2017年12月10日日曜日

鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる- 【悲運の一族・飯坂氏シリーズ④】

さて、これからいよいよ本格的に飯坂家の歴代当主に触れながら、彼らの歴史について触れてみたいと思う。

とはいいつつも、初代・為家以降、戦国時代の当主・飯坂宗康までの鎌倉・室町時代の飯坂氏の事跡については、不明点が多い。手掛かりになりそうなのは「伊達分流飯坂氏系圖」(以下、「飯坂系図」)くらいで、せいぜい当主の名前くらいしか情報がない。

分家である下飯坂氏の「藤原姓下飯坂氏系図」(以下、「下飯坂系図」)の方が若干情報が詳しく、こちらには当主の生没年月日や、兄弟姉妹、母親の情報などもあるので、情報を補いつつ、足りない部分は多少の想像も含めつつ、飯坂氏の歴史を追いかけてみよう。

以下、判明していない事象が多いため「~と思われる」「~かもしれない」といった推定表現が続出する。あくまで筆者の推論ベースであることに注意して読んでほしい。

初めに、生没年がはっきりしている8代・重房までの生きた年代と簡易年表をまとめた図から掲載する。
クリックで拡大。赤字は東北に関わるできごと
それにしても、皆わりと長生きな一族である。

■ 2代・伊達家政

「飯坂氏系図」「下飯坂氏系図」ともに諱いみなが一致。幼名の「彦四郎」も一致している。母親(つまり伊達為家の妻)は畠新左衛門尉資弘の女だという。

弟に家延がおり、この人は常州 飯野弥二郎高光の養子となり家を継いだという。妹も常陸の志田五郎左衛門尉資広の室となっている。伊達家の初代・朝宗は常陸入道念西に比定されることもあり、常陸の一族との婚姻関係は、こういったバックグラウンドを連想させる。

正嘉2年(1258)7月11日、58歳で没とあるので逆算すると1200年の生まれ。活動の時期としては、ちょうど鎌倉幕府の創成期にあたる。


■ 3代・伊達宗政/家綱

「飯坂系図」では宗政、「下飯坂系図」では家綱、左近左左(ママ)衛門尉の名で伝わる。幼名の「小太郎」は一致する。母親(=家政の妻)は奥州 伊具四郎大夫長清の女だという。伊具とは伊具郡の伊具であろうか。だとすれば、伊達の本拠地・伊達郡を飛び越えた婚姻関係がこの時期すでに展開されていたことになる。また、兄弟姉妹の情報はみえない。

永仁5年(1297)6月22日、67歳で没とあるので逆算すると1230年の生まれ。活動の時期としては2度の元寇(1274、1281)によって鎌倉幕府の体制に揺らぎが生じてくるタイミングである。


■ 4代・飯坂政信

両系図ともに諱、伊賀の別称まで一致する。「下飯坂系図」では政信以下、9代・重朝まで幼名と思われる「小次郎」の記述が伴うが、おそらくこれは「小四郎」の誤りであろう。家祖・為家が「四郎」であったため、歴代当主は幼名として「小四郎」を名乗ったのではないか。母親(=宗政/家綱の妻)は湯田三郎左衛門尉 秀清の女という。

兄に「家信 宮城越中守」なる人物がおり、おそらく宮城家に養子に入ったものと思われる。姉は伊達郡 大森四郎通忠の妻。弟・源五は早世。妹は伊達郡 中村淡路為長の妻として名が伝わる。

特筆すべきは、この4代政信の代に伊達から飯坂に改姓しているということだ。姉妹も伊達郡の一族(大森姓なら信夫郡では? という気もするが)に嫁いでいることから、だいぶ土着が進んだものと思われる。

正和4年(1315)8月25日、60歳で没とのことで、逆算すると1255年の生まれ。活動の時期としては、やはり2度の元寇と永仁の徳政令(1297)により鎌倉幕府・北条政権に揺らぎが生じてきた時期だ。おそらくこの人の「政」の字は、同じ時期の伊達家4代当主・伊達政依(1227~1301)の偏諱(一字拝領)ではないかと思われる。


