るのが難しい、なんともグレーゾーンな領主である。

晴氏の祖父・黒川景氏は伊達一門・飯坂清宗の息子であった注釈A。その縁から、この時代の黒川氏は大崎氏よりも伊達への親睦度が深かったようだ。

この代に伊達天文の乱がおこるが、景氏は稙宗党についた。

乱は晴宗党の勝利でおわるが、晴宗にとって敵方だったといえども、北方の伊達勢力の一角としての景氏の価値は無視できず、「大崎鎮撫のことはすべて景氏に任せる」といった意のことの述べている。当時は大崎に対する備えとして、伊達にとっては留守氏と並ぶ北方の同盟勢力であったことがうかがえる出典01

しかし、伊達の威光を背景に入嗣した景氏も、周囲を大崎系の諸族に囲まれた根なし草の状況を打破すべく、娘たちを大崎一族の百々氏、高城氏などに嫁がせ、また高城氏や一迫氏からの娘をめとった。

景氏の息子(晴氏の父)・稙国、その息子(晴氏の兄)・稙家を経て、稙家が1568年に死去すると晴氏が家をついだ。

■伊達・大崎 二方面外交

祖父・景氏はおそらく伊達方の武将としての自意識があったはずであるが、孫の代にまでなってくると、周囲には大崎系の血が濃くなっている。上記のような状況下で育った晴氏は、おそらく大崎に対する親しみのほうが強かったのかもしれない。

ただし、晴氏も大崎一辺倒の外交をしていたわけではなく、小領主としての宿命から、一方では伊達との誼を深めることも怠っていない。

奥州の情勢図。現在の仙台市周辺には国分・留守・粟野・秋保・亘理といった中小勢力がひしめいていたが、戦国時代が終わりに近づくにつれ、最終的にことごとく伊達傘下となった。黒川氏も、伊達・大崎のはざまで決断を迫られるようになる。

1574(天正2年)年には、伊達輝宗の日記に晴氏から年始として扇子・茶碗が送られてきたことがみえ、政宗の家督相続の際は祝いの品を送っている。

伊達政景が留守氏に入嗣した際、余目氏、村岡氏、佐藤氏などが反乱をおこすと、晴氏は進んで調停役に尽力。やがて娘・竹乙姫(鳳仙院)を留守政景に嫁がせる仲にまで発展し、近隣の勢力である留守氏との結びつきを深めている。

また、晴氏には男子がなく、大崎家当主の義直の息子、義康を養子とした。その義康には伊達一門の亘理元宗の娘をめとらせている。このことからも、伊達・大崎との2方面外交を行い、勢力の安定に努めていたことがうかがえる。


黒川晴氏を中心とした系図。やたらとややこしくなってしまったが、要はこの人の婚姻政策はやたらとややこしいのである。周辺勢力との結びつきにより家を守ろうとする小領主の苦労(およびこの系図を作成した筆者の苦労)が垣間見える系図であろう。

■大崎合戦の勃発

そんな折の1588年、大崎家の内乱に伊達政宗が介入し、大崎合戦がはじまる。大崎・伊達と両方に誼をつうじていた晴氏も、どちらかにつかなければならないときがやってきた。

伊達勢は浜田景隆を陣代に、大将に泉田重光留守政景の2頭体制。

留守政景は前述のとおり黒川晴氏の義理の息子にあたる人物。そのことに加え、伊達勢の中でも最北端に所領をもつ武将であることもあり、大崎情勢には詳しかったのだろう。必然的に政景は慎重な攻略策を提案するが、もう一人の大将・泉田重光は強硬論を唱える。

この対大崎戦における伊達勢の目標は、大崎家中における伊達派であり、政宗に援軍を求めた岩手沢城の氏家吉継との連絡をつけることが第一である。伊達勢は出撃拠点の松山城から、鳴瀬川沿いに進軍し、いっきに大崎の本拠地・中新田城をぬいて岩手沢を目指すことが合理的であり、これこそが強硬派・泉田の主張した策でもあった。

しかし、問題はその進路上にある桑折城に、あろうことか晴氏が入ってしまったことである。当初、晴氏がどちら側につくのかはっきりとわからなかったこともあり、伊達勢は泉田案のとおり、直接中新田城を攻撃することになった。





伊達郡は2月2日に行動開始。

注釈A:『大和町史』p388。『報恩寺系図』によると、黒川景氏は飯坂清宗の子であるという。しかしながら、飯坂側の資料である『飯坂盛衰記』付属の系図には「飯坂清宗」なる人物名は記載されておらず、誰に比定すればよいのかは今後の研究が必要であろう。どちらにせよ、黒川景氏が飯坂氏の出身であることは間違いない。「飯坂清」はまた時代の違った人物なので注意が必要。
出典01:『大和町史』

2014年8月31日日曜日

仙台藩の城・要害・所・在所 -伊達四十八舘-

仙台藩について学んでいると不思議なのが、やたら城がたくさんあることだ。

いや、領内に城があること自体は構わないのだけれども、一国一城令が布かれた後の江戸時代にしては多すぎる。青葉城以外にも城がたくさんあるのだ。さらに、「要害」やら「在所」やら、一言で「城」といってもいろいろな種類がある様子。

白石城。片倉小十郎の城として、
歴女の訪問客が増えているらしい。
と、いうわけでまとめてみました。仙台藩のお城。

■ 伊達四十八舘

仙台藩においては、幕府の一国一城令のもと、正式に認められた「」、実質的に城および城下町としての機能をもった21の「要害」、各地の支配拠点となった「」「在所」のランクが存在した。これらにそれぞれ領主として、仙台藩の家臣団が配置されるのである。

各拠点の数をあわせて伊達四十八舘と呼ぶが、なにをもって48としたのかはよくわからない。

「伊達」な文化を好んだ政宗は「秋葉原ふぉおてぃゑいと」なる芸者集団の熱烈なヲタだったということが最近の研究で判明しており、それにあやかったという説があったりなかったりする。

…というのは置いといて、48というのは今も昔も語呂合わせとしてよかったのだろう。伊達ともかかわりの深い三春の田村氏にも「田村四十八館」、最上氏にも「最上四十八館(盾とも)」なる呼称がある。仙台藩の場合、城・要害・所・在所を合わせて、最終的な数は約80近くにも及んでいる。