■ 5代・飯坂俊信

両系図ともに諱は一致。「飯坂系図」では彦四郎、「下飯坂系図」では小次郎、式部、大蔵の別称が伝わる。母親(=政信の妻)は二階堂四郎左衛門尉行定の女。おそらく、須賀川二階堂氏の誰かだろう。

妹は伊達家士・渡辺源七定綱の妻、弟に信明(彦四郎)、家政(弥五郎)の名が伝わる。

歴応3年(1340)7月22日、63歳で没とあるので、逆算すると1277年の生まれ。彼の晩年はちょうど、南北朝時代の動乱が始まる時期である。揺れる鎌倉幕府、後醍醐政権、足利氏ら建武政権に反発する武士団などの間で舵取りが難しい時期であったはずだ。


■ 6代・飯坂信近/近信

「飯坂系図」では信近、「下飯坂系図」では近信と、明らかにどちらかが誤植であると思われる名が伝わるが、どちらが正であるかなんとも判断しがたい。「飯坂系図」では式部大輔、「下飯坂系図」では式部の官名が伝わる。

母親(=俊信の妻)は刑部少輔 平盛胤の女であるという。苗字が伝わらないが、平姓の「盛」「胤」とくればどことなく近隣の相馬氏を連想させる名前ではある。ちなみに相馬氏には13代・15代当主に相馬盛胤がいるが、生きた時代(13代:1476-1521、15代:1529-1601)は一致しない。また、特に兄弟の名は伝わっていない。

文和元年(1352)8月4日、52歳で没とされ、逆算すると1291年の生まれ。この時代は本格的に南北朝の動乱の時代と重なる。当時の伊達家7代当主・伊達行朝は後醍醐政権の奥州トップ・北畠顕家の遠征に従ったり、伊達勢力下の霊山にこもったり南朝方としての活躍が知られる。飯坂氏も当主・伊達行朝に従って、南朝方として活動したと考えるのが自然だろう。
霊山。「りょうぜん」と読む。福島県 伊達氏 霊山町。
伊達氏の支配領域で、奥州南朝方の拠点となった。

であれば、飯坂からみて霊山はわずか20キロ西方になる。霊山は北朝方に包囲された記録があるので、この時期の飯坂も、あるいは敵方の侵入を許したかもしれない。信近/近信も霊山の山城に籠城したり、北畠顕家に従軍して機内まで壮大な遠征をおこなっていた...かもしれない。


■ 7代・飯坂重近

両系図ともに諱が一致。また受領名の「和泉(守)」も一致する。母(=信近/近信の妻)は中条 和泉次郎左衛門尉 藤原秀明の女という。東北で中条氏といえば、越後の揚北衆・中条氏(いちおう藤原姓)くらいしか思いつかないのだが、これまで近隣で済ませていた婚姻関係からはどうも飛躍が過ぎる気はする。

また、弟に飯坂平四郎安重、伊達郡・小倉俊信の養子となった孫次郎信重の名が伝わる。

永徳3年(1383)9月24日、61歳の卒なので、逆算すると1322年の生まれ。この人も、青年期は父親と同じく南北朝の動乱期にあたるため、南朝方としてなんらかの活動をしていたのではないかと思われる。

父の時代と違うのは足利氏勢力の内紛である観応の擾乱(1349-1352)を経て一時的に奥州南朝方の勢力が盛り返したものの、大局的には南朝方が衰退し、北朝方優勢の時代となったことである。伊達氏も南朝方の武将であった行朝の子・宗遠の時代からは北朝方に転じたとされており、この時代の飯坂重近も難しい対応を迫られたことだろう。



■ 8代・飯坂重房

「飯坂系図」では家房、あるいは和泉守、重房、「下飯坂系図」では重房、薩摩、和泉の名で伝わる。ここでは一致する重房の名を採用した。母親(=重近の妻)は赤井兵庫助高次の女。兄弟の名は伝わらない。

応永20年(1413)4月10日、69歳没と伝わり、逆算すると1344年の生まれ。時代としては、先にも触れた伊達氏8代当主・宗遠、9代当主政宗の時代となる。彼らの時代の伊達氏の大きなトピックといえば、近隣の長井氏を攻め、置賜郡(現在の米沢周辺)を支配下におさめたことである。

であれば、飯坂の地政学回でも触れたように、信達地方=置賜ルートの起点となる飯坂はこの時代、戦略的価値が増したのではないかと思われる。飯坂がこれら対置賜侵攻の出撃拠点となったことも考えられるし、重房も実際に従軍していたかもしれない。

伊達氏9代当主・伊達政宗。伊達氏中興の祖。
17代当主・政宗はこの人にちなんで「政宗」の名を与えられた。

また、この頃から伊達氏は京都の室町幕府と関東の鎌倉府の対立において、幕府方につき鎌倉府側と対立するようになる。9代当主・政宗も鎌倉府側の諸氏との対立を起こしており(伊達政宗の乱)、こういった戦いにも関わりがあったかもしれない。


■ 9代・飯坂重明/重朝

「飯坂系図」では重明、小四郎、「下飯坂系図」では重朝、小次郎、尾張の名で伝わる。重に続く「明」と「朝」は字面が似ているため、これもどちらかが誤植ではないかと思うのだが、どちらが正しいかは判断が難しい。

これまでの当主たちの生没年はすべて「下飯坂系図」をベースとしてきたのだが、ここから情報が途絶える。というのも、この重明/重朝の時代には彼の弟である豊房の活躍が伝わり、彼が分家して下飯坂氏の祖となったことから、以後系図の情報は歴代下飯坂家の当主にシフトするからである。

下飯坂豊房は伊達家11代当主・伊達持宗に従って鎌倉府との対立(伊達松犬丸の乱)を戦い、このときの功績によって分家したという。弟の活躍が伝わる一方、兄で当主の重明/重朝についての情報がないのは、意図的に書かれなかったのか、あるいは本当に活動がなかったかのどちらかにはなるが、この乱で伊達氏は敵方の二本松城主・畠山国詮に大仏城(福島市、飯坂の目と鼻の先)を落とされているので、やはりなんらかの活動があったと考えてもおかしくはないだろう。

母親(=重房の妻)は飯坂安重の娘であり、父・重房と母親はイトコ婚であった。


■ 10代・飯坂宗家/重光?

「飯坂系図」には宗家、主馬の名が伝わる。一方の「下飯坂系図」には下飯坂氏2代目・宗房の兄として「重光 飯坂小四郎」の名が見える。飯坂の苗字と「小四郎」が飯坂氏歴代当主の幼名であることを考えれば、同一人物の可能性がある。

だとすれば飯坂氏9代・重明/重朝には子がなく、弟の子である宗家/重光を養子としたのだろう。母親(=下飯坂豊房の妻)は瀬上因幡宗康の女。瀬上氏は飯坂氏からみて最も近隣の城主であり、同じ伊達の支族である。

具体的な活動については情報がない。


■ 11代・飯坂為明 / 12代・飯坂重信

どちらも「飯坂系図」に諱と受領名(それぞれ但馬守、伊賀守)のみが伝わるのみで、他に情報がない。

おそらく時代としては伊達家当主の12代・成宗、13代・尚宗、14代・稙宗のあたりになるだろう。伊達氏が東北における室町幕府のトップである大崎氏の勢力を凌ぎ、名実ともに奥州の覇者として成長していく時代である。

おそらく彼らの時代のできごとだと思われることが2点ある。ひとつは伊達尚宗の時代、飯坂氏の菩提寺である天王寺の住職として、本宮小僧丸をひきとっていること。どの様な背景によるものかは不明だが、本宮氏は二本松畠山氏の一族であり、近隣の大名である。

もうひとつは、黒川郡の領主・黒川氏の当主に飯坂氏出身の人物が入嗣していることだ。黒川景氏なる人物がそれで、この人は飯坂弾正清宗の長子だという。この飯坂弾正清宗が飯坂氏歴代当主の誰に比定すべきかはわからない。為明・重信以外の当主の可能性もあるし、そもそも当主ではなかったかもしれない。

当時の黒川氏はすでに伊達氏の配下と化しているが、黒川家中ではもともとの主家筋にあたる大崎派と伊達派の間で綱引きがあったかと思われる。そういった中で飯坂氏から当主を送り込んだというのは面白い。