仙台藩士には2種類の収入源があり、ひとつが給料としてコメや現金を支給される蔵米取り制、もうひとつが領地を与えられ、そこを家臣や農民に開発させたうえで年貢を徴収する地方知行制である。つまり仙台藩士は、それぞれが伊達家の家臣であると同時に、領主でもあったのだ。

有力な家臣たちは2つのグループに分けられ、交代で領地と仙台城下の屋敷に駐在した。これは一種の藩内参勤交代で、仙台に出仕することを参府、あるいは上府といい、仙台に滞在することを定仙と呼んだ。江戸に地方知行制とあわせて、仙台藩がミニ幕府と呼ばれるゆえんとなっている。

なお、拝領した城塞のランクと家格には関係がなく、白石「城」を拝領した片倉氏が「一家」の末席であったり、「一門」である白河氏が真坂「所」の拝領であったりの例がある。ただし、1万石以上の要害はすべて「一門」に与えられている。

以下、城・要害・所・在所の一覧を表にして情報をまとめてみた。

※それぞれの位置を落とし込んだGoogle Map あり(記事最下部)

※以下、表形式のため画面サイズによってはモバイル版では見ずらいことが予想されます。
こちらのWEB版表示を推奨しております。

■ 城 しろ

一国一城令のもと、幕府から正式に所有を認められた城。

基本的には本城である青葉城(仙台城)のみであるが、例外的に幕府から白石城の存続を認められている。

東北地方では、その石高の低さと比べて広大な領土を統治した大名が多く、「一国一城」の原則は現実的ではないため、本城以外の城を認められた例は仙台藩以外にもある。例えば会津藩の猪苗代城や、南部藩の花巻城などが該当する。

支藩・一関藩の一関城、伊達政宗の隠居所としての性格をもつ若林城も便宜的にここに含めた。1660年に支藩となった一関はこの「城」に分類したが、正確には「陣屋」となる。

※3万石以下の大名の居城は「城」ではなく「陣屋」と呼ぶ

名前
異称
旧郡
土地利用状況
城主・領主
現住所
仙台城
青葉城、千代城
宮城郡

青葉城址
:脇櫓が再建
:国の史跡に指定。
仙台市博物館
・青葉山公園
・護国神社
・東北大学 川内キャンバス
■ 国分家 ????~天正年間
:詳細不明。天正年間(1573~1592)以降、廃城
■ 伊達宗家 1600~幕末
:伊達政宗、忠宗、綱宗、綱村、吉村、宗村、重村、斉村、周村、斉宗、斉義、斉邦、斉邦、慶邦、宗基
■ 大日本帝国軍 1871~1945
:明治維新後、東北鎮台(1871~1873)、仙台鎮台(1873~1888)を経て第2師団に改組。師団長は中将クラス。
宮城県 仙台市 青葉区 川内

若林城
小泉古城
宮城郡

若林城址
:臥竜梅が有名
・宮城刑務所
■ 伊達宗家 1627~1636
:伊達政宗の隠居所として建築。没後、遺言に従い廃城。遺構の一部は仙台城へ移築。

※近代に入り、城郭址をそのまま刑務所に転用
宮城県 仙台市 若林区 古城
一関城
釣山城、一関陣屋
磐井郡

・釣山公園
■ 小野寺家(葛西領)????~1590
:小野寺道照
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明。
■ 茂庭家 1591~1603
:茂庭綱元(一関には居住の形跡なし? 本城・赤萩)
■ 水沢伊達家(留守家) ????~1616
留守政景、伊達宗利
■ 仙台藩直轄領 1616~1641
:蔵入地
■ 伊達家 1641~1671
:伊達宗勝(1660~支藩・一関藩)
■ 田村家 1682~幕末 支藩・一関藩
:田村武顕、誠顕、村顕、村隆、村資、宗顕、邦顕、邦行、通顕、邦栄、崇顕
岩手県 一関市 釣山
白石城
益岡城、升岡城
刈田郡

白石城址
:木造で再建
・益岡公園
・白石高校
■ 白石家 ????~1586
:...白石宗清、宗綱、宗利、宗実
■ 屋代家 1586~????
:屋代景頼(城代)
■ 蒲生家(蒲生領)1591~1598
:蒲生郷成
■ 甘粕家(上杉領) 1598~1600
:甘粕景継
■ 石川家 1600
:石川昭光(城代)
■ 片倉家 1602~幕末
:片倉景綱、重長、景長、村長、村休、村信、村定、村兼、村典、景貞、宗景、邦憲
宮城県 白石市 益岡

要害 ようがい

一国一城令後も残った実質的には城と変わらない規模の要塞だが、中世城郭をもとにしているため城の縄張りは青葉城らと比べて古いものが多い。比較的大きな城下町を形成し、藩統治の拠点となった。伊達21要害と呼ぶことも。

なかでも水沢、岩出山、登米、涌谷、角田、亘理の6つはそれぞれの領地が大名級の1万石をこえたことから、「水沢藩」「岩出山藩」のような呼び方をすることがあるが、一関藩、岩沼藩、中津山藩と違って正式な支藩ではない。

岩沼要害は一時期支藩・岩沼藩の藩庁であったため、この時期に限っては岩沼城と呼んでも間違いではないが、より正確には一関と同様に「陣屋」の扱い。

分布をみると、北方の対南部、旧大崎領、南方の対相馬・仙道筋に集中していることがわかる。

名前
異称・館名
旧郡
土地利用状況
城主・領主
現住所
上口内
浮牛城
江刺郡

・独立丘陵
・麓に住宅数軒

※読
「かみくちない」
■江刺家・口内家(葛西領) 天正年間~1590
:江刺重恒、口内帯刀、口内隆朝(口内氏は江刺支族)
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明。
■ 瀬上家 1591~1594
:瀬上景康
■ 小梁川家 1595?~1631
:小梁川宗重、宗影(入封時期異説あり)
■ 藤田家 ????~????
:藤田宗和、右兵衛
■ 田手家 ????~????
:田手高実、宗房
■ 古内家 1659~1698
:古内義如、義憲、義長
■ 上口内中島家 1694~幕末
:中島利成、宴成、紹成、以成、寛意、意住、意実、意元、某、意時、意徳
岩手県 北上市 口内町 松阪
人首
臥牛城
江刺郡