以後、黒川氏および黒川の土地と飯坂氏は、不思議な因縁で結ばれてゆく。


■ 13代・飯坂宗定

「飯坂系図」には宗定の名を筆頭に重定、持康の名が伝わる。また、受領名として但馬守、和泉守、童名・孫四郎。もともと重定、持康の名だったのを、おそらく同時代の伊達家当主稙宗か晴宗あたりから一字拝領して「宗定」と名乗ったのであろう。

であればなんらかの功績や期待があったのではないかと考えられるが、時期的には稙宗と晴宗による南奥州全土を巻き込んだ壮絶な親子喧嘩・天文の乱に関するものだろうか。稙宗も晴宗も「宗」が通字であるため、どちらによる偏諱かは判断しがたい。

また、妻に桑折宗保の娘をめとっており、ここから(あるいは11代・12代の時代からすでに始まっていたかもしれないが)同じ伊達の支族である桑折氏との濃厚な遠戚関係が始まる。

この宗定の子が飯坂氏14代当主・飯坂宗康である。筆者がこのシリーズで最も書きたかった人物だ。飯坂氏初代・伊達為家に始まりようやく宗康の時代までつながったのだが、ちょこっと寄り道をして本稿でも登場した分家・下飯坂について触れる寄り道をしたのち、彼について詳しく書いてみたい。


■ 両系図の情報まとめ

クリックして拡大。一致する情報は太字にしてある。

■ 悲運の一族・飯坂氏シリーズ一覧

飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家-
こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学- 
飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】
④鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる- ← 今ココ
⑤分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族-
┗【資料集】中世の飯坂氏
⑥飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク-
⑦飯坂宗康と戦国時代 -その功罪-
【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
┗【資料集】飯坂宗清
┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表

2017年11月28日火曜日

飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【悲運の一族・飯坂氏シリーズ③】【資料集付】

奥州合戦後に佐藤一族の領地であった飯坂にやってきた伊達為家。彼が居館としたのは佐藤基治の拠点・大鳥城ではなく、古館と呼ばれる城館だった。

■ 飯坂城(古館、湯山城)と大鳥城

これは地元でも混同されているのだが、佐藤一族の城である大鳥城と飯坂一族が居館とした飯坂城(=古館、湯山城)は別物である。おそらく地元の人に「飯坂城ってどこですか?」と聞くと誤って大鳥城を案内されることになるだろう。


混同されやすい両者を比較してみよう。まったくの別物であることがわかる。

比較① 規模

上の写真を見てもらえば一目瞭然かと思うが、大鳥城は現在「館の山公園」として整備されている一帯で、比高120メートル級の大規模な山城である。一方の飯坂城は温泉街中心の小高い山で、せいぜい比高15メートルの丘だ。


比較② 位置と実態
大鳥城が温泉街の中心街からすこし離れた場所に要塞として居座っているのに対して、飯坂城は温泉街の中心、一番有名な鯖湖さばこ湯からわずか130メートルの距離にある一等地に位置している。古館という名が示す通り、軍事施設としての「城」というよりは領地支配のための「居館」がその実態に近かったはずだ。


比較③ 遺構と現状
なお、大鳥城には曲輪や土塁と思われる設備が今でも見受けられるのに対し、飯坂城には遺構と呼べるものはまったく残っていない。現在は温泉街と住宅地、公共施設に飲み込まれ、「古館公園」として整備された一画に案内板が立つのみである。

...あるいは、これだけ大規模な要塞である大鳥城を破棄するのも単純に「もったいない」気もするので、平時は飯坂城、戦時には大鳥城にこもる、といった運用の想定もあったかもしれない。が、奥州合戦以降、飯坂が戦場となった記録はないので、証明は難しい。


■ 飯坂城の様子を伝えるもの

飯坂城の様子を伝える資料がないかいくつか探してみたのだが、びっくりするほど見つからない。前述のとおり、城というよりも居館が実態に近かったと思われること、住宅や公共施設用地として利用されたことから、遺構もまったくと言っていいほど残っていないし、発掘調査が行われたことがあったかどうかすらわからなかった。