・丘陵地帯
・麓に住宅数軒

※読「ひとかべ」
■ 江刺家・人首家(葛西領) ????~1590
:人首如清(江刺支族)
■ 木村領 安蘇家? 1590-1591
:安蘇修理(木村吉清の代官? 天正期の人物として名が残る)
■ 沼辺家 1616~幕末
:沼辺重仲、重次、重長、武雅、武能、武伸、武族、武雅、武徳、武房
岩手県 奥州市 江刺区 米里人首町

岩谷堂
江刺城
江刺郡

岩谷堂城址
・館山史跡公園
・二清院
・館山八幡神社
・岩谷堂高校
・岩谷堂小学校
■ 江刺家(葛西領) ????~1590
:...江刺重恒
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明。葛西・大崎一揆鎮圧後、大谷吉継により改修をうける
■ 増田家 ????~????
:増田宗繁
■ 藤田家 ????~????
:藤田宗和
■ 蘆名家 1641
:蘆名重信(城代拝命と同時に没。実現せず)
■ 古内家 1643~1659
:古内義実、義如
■ 岩谷堂伊達家 1659~幕末
:伊達宗規、村隆、村望、村富、村将、宗隆、宗崇、義隆、邦規
岩手県 奥州市 江刺区 館山
金ヶ崎
川崎館、白糸館、胡桃館
胆沢郡

・諏訪公園
※城下町の旧家郡は重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)に指定
■ 柏山家(葛西領) ????~永禄年間
:領主詳細不明
■ 小野寺家(葛西領 → 和賀領?) 永禄年間~1590
:領主詳細不明。和賀氏の配下となったことも?
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明。
■ 白石領(伊達配下) ????~????
白石宗実? 詳細不明
■ 桑折家 1602~1616
:桑折景頼(=石母田景頼)、貞長
■ 水沢伊達家
:伊達宗利
■ 金ヶ崎大町家 1639~幕末
:大町定頼、永頼、頼直、章頼、朗頼、成頼、景頼、盛頼、殖頼
岩手県 金ヶ崎町 西根
水沢
大休城、臥牛城
胆沢郡

・奥州市役所
・奥州地区合同庁舎

※市街地の開発にのまれ、ほぼ遺構なし
■ 佐々木家(葛西領) 1408~1590
:領主詳細不明
■ 松田家(木村領) 1590-1591
:松田源太郎左衛門、葛西・大崎一揆の鎮圧後、大谷吉継により改修をうける
■ 白石家 1591~????
白石宗実
■ 柴田家 1607~1616
:柴田宗朝、
■ 石母田家 1616~1628
:石母田宗頼
■ 水沢伊達家 1630~幕末
伊達宗利、宗直、宗景、村任、村景、村利、村儀、村善、村福、宗衡、邦命、邦寧
岩手県 奥州市 水沢区 大手町
高清水
-
栗原郡

・高清水中学校
・住宅地
■ 高泉家(大崎領) 天文年間(1532-1555)~1590
:高泉直堅、隆景
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明。
■ 亘理家 1604~1757
:亘理重宗、宗根、宗喬、元篤、定根、倫篤
■ 石母田家 1757~幕末
:石母田頼寛、頼恭、義頼、賢頼、賢恭
宮城県 栗原市 高清水 東館
宮沢
鵜ヶ城
栗原郡

・鹿嶋神社
・光岳寺
・長久寺
・住宅数軒
■ 大崎領 ????~1590
:城主詳細不明。葛岡太郎左衛門、宮沢遠江、岩崎義久らの名が伝わる。
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明。
■ 上郡山家 1591~1747
:上郡山常為、高為、重常、景常、守為、為常、為道、為倫、為己
■ 長沼家 1747~幕末
:長沼致真、致辰、致寛、致中、致季
宮城県 大崎市 古川宮沢
佐沼
鹿ヶ城
栗原郡

佐沼城址
・鹿ヶ城公園
登米市歴史博物館
旧亘理邸
■ 葛西領 → 大崎領 ????~1590
:詳細不明。両氏の境目に位置し、たびたび争奪の舞台となる。
木村領 本城 1590~1591
:木村吉清、清久
■ 津田家 1591~1610
:津田景康
■ 黒木家 1610~1616
:黒木宗元
■ 津田家 1616~1757
:津田景康(豊前)、頼康、景康(玄蕃)、春康、武康、広康、定康
■ 亘理家 1758~幕末
:亘理倫篤、常篤、清胤、基胤、隆胤
宮城県 登米市 迫町 佐沼内町
登米
寺池城
登米郡

寺池城址
登米回顧館
・清瀧神社
・仙台家庭裁判所 登米支部

※一般的に「とめ」と読むが町名に限り「とよま」と読む。
■ 葛西領 本城 戦国時代末期~1590
:...葛西晴信(※葛西の本城となった時期は諸説あり)
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明
■ 登米伊達家(白石家) 1604~幕末
:白石/伊達宗直、宗貞、五郎吉、宗倫、村直、村永、村倫、村勝、村良、村幸、宗充、邦寧、邦教
宮城県 登米市 登米町 寺池
岩出山
岩手沢城
玉造郡

岩出山城址
・城山公園
・岩出山高校
・竹駒神社
■ 氏家家(大崎領) ????~1590
:...氏家隆継、吉継
■ 小成田家 1590
:小成田重長(=山岡重長、城代)
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明。葛西・大崎一揆鎮圧のため出兵中の徳川配下、榊原康政による改修を受ける
■ 伊達宗家 本城 1591~1601
:伊達政宗(実際は在京期間が長く、采配は屋代景頼が代行)
■ 岩出山伊達家 1603~幕末
:伊達宗泰、宗敏、敏親、村泰、村縜、村通、村則、宗秩、義監、邦直
宮城県 大崎市 岩出山城山
涌谷
-
遠田郡
涌谷城址
・城山公園
涌谷町資料館
・涌谷神社
■ 涌谷家(大崎領) 1431頃~1590
:...涌谷直繁、隆連
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明。
■ 涌谷伊達家(亘理家) 1591~幕末
:亘理重宗(後に伊達に改姓)、定宗、宗重、宗元、村元、村定、村盛、村胤、村倫、村常、村清、義基、邦隆、胤元
宮城県 涌谷町 涌谷下町
不動堂
鶴頭城、西舘
遠田郡

・鶴頭公園
・文殊堂
■ 大崎領 ????~1590
:有壁摂津、室田小斎の名が残る。
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明。
■ 後藤家 1620~幕末
:後藤近元、近康、節康、元康、寿康、良康、幸康、充康
宮城県 美郷町 西舘
岩沼
鵜ヶ崎城、阿武隈館
名取郡
・JR岩沼駅構内
・岩沼市西保育所

※市街地の開発にのまれ、ほぼ遺構なし
■ 泉田家 ????~1591
:...泉田景時、重光
■ 小梁川家 1591~1595
:小梁川盛宗
■ 石田家 ????~????
:石田宗朝
■ 遠藤家 ????~????
:遠藤兵部介
■ 屋代家 ????~????
:屋代景頼
■ 藤沢奥山家 1602~1629
:奥山兼清、某、兼義
■ 伊達家 ????~????
:伊達宗勝
■ 岩沼古内家 1636~1663
:古内重広、重安、重定
■ 田村家 ????~???? 支藩・岩沼藩
:田村宗良
■ 岩沼古内家 1687~幕末
:古内広慶、広寿、広充、広富、広保、広賢、広直
宮城県 岩沼市 栄町
船岡
芝田城、柴田城、四保館
柴田郡

船岡城址公園
:桜の名所(一目千本桜)として有名
・船岡平和観世音
しばたの郷土館
・『桜の木は残った』碑
■ 柴田家(四保家) ????~1593
:...四保定朝、柴田宗義、宗朝
■ 屋代家 ????~????
:屋代景頼
■ 原田家 1615~1671
:原田宗資、宗輔
■ 柴田家 1681~幕末
:柴田宗意、宗僚、宗理、朝隆、成義、意定、親友、意利、意広
宮城県 柴田町 船岡館山
川崎
臥牛城
柴田郡

・川崎小学校
・農地
■ 砂金家 1610~1702
:砂金実常、常房、隆常、昌常、勝常、重常
■ 宮床伊達家(伊達崎家・田手家) 1702~1722
:伊達村興
■ 川崎伊達家 1722~幕末
:伊達村詮、村敏、村煕、村賢、宗和、邦和、邦賢
宮城県 川崎町 前川館山
平沢
寝牛館、勝岡城
刈田郡

・平沢地区公民館
・農地
・住宅数軒

※大正期に珪藻土の採掘を行い、城跡の形状の多くを喪失
■ 国分家 1402~????
:詳細不明。国分河内入道
■ 上口内中島家 天正年間~1591
:中島宗意、意成
■ 蒲生領 1591~1598
:詳細不明
■ 甘粕家(上杉領)1598~1600
:甘粕景継?(白石城代)
■ 高野家 1602~1697
:高野光兼、可兼、俊兼、武兼(一度、師山へ移封)
■ 高野家 1698~幕末
:高野武兼、倫兼、博兼、知哲、求知、知親、知孝
宮城県 蔵王町 平沢内屋敷
角田
-
伊具郡

・角田中学校
・角田高校
・八幡神社
・住宅地

※読「かく
■ 田手家 永禄年間~1591
:田手宗光(1564、相馬へ出奔)、宗時、宗実
■ 亘理伊達家 1591~1598
:伊達成実
■ 石川家 1598~幕末
:石川昭光、義宗、宗敬、宗弘、宗恒、村弘、村満、村俊、村文、村任、光尚、宗光、義光、邦光
宮城県 角田市 角田牛館
金山
-
伊具郡

金山城址
・金山神社
■ 相馬領 永禄年間~1584
:井戸川将監、藤橋紀伊らの名が残る。天正期、何度か伊達・相馬戦争の舞台に
■ 金山中島家 1584~幕末
:中島宗求、宗勝、宗信、宗常、宗盈、信秋、成康、実信、純信、実康、某、清則、恒康、信成
宮城県 丸森町 金山
亘理
-
亘理郡

・亘理神社
・亘理高校
・仮設復興住宅
■ 亘理家(涌谷伊達家) ????~1591
:亘理元宗、重宗
■ 片倉家 1591~1602
:片倉景綱
■ 亘理伊達家 1602~幕末
:伊達成実、宗実、宗成、基実、実氏、村成、村実、村純、村好、村氏、宗賀、宗恒、邦実、成邦
宮城県 亘理町 旧舘
坂元
坂本城、
亘理郡

・坂本神社
・坂本小学校
・農地
■ 坂本家(亘理領) 1572~1591
:坂本俊久(亘理重宗の娘婿)
■ 後藤家 1591~????
後藤信康
■ 黒木家 ????~1610
:黒木宗俊、宗元
■ 津田家 ????~????
:津田景康(=湯目景康)
■ 大條家 1616~幕末
:大條宗綱、宗頼、宗快、宗道、道頼、道任、道英、道直、道洽、道徳
宮城県 山元町 坂本舘下
新地
谷地小屋城、蓑首城
宇多郡

新地城址
・丘陵
・麓に住宅数軒
■ 相馬領 永禄年間?~1589
:藤原紀伊、門馬雅楽助、泉田甲斐(いずれも城代)
■ 亘理家(涌谷伊達家) 1589~1591
:坂本俊久(城代)
■ 亘理伊達家 1630~幕末
:亘理要害と並行して拝領。城代を置いていたかどうかは不明。
福島県 新地町 谷地小屋舘前

 所 ところ

一国一城令にて破棄された城塞を中心に、藩士の居城と小規模の城下町をあわせたもの。

実際に「○○所」と呼ばれているところを筆者はほとんどみたことがない。戦国時代まで城塞であったものがほとんどなので、そのまま「○○城」、あるいは城塞施設が破却されたあとは領主の館をさして「○○館」と呼ばれることが多い。