それでも、飯坂城について触れた資料をいくつか集めてはみたので、興味のある方はページの末尾をご覧いただきたい。


近代以降はこの地の用途は割とはっきりしており、小学校、郵便局、電話局、警察署、消防署を経て現在は古館公園として整備されている。


■ 飯坂城のあわただしい正月 -飯坂城と政宗-

まともな記録のない飯坂城について唯一、確かなのは天正19年に伊達政宗が訪問している、ということだ。これは伊達家の正史である『貞山公治家記録』に記載があるのでそのまま引用してみよう。

〇此年 公、信夫郡飯坂城ニ於テ御越年。
(『貞山公治家記録』巻之十五 巻末) 
天正十九年辛卯 公御年二十五
正月庚寅大元日戊戌。御旅館信夫郡飯坂城ニ於テ御祝儀アリ。
(略)
〇九日丙午。飯坂ヨリ米澤ニ御歸城。

(『貞山公治家記録』巻之十六 冒頭)

というわけで、天正18年(1590)~同19年(1591)の年末年始を、政宗は飯坂城で過ごしている。正月とはいえ、この時期の政宗はなかなか忙しい。天正18年(1590)は葛西・大崎一揆が勃発した年で、政宗はこの鎮圧に向かうも蒲生氏郷から一揆の扇動を疑われてしまう。

秀吉への弁明のため、正月晦日(1月30日)には米沢を出発、翌閏正月26日には尾張 清州城で関白・秀吉と対面している。有名な黄金の十字架を背負って入京するシーンはこの直後である。

説明黄金の十字架を背負い、葛西大崎一揆扇動疑惑の釈明をしに上洛する政宗。
実際にはこれに先駆けて清州城で秀吉との面会を済ませている。ザ・パフォーマンス。

そういう経緯なので、正月でありながら政宗の心にはあまり安らぎはなかったかもしれない。普段であれば「誰々、挨拶に参上」といったような記述が並び、ゆっくりと家臣団の謁見をするのが常の正月なのだが、そういった記述も見当たらないし、正月7日には浅野長政との会議のため二本松まで日帰り出張をしたりと、かなり慌ただしい。

とはいえ、せっかく飯坂で年越ししているのだから、温泉にひたって汗を流すシーンくらいなら、想像したとしても実像とそうかけ離れてはいないだろう。


■ 初代・為家の晩年

さて、第2回、第3回と続けて飯坂の地理ネタにお付き合いいただいたわけであるが、話を飯坂氏の歴代当主に戻したいと思う。まずはこの記事のテーマ・飯坂城を建てた初代・伊達為家の晩年から。

この人は第1回でも触れた通り、建暦2年(1212)6月7日、「御所侍所に宿直し、荻生右馬允と私闘」したことで佐渡に流されたり、承久元年(1219)には鎌倉で3代将軍・源実朝に拝謁するなど、いろいろと派手に動いている痕跡はみえるのだが、飯坂での活動の実態があったのかどうかについては定かではない。

伊達氏と同じく奥州合戦の功労で奥州に所領を得、「奥州総奉行」となった葛西清重(伊達のお隣さん大名・葛西氏の祖)ですら、実際の活動はほぼ鎌倉で、奥州の所領には代官を送って統治していたのではないかと言われる。

あるいは為家も、鎌倉に常駐して御家人として仕えていたのかもしれないが、少なくとも晩年に飯坂城に住み、この地で没したのは確かなようだ。「藤原姓下飯坂氏系図」によれば建長4年(1252)7月26日に没している。享年78歳、大往生である。


■ 付録・飯坂城に関する資料集
01.『貞山公治家記録』
上記に掲載。伊達家の公式記録で元禄16年(1703)成立。天正18年末~19年初頭に伊達政宗が飯坂城に滞在していたことがわかる。文章は『仙台藩史料大成 伊達治家記録二』(宝文堂、昭和48年(1973))に拠った。


02.『信達一統記』
上飯坂邨
飯坂
町の東に在り小さき坂なり、熊野宮の前坂にて南向也、愚按ずるに昔飯坂右近將監宗貞此地に居住し給へる故に飯坂と云え又邨名も飯坂と云ふなるべし、古は佐波子邨と云へしが溫泉も佐波子邨に在る故に佐波子の湯と云へしなるべし、昔飯坂殿盛なりしときならむ、實に古き溫泉なり、東鑑に佐藤基治を湯の庄司とも書り
(信夫郡之部、巻之五)

天保12年(1841)に村役人・志田正徳が著述した風土記。居館については記述がないが、この項目「飯坂」の丘そのものが飯坂城の場所に当たる。飯坂氏が住んでいたから飯坂の地名になった、という記述だが実際には逆で、飯坂の地名を苗字として名乗ったのが飯坂氏である。文章は『福島縣史料集成第一輯』(福島縣史料集成刊行會、昭和27年(1952)、p473)に拠った。


03.『飯坂湯野温泉史』

古舘址 字古館にあり、現時飯坂(尋常脱)高等小学校舎の在る所にして、築造の年代考ふ可らざるも、永禄年間(一五五八-七〇)飯坂右近将監宗康之に居る、宗康後に伊達政宗に属し、仙台に移住すといふ。

飯坂出身の民間人・中野吉平による飯坂の地理書。念頭には『信達一統記』の改定があったという。大正13年(1924)発行。宗康は政宗の岩出山移封、仙台築城前に亡くなっているので「仙台に移住」は誤り。この年代、用地が小学校として使われていたことは下記案内板と一致する。文章は『福島市史資料叢書 第74輯』(福島市史編纂委員会、1999)に拠った。


04.現地案内板


クリックで拡大可。斜めで申し訳ないが、十数年後にはインクが剥げてそうな看板なので、記録の意味を込めて画像で掲載する。平成16年(2004)、飯坂町史跡保存会により設置。筆者の幼少時の記憶では、確かに以前、ここに消防署があった。


■ 悲運の一族・飯坂氏シリーズ一覧

飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家-
こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学- 
飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】← 今ココ
④鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる-
⑤分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族-
┗【資料集】中世の飯坂氏
⑥飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク-
⑦飯坂宗康と戦国時代 -その功罪-
【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
┗【資料集】飯坂宗清
┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表

2017年11月23日木曜日

こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学- 【悲運の一族・飯坂氏シリーズ②】

さて、奥州合戦ののち、飯坂にやってきた伊達為家。彼の4代目の子孫である政信の時代に「飯坂」を名乗るようになり、飯坂氏の歴史が始まるのだが、そのファミリーヒストリーに触れる前にそもそも為家が居住した飯坂なる場所がどんなところなのかについて触れておこうと思う。

戦国時代の終盤以降、飯坂一族は飯坂の地を離れることになるのだが、それまでの約400年弱、彼らは飯坂の地で暮らしたのだし、その地名を家名として冠したわけである。やはり一族の歴史に詳しく入り込むまえに、飯坂という地について一度きちんと理解しておきたい。


■ その位置

まず飯坂の位置だが、現在の自治体名で言うと福島県 福島市、旧国名で言うと陸奥国 伊達郡、信夫郡にまたがった地域になる。


福島県の県庁所在地である福島市の中心街から約20分の距離にあり、東北自動車道を通行中に飯坂インターの名を目にした方もいるだろう。また、JR福島駅からは鉄道・福島交通飯坂線に乗り換えて終点が飯坂温泉駅となる。

※なお、飯坂地域はおおざっぱにわけると摺上川を境にして東の湯野地区、西の飯坂地区に分けられる。中世の郡分けでいえば、東部・湯野が伊達郡、西部・飯坂が信夫郡に属した。飯坂の地理については信夫郡飯坂だったり伊達郡飯坂だったりと混在しているが、これが原因だと思われる。

■ 奥州最古の温泉地帯♨

そして飯坂といえば、第一に飯坂温泉である。

写真は飯坂のシンボルのひとつ、十綱(とつな)橋摺上川を挟んで多くの温泉旅館が軒を連ねる。余談ではあるが、この川は「すりかみ川」と読む。伊達氏の歴史に詳しい方なら、「摺上」と聞くと政宗の人生のハイライトのひとつ・摺上原の戦いを連想するだろう。こちらは「すりあげ原の戦い」と読む。筆者は摺上=すりかみと読む環境に生まれたせいか、つい最近まで「すりかみ原の戦い」だと思い込んでいた。