あくまで一般論として、東北の城は山城が多かったこともあり、治世の城としては不便だった。そのため、旧城郭のふもとに館を設けて新たな治世の府とした例が多い。城塞跡は、現在でも遺構が認められるものも多く、ある程度の維持はされていた様だが、やはり「所」といえば領主の館を中心としたミニ城下町を指したものと思われる。

名前
異称
旧郡
土地利用状況
城主・領主
現住所 
野手崎
小梁川館
江刺郡
・山林
・麓に旧城下町
■ 葛西領 ????~1590
:領主詳細不明
■ 木村領 1590~1591
:領主詳細不明
■ 空白期間 1591~1644
:領主詳細不明
■ 小梁川家 1644~1690
:小梁川宗影、宗敬、宗英(一度断絶)
■ 小梁川家 1691~幕末
:(再興)小梁川宗辰、宗永、盛鎮、盛明、盛平、盛明、康盛、邦盛
岩手県 奥州市 江刺区 梁川館下
前沢
-
胆沢郡
・お物見公園
・台地
・麓に旧城下町、奥州街道沿い
・前沢小学校(廃校、三澤氏時代の屋敷跡)
■ 三田家(葛西配下、柏山領)????~1588
:...三田義広(柏山氏に反抗し、没落)
■ 小山家(葛西配下、柏山領)1588~1590
:小山明長(柏山明宗の弟)
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明
■ 大内家 1591~1644
:大内定綱、重綱
■ 成田家 ????~????
:詳細不明
■ 飯坂家 ????~????
:飯坂定長、宗章、輔俊
■ 三澤家 1681~????
:三澤宗直、村為、村清、村保、村延、宗為、邦明、邦為
岩手県 奥州市 前沢区 陣場
大原
山吹城、田手館
磐井郡
大原城址
・丘陵
・麓に旧城下町、今泉街道(R343)沿い
・麓の一関市役所大東支所が田手館跡
■ 大原千葉家(葛西領) ????~1590
:...千葉信茂(葛西晴信の弟)、千代竹丸
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明。奥州仕置軍として下向した石田三成が改修。
■ 粟野家 1591~????
:粟野宗国、重清
■ 大條家 1613~1616
:大條宗綱
■ 氏家家 ????~????
:氏家清勝、清継、清寿
■ 宮床伊達家(伊達崎家・田手家) 1659~1670
:伊達宗房
■ 但木家 1702~1757
:但木顕高、顕行
■ 平賀家 1791~????
:平賀義雅、義幹、義暢、雅清
岩手県 一関市 大東町 大原川内
松川
松川内館
・東山館山公園
・川口稲荷神社
・舘山地蔵尊
・麓に旧城下町
■ 松川千葉家(葛西領) ????~1590
:...千葉信胤
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明
■ 猪苗代家 ????~1678
:猪苗代盛国、宗国、盛次、盛元
■ 空白期間 1678~1812
:詳細不明。
■ 仙台松前家 1812~幕末
:松前広文、広憲、広胖、広致
岩手県 一関市 東山町 松川館
下折壁
金鶏城
・丘陵
・竜雲寺
・麓に旧城下町、気仙沼街道(R284)沿い
詳細調査中
岩手県 一関市 室根町 折壁聖沢
薄衣
搦手館、米倉館
磐井郡
・丘陵
・麓北側に旧城下町。気仙沼街道(R284)と北上川のジャンクション

※読「うすぎぬ」
■ 薄衣家(葛西領) ????~1590
:...薄衣常雄
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明
■ 泉田家 1591~幕末
泉田重光、重時、元時、重時、虎時、定時、胤時、倫時、常時、基時、基光
岩手県 一関市 川崎町 古館
藤沢
-
磐井郡
・館山
・麓に旧城下町
■ 岩淵家(葛西領) ????~1590
:...岩淵経平
■ 木村領
:城主詳細不明
■ 大町家 1630~1639
:大町元頼、定頼
■ 新田家(中村家) 1644~1694
:新田義綱、義親、義延、善影、中村成義
■ 藤沢奥山家 1698~幕末
:奥山常尚、清章、清福、清高、清庸、清将、清成、清晴
岩手県 一関市 藤沢町 藤沢町
気仙沼
煙雲館
本吉郡
・鮎貝氏屋敷が煙雲館として今も残る
■ 葛西領 ????~1590
:詳細調査中
■ 木村領 1590~1591
:領主詳細不明
■ 空白期間
:詳細不明
■ 鮎貝氏 1599~幕末
:鮎貝宗続、盛次、隆盛、盛益、盛辰、盛栄、盛成、盛房(※鮎貝氏の入封時期については異説あり)
宮城県 気仙沼市(詳細調査中)
柳津
-
本吉郡
・山林
・福田寺
・麓に旧城下町、一関街道(R342)と東浜街道(R45)のジャンクション。北上川沿い
■ 葛西領 ????~1590
:詳細不明
■木村領 1590~1591
:城主詳細不明
■ 山崎家 ????~????
:領主詳細不明
■ 高屋家 1591~1722
:高屋宗慶、宗伯、宗甫、宗恬、英州
■ 布施家 1723~幕末
:布施定信、定誠、定寿、定胤、定郷、定保、定徳

宮城県 登米市 津山町 柳津平形
岩ヶ崎
鶴丸城
栗原郡

・館山公園
・山林
・山麓に旧城下町。栗駒小学校が藩政時代の屋敷跡。
■ ...富沢家(葛西領→半独立領主) ????~1590
:...富沢日向
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明
■ 伊達家 ????~1628
:伊達宗綱、宗信(政宗の5男・6男)
■ 石母田家 1628~1652
:石母田宗頼、定頼、永頼
■ 岩沼古内家 1663~1687
:古内重定、広慶
■ 中村家(新田家) 1694~幕末
:中村成義、義全、義賢、景貞、景房、宣景、宣静
宮城県 栗原市 栗駒岩ケ崎 裏山
川口
滝野館
栗原郡
・山林
・麓に城下町
・遠藤時代の館は山麓の滝野館
■ 狩野家(大崎領) ????~1590
:...狩野修理
■ 木村領 1590~1591
:詳細不明
■ 遠藤家 1604~幕末
:遠藤玄信、俊信、斉伸、昭信、守信、善信、行信、元生、元良、允信
宮城県 栗原市 一迫川口
真坂
鹿島館
栗原郡