その歴史は古く、飯坂温泉オフィシャルサイトの説明によれば
2世紀頃、日本武尊が東夷東征の際、病にかかり、”佐波子湯”に浸かった所たちまち元気になった。とされています。飯坂温泉の歴史
という。古代にヤマトタケルの東国遠征隊が本当にここんな奥地までやってきたのか? とはツッコミたくなるところである。湯治ツーリズムが流行した江戸時代あたりにコマーシャルトークとして誰かが言い出したのではないかという気がするし、せめて「征夷大将軍・坂上田村麻呂も蝦夷征討のときにたち寄って入浴した」くらいなら信じられなくもないのだが、実際のところはよくわからない。



しかし、少なくとも平安時代末期には後述する佐藤基治が「湯の庄司」と呼ばれているので、古くから温泉地として知られた土地柄であるのは間違いない。

湯の庄司=佐藤基治と断定していいかどうかについては異論もあるだろうが、少なくとも平安時代末期には飯坂が「湯の庄」として認知され、それを「司」る地方豪族がいたことは確かだ。

江戸時代には松尾芭蕉も奥の細道の道中、飯坂温泉を訪れており、他に「正岡子規、与謝野晶子、ヘレン・ケラーも入った湯」という説明は飯坂でよく聞く。

飯坂温泉で一番有名な鯖湖湯(さばこゆ、写真はこちらから拝借)。
ヤマトタケルの時代? かどうかはさておき、古くは「佐波子湯」と表記。

なお、秋保温泉(宮城県仙台市)、鳴子温泉(宮城県大崎市)と並んで奥州三名湯に数えられている。「奥州」という割には3つとも場所が南東北に偏っている気もするが、多賀城が陸奥国の北限だった時代からの呼称と考えれば納得がいく。

■ 佐藤一族の拠点

さて、地元飯坂でも飯坂氏についてはあまりフィーチャーされないことが多いのだが、その反面、飯坂が観光資源として推している歴史的有名人といえば佐藤兄弟、すなわち佐藤継信・忠信であろう。飯坂ではいまだにタッキーこと滝沢秀明が義経を演じたNHK大河『義経』(2005年)ののぼりが目につく。あとあんま関係ないけど『八重の桜』も。

チャンネル銀河 大河ドラマ『義経』のページより拝借

佐藤継信・忠信は義経主従として有名で、奥州藤原氏傘下、佐藤基治の息子である。藤原秀衡の命により義経の下に参じ、名臣の誉れが高い。飯坂はそんな継信・忠信兄弟の父・佐藤基治の拠点である。

佐藤基治は飯坂の大鳥城主で、奥州合戦の緒戦・石那坂の戦いで源氏軍に敗れているのだが、息子たちが義経の幕下にいたこと、拠点の飯坂近くの石那坂、あるいは阿津賀志山が戦場になっていることから考えても、平泉=奥州藤原軍の主戦派として戦ったことは間違いない。

石那坂の場所ははっきりとはしないものの、
比定地のひとつが福島市 平石 原高屋にある。

なお、その佐藤基治を石那坂の戦いで打ち破ったのが、伊達家の初代・朝宗(に比定される常陸入道念西)と為家を含む4人の息子たちであった。飯坂は、伊達氏の発祥にも多少なり関係がある土地、ということになる。

というわけで、飯坂氏の祖となる伊達為家が入封した飯坂という土地は、関東からやってきた伊達氏にとっては敵方の最重要拠点であり、そこを抑える役目を授かった為家への期待も大きかったのではないかと推測できる。

ちなみに、飯坂地域にはいまだに佐藤姓の家が多く、佐藤兄弟、松尾芭蕉に続く地元の有名人(?)・佐藤B作もその一例だ。


■ 置賜=信達ルートの入り口

飯坂の地理についてもう少し考察してみたい。奥州合戦での活躍の褒賞として伊達郡に新たな土地を得た伊達氏はその支配領域を徐々に広げ、いつのことかははっきりわからないが、近隣の信夫しのぶも支配下に収めた。