・山林
・龍雲寺
・山麓に一迫川。川を渡ると旧城下町
■ 一迫家 (狩野家・真坂家、大崎領) ????~1590
:...一迫隆真
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明
■ 富塚家 ????~1718
:富塚宗綱、信綱、重信、重長、重標
■ 白河家 1718~幕末
:白河村親、村広、村祐、村雄、宗秀、邦親
宮城県 栗原市 一迫真坂館浦
米谷

登米郡
・丘陵(住宅数軒)
・山麓に旧城下町、一関街道(R342)・北上川と本吉街道(R398)のジャンクション

※読「まいや」
■ 米谷家 (葛西領) ????~1590
:...米谷常秀
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明
■ 桑折家 ????~????
:桑折新左衛門
■ 石母田家 1596~1616
:石母田宗頼
■ 柴田家 1616~1681
:柴田宗朝、朝意、宗意
■ 日野家 ????~????
:日野元信
■ 高泉家 1704~幕末
:高泉兼康、兼重、兼元、兼晃、兼雄、景親、景協、兼善、兼之
宮城県 登米市 東和町 米谷根郭
西郡
湖水城、沼城、古館
登米郡
・小台地
・林、住宅数軒
・機織(はたおり)沼
・西郡街道(R346)沿い


※読「にしごおり」。現代の地名としては「錦織」を用いる。表記がいつ変転したのかは不明。
■ 西郡家(葛西領) ????~1590
:西郡新右衛門
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明
■ 小梁川家 1602~1644
:小梁川宗影
宮城県 登米市 東和町 錦織内ノ目
錦織館、御館山
登米郡

・錦織小学校
・山麓に旧城下町、一関街道(R342)・北上川と西郡街道(R346)のジャンクション
■ 大内家 1644~幕末
:大内重綱、義春、義直、義繁、義門、定知、定安、基安、義房
宮城県 登米市 東和町 錦織山居沢
石森
-
登米郡
・山林
・石大神社
・麓に石森小学校
・城内会館
■ 石森家(葛西領) ????~1590 
:石森康次
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明
■ 遠藤家 1591~????
:遠藤高康
■ 笠原家 1644~幕末
:笠原成康、義康、実康、都康、房康、倫康、英康、寿康(家祖は下記笠原・宮崎家と同系統)

宮城県 登米市 中田町 石森前田
-
加美郡
・山林
・熊野神社
・麓に旧城下町
■ 笠原・宮崎家(大崎領) 1339?~1591
:笠原重広、為広、為宗、為時、詮時、兼時、 仲沖、隆治、宮崎隆親(本来、1590年から木村領だが、宮崎一族が一揆の拠点として籠城)
■ 片平家・山岡家・石母田家 文禄年間~慶長初期
:片平親綱、山岡重長、石母田宗頼(城預かりとして交代で統治)
■ 牧野家 ????~????
:牧野盛仲、茂中?
■ 石母田家 1652~1757
:石母田永頼、宗存、頼在、頼寛
■ 宮崎古内家 1757~幕末
:古内義清、義周、実徳、実道、実直、実広
宮城県 加美町 宮崎麓三番
小野田
-
・住宅数軒(旧城下町)
・中羽前街道(R347)沿い
■ 大崎領 ????~1590
:領主詳細不明
■ 木村領 1590~1591
:領主詳細不明
■ 上口内中島家 1613~1694
:中島意成、常成、宜成、利成
■ 宮崎古内家 1698~1757
:古内義長、義清
■ 小野田奥山家 1757~幕末
:奥山良風、良寿、良有、常雄、常明、常氏
宮城県 加美町 城内
中新田
-
志田郡
・中新田城址
・長興寺
・瑞雲寺
・市街地、羽後街道(R457)と中羽前街道(R347)のジャンクション

※読「なかにいだ」
■ 大崎家 本城 ????~1590
:...大崎義直、義隆
■ 木村領 1590~1591
:城主詳細不明
■ 只野家 1591~????
:只野勝吉、良純
■ 真山家 1693~????
:真山輔久
■ 佐々家 1696.07~10
:佐々定條(実際には移転せず)
■ 長沼家 1697~1716
:長沼致貞、致信
■ 蘆名家 1716~1757
:蘆名盛連、盛寿
■ 只野家 1757~幕末
:只野方義、義福、行義、由章、由予、寛良
宮城県 加美町 北町二番
松山
千石城、古館
志田郡

・松山御本丸公園
・丘陵、麓に旧城下町
■ 遠藤家 ????~1591
:...遠藤高康
■ 石川家 1591~1598
:石川昭光
■ 古田家 ????~????
:古田重直
■ 茂庭家 1603~1657
:茂庭綱元、良元
宮城県 大崎市 松山千石本丸
上野館
志田郡

・松山高校
・白羽箭稲荷神社

■ 茂庭家 1657~幕末
:茂庭定元、姓元、嵩元、元明、苞元、善元、徳元、升元、敬元

※山城である千石城から向かいの台地に移動。良元が1631年に新館の造営を開始し、定元のとき1657年に移転。
宮城県 大崎市 松山千石松山
中津山
-
桃生郡

・白鳥神社
・住宅数軒(旧城下町)
・東浜街道(県道21号)、北上川沿い
■ 中津山家(葛西領) ????~1590
:中津山四朗
■ 木村領 1590~1591
:領主詳細不明
■ 大立目家 ????~1600
:大立目宗重
■ 瀬上家 1661~1694
:瀬上宗敦
■ 伊達氏(後に川崎伊達氏) 1695~1699 支藩・中津山藩
:伊達村和(3代藩主・綱宗の子)
■ 布施家 1700~1723
:布施定安、定信
■ 黒澤家 1723~幕末
:黒澤俊栄、俊昌、俊秀、俊信、俊英、俊章、俊親
宮城県 石巻市 桃生町 城内
相野谷
飯野川城
桃生郡

・山林
・麓に旧城下町、一関街道(R45)の北上川渡河地点
・飯野川第一小学校が藩政時代の屋敷跡か?

※読「あいのや」
■ 葛西領 ????~1590
:領主詳細不明
■ 木村領 1590~1591
:領主詳細不明
■ 遠藤家 ????~1606
:遠藤高康、重明、定弘
■ 飯野川葛西家 1627~1773
:葛西俊信、重利、清方、清香、清胤
■ 大立目家 1774~幕末
:大立目盛行、成篤、盛篤、清篤、充宜、教篤
宮城県 石巻市 相野谷 旧屋敷
和淵
武田館
桃生郡

・和淵山が城跡か?
・藩政時代の屋敷跡地不明
・山麓に旧城下町、北上川沿い
詳細調査中
宮城県 石巻市 和渕(詳細調査中)
鹿又
-
桃生郡

・詳細調査中
・JR石巻線 鹿又駅周辺が旧城下町? 一関街道(R45)の旧北上川渡河地点
■ 葛西領 ????~1590
:領主詳細不明
■ 木村領 1590~1591
:領主詳細不明
■ 瀬上家 1694~1726
:瀬上宗敦、寛敦、景敦
■ 空白期間 1726~1744
:詳細不明
■ 瀬上家 1744~幕末
:瀬上景敦、景元、景福、景韶、景禄、景範
宮城県 石巻市 鹿又(詳細調査中)
小野
梅ヶ森館
桃生郡
・山林
・五十鈴神社
・愛宕神社
・麓に旧城下町
・藩政時代の屋敷跡については調査中
■ 長江家(伊達寄りの独立領主) ????~1590
:...長江勝景(月鑑斎)
■ 木村領 1590~1591
:領主詳細不明
■ 伊東家 1603~1646
:伊東重綱、重義
■ 田村家 ????~????
:田村宗良
■ 伊藤家 1652~16??
:伊東重義、重門
■ 三澤家 16??~1681
:三澤宗直
■ 富田家 1682~幕末
:富田氏紹、紹実、実樹、篤実、実続、実保、実行、実文
宮城県 東松島市 小野 笹森
大窪城
黒川郡

・大窪城址公園
■ 宮沢・大松沢家 ????~幕末
:...大松沢元実、定実、頼実、広実、信実、以実、文実、定実、良実、衡実

※戦国時代~藩政時代を通して一貫して伊達領、かつ一度も領主交代がなかった非常に珍しい例。戦国時代の城主・元実が宮沢から大松沢に改姓。
宮城県 大郷町 大松沢 真坂
吉岡
-
黒川郡
・城内大堤公園
・市街地(旧城下町)は奥州街道沿い。映画『殿、利息でござる!』で舞台になった吉岡宿
■ 黒川領 ????~1590
黒川晴氏(本城は下草城、当時この地に城はなし)
■ 伊達領 1590~1604
:領主詳細不明
■ 伊達家・飯坂家 1604~1634
:伊達宗清(飯坂宗清、政宗3男。1616年築城)
■ 仙台藩直轄領
:蔵入地
■ 小野田奥山家 1661~1757
:奥山常辰、常定、常有、良風
■ 但木家 1757~1868
:但木顕行、長行、明行、直行、成行
宮城県 大和町 吉岡古館
宮床
宇和多手城、鴇田館
黒川郡
・丘陵
・松巌寺
■ 鴇田家(黒川領) ????~1590
:鴇田国種、国近
■ 伊達領 1590~1660
:領主詳細不明。上記宮床領か?
宮城県 大和町 宮床戸崎
田手岡館
黒川郡
・山林
・麓に旧城下町
・近隣に博物館(宮床宝蔵)あり
■ 田手家(後に宮床伊達家) 1660~1702
:伊達宗房、村興(共に2代藩主・忠宗の子)
■ 宮床伊達家 1722~幕末
:伊達村興、村茂、村嘉、村烈、村義、宗規、宗賢、邦孚、宗広
宮城県 大和町 宮床四辻
高城
神楯城
宮城郡
・山林
・麓に旧城下町(松島市街地)、高城川沿い

■ 高城家 ????~1602
:...高城宗綱、宗直
■ 空白期間 1602~天保年間
:領主詳細不明。
■ 福原家 天保年間~幕末
:福原資氏、賀資、某、資広
宮城県 松島町 高城
利府
村岡城
宮城郡
・山林
・館山公園
・利府城址
・麓に城下町(利府市街地)、利府街道(県道8号)沿い
■ 村岡家(留守領)????~1569
:...村岡左衛門、兵衛
■ 留守家(独立領主→伊達配下)1570~1591
留守政景
■ 天童家 ????~16??
:天童頼澄、重頼、頼長
■ 空白期間 16??~幕末
:詳細不明
宮城県 利府町 利府城内
八幡
古館
宮城郡
・宝国寺
・末之松山碑
・市街地
■ 八幡家(留守領) ????~1591
:...八幡景光、景業、景廉
■ 天童家 16??~幕末
:天童定義、頼眞、成頼、頼清、頼根、倫頼、常頼、頼益
宮城県 多賀城市 八幡2丁目
蒲生
和田屋敷
宮城郡
・住宅地
・七北田川河口
・仙台港近隣
・3.11で津波に被災
■ 留守領?
:領主詳細不明。戦国時代に城はなし。
■ 和田家 16??~幕末
:和田為頼、房長、定長、為明、為長、為利、為賢、為澄、為孝、為良、為泰
宮城県 仙台市 宮城野区 蒲生屋敷
長袋
長館、長楯城
名取郡
・名取川河岸台地
・二口街道(県道62号)沿い
・住宅数軒
・稲荷神社

※読「ながふくろ」
■ 秋保家(伊達領) ????~1603
:...秋保則盛、勝盛、直盛、定盛
■ 秋保家 1624~幕末
:秋保定盛、将盛、利盛、良盛、氏盛、昌盛、賢盛、豊盛(※長袋村の知行は1624年に回復したが、移住は1652年)