上記の地図右側に、斜めに横たわったひょうたん形の盆地があるのがわかるだろうか? だいたいひょうたんの上半分が伊達郡、下半分が信夫郡のイメージで、二つ合わせて信達しんたつ地方あるいは福島盆地などと呼ぶ。

さらに伊達氏は拡大をつづけ、9代・伊達政宗(戦国時代の独眼竜・政宗ではなく南北朝時代の大膳大夫・政宗)の時代には置賜地方(山形県 米沢市周辺)をその支配下におさめた。元来の本拠地である伊達郡と置賜郡は奥羽山脈で隔たれているため、となればその回廊コリドール、つまり連絡通路が重要になってくる。

通常、置賜(米沢)~信達(福島)間の往来に使えるルートは、今も昔も変わらず、ほぼ3通りで

  1. 栗子峠(国道13号):急な山道で有名。明治時代に土木マニアの鬼県令・三島通庸の工事強行によりようやく栗子隧道が開通。つい最近(2017.11.04)高速・東北中央自動車道と東北最長のトンネル開通が話題となったばかり。
  2. 鳩峰峠(国道399号):舗装がはがれたり積雪・土砂崩れなどによる通行止めも頻発する「酷道」として一部マニアには有名なルート。走行中、猿に遭遇することも。
  3. 二井宿峠(国道113号、七ヶ宿街道):他の2つと比べて一番ゆるやかな道だが、福島=米沢間交通としてはかなり大回りになる。江戸時代には、日本海側の大名たちの参勤交代ルートとして用いられた。

である。置賜の拠点は米澤だが、信達側の伊達の拠点は時代とともに少しずつ移動する。ここでは地図上に伊達の本拠地として高子岡城、梁川城、桑折西山城をポインティングし、他に伊達晴宗の隠居城である杉目城(大仏城、福島城)、伊達成実の居城で政宗も前線基地として何度か滞在した大森城も落とし込んでみた。

そして、それらと置賜を結んでみると



上記の様になる。実際には現在の車道ルートと当時の往来には齟齬もあるだろうが、おおまかな道筋は一緒だ。すると、特に栗子峠(R13)と鳩峰峠(R399)は飯坂がその出入口になっていることがわかる。しかも、険しい山道を降りてくるとそこにあるのは古くから栄えた温泉である。これはひとっ風呂あびていくしかない。

というわけで伊達氏にとって飯坂とは、交通の要衝としての戦略的価値もそれなりにあっただろうと思われる。

その裏付けになるかどうかはさておき、天文22年(1553)に作成された「晴宗公采地下賜録」からは伊達の重臣・中野宗時が飯坂に一部所領を持っていたことがわかる。中野宗時といえば、晴宗・輝宗に仕え、一時は伊達家当主をも凌ぐほどの権勢を誇った人物だ。中野は天文の乱の後、晴宗による家臣団とその所領の再編・整理にかかわっているので、自ら望んで飯坂の土地を得た可能性も考えられる。

以上、交通の観点から飯坂というロケーションについて考察してみた。

しかしながら、栗子峠、鳩峰峠が中世にどれだけ利用されていたかについての実態については具体的な資料をみつけることができておらず、上記内容については我ながら根拠の裏付けが弱い、とも書いていて思った次第。筆者は峠大好き人間でもあるので、引き続き調査を進めたい。


■ 飯坂の地理的要素まとめ

というわけで、飯坂の紹介として3つのポイントを挙げてみた。
  1. 古くからの温泉地帯:古代から人が集まるロケーションだった
  2. 佐藤一族の拠点:進駐軍としてやってきた伊達氏にとっては、必ず押さえないといけない旧敵の根拠地
  3. 米沢=福島間交通の要:奥州山脈を越える峠道の入り口で、人・軍・物資・情報の往来が盛んだったことが想像される
3点目はカッコつきのポイントではあるものの飯坂という土地がどんな場所であるかについてはお分かりいただけたと思う。これらを理解していただいた上で、次回からは本格的に飯坂