※「所」となったのは1776~
宮城県 仙台市 太白区 秋保町 長袋町
茂庭
丹下館
名取郡
・住宅数軒
・名取川河岸
・笹谷街道(R286)沿い
■ 茂庭家(伊達領) ????~1618
:...茂庭定直、定元
■ 空白期間
:詳細不明
■ 茂庭家 1703~幕末
:茂庭秀興、秀敦、秀将、秀文、秀寿、秀英、秀胤、秀博

※「所」となったのは1702~
※茂庭綱元(旧姓・鬼庭)とは別系統
宮城県 仙台市 太白区 茂庭新組
村田
-
柴田郡
・城山公園
※城下町の旧家郡は重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)に指定
・村田歴史みらい館
・道の駅 村田
■ 村田家(伊達領) ????~1591
:村田業朝、定朝、朝広、朝盛、宗盛、近重、宗稙(万好斎)
■ 仙台藩直轄領 1591~1605
:蔵入地
■ 石川家 1605~????
:石川昭光
■ 村田伊達家 1613~1626
:伊達宗高
■ 仙台藩直轄領 1626~1629
:蔵入地
■ 小野田奥山家 1629~1660
:奥山常良、常辰
■ 田村家 1660~1680
:田村宗良
■ 大松沢家 ????~1684
:大松沢実泰
■ 芝多家 1684~1866
:常春、村如、康文、信憲、信行、常熙、常則、常質
■ 片平家 1866~幕末
:片平教敬
宮城県 村田町 村田 北塩内
丸森
丸山城、鳥屋館
伊具郡
・丘陵
・阿武隈川沿い
・麓西側に旧城下町
■ 伊達家 1548~1565
:伊達稙宗(隠居領)
■ 相馬領 1570~1584
:門間大和、伊達・相馬戦争の舞台に
■ 黒木家 1586~1589(伊達領となったのは1584~)
:黒木宗俊、宗元
■ 高野家 1589~1602
:高野親兼、光兼
■ 大條家 1598~1644
:大條実頼、元頼、定頼、直頼
■ 山口家
:山口内記
■ 遠藤家
:遠藤勘解由
■ 佐々家 1682~幕末
:佐々定隆、定條、義元、康定、定延、俊定、広元、資定、元則
宮城県 丸森町 渕ノ上
駒ヶ嶺
-
宇多郡
・丘陵
・麓に住宅地(旧城下町、駒ヶ嶺宿)
・陸前浜街道(R6)沿い

※要害から降格
■ 相馬領 永禄年間~天正初期
:藤崎摂津
■ 黒木家 1589~????
:黒木宗俊
■ 桜田家 ????~????
:桜田元親
■ 新田家(中村家) 1599~1644
:新田義綱、義親
■ 富塚家 ????~????
:城主詳細不明
■ 宮内家 1718~1868
:宮内定清、直清、信清、春清、広清、盛清
■ 薩長軍 1868
:戊辰戦争の際、攻撃を受け陥落
福島県 新地町 駒ヶ嶺舘

在所 ざいしょ

平地に新しく館を建て、周囲を農地・山林が囲んだものだが、松森城の様に中世の城塞を利用した、実質的には要害・所に近いものもあった。ただ、所の様に城下町と呼べるレベルにまでは発展していない、農村クラスの集落が分類されることが多い。

名前
別名
所在
統治
代表的城主
家格
備考
平形

栗原郡
高屋家

着座

八樟やつくぬぎ

栗原郡




照越


栗原郡
黒木家
黒木宗俊
一家

清水沢

栗原郡
松前家

準一家

大川口

栗原郡
上遠野家
上遠野高秀


谷地森

加美郡
片平家
片平親綱
一族

城生

加美郡




下中目

志田郡
氏家家

着座

下伊場野

志田郡




永井

桃生郡
村田家
村田宗友
一家

南境

牡鹿郡




中村
太田館
黒川郡
太田家
太田資則


鶴ヶ城
宮城郡
矢野家
矢野定芳


足立

柴田郡




藤田
松前館
伊具郡
松前家

準一家

尾山
尾山小館
金津城
伊具郡
尾山大條家

着座

島田

伊具郡




小斎
柴小屋城
伊具郡
佐藤家
一族


地図はコチラ

これだけあると、ただ一覧表にしてもよくわからないと思うので、地図に位置を落とし込んでみた。正確な位置がまだわかっていないものもあるので、随時更新。




■追記:仙台藩の「海外領土」

仙台藩は一般的に62万石と呼ばれているが、「本土」である陸奥国(現在の宮城県・岩手県南部)の領土はすべてあわせても60万石である。では、残りの2万石はどうなっていたかというと、近江国 羽田(現・滋賀県)に1万石、常陸国 龍ヶ崎(現・茨城県)に1万石の「飛地」があり、それらをあわせて62万石となる。それぞれの飛地には陣屋が置かれており、それらも広義の意味で仙台藩の城といえるだろう。

加えて、幕末に蝦夷地(北海道)の警備を幕府から命じられた仙台藩は、担当エリアである蝦夷地南部の白老に元陣屋をかまえ、さらに広尾、厚岸、根室、国後、択捉にも出張でばり陣屋を設置していたようである。国後、択捉といえばいわゆる北方領土だ。仙台藩の城は、そんなところにもあったのである。

白老陣屋の跡地には資料館が建っており、場所も特定されている。出張陣屋について、各地の郷土資料館に問い合わせてみたところ
  • 広尾:現在の広尾小学校に石碑が残る。
  • 厚岸:図面を元に比定される場所に標柱あり。正確性については疑問も。
  • 国後・択捉:図面は残るが、場所は特定もされず。地理的・政治的に発掘調査も困難か。
  • 根室:旧根室県庁である現在の千島会館に比定される。
との回答をそれぞれ得た。取り急ぎ、これらの場所も地図に落とし込んでみたので、併せて参照していただきたい。



■ 参考文献
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 通史編3 近世Ⅰ』(仙台市、2001年)
・渡辺信夫(責任編集)図説 宮城県の歴史』(河出書房新社、1988年)
・本田勇『史料 - 仙台伊達氏家臣団事典』(丸善仙台出版サービスセンター、2003年)
・各城址、現地案内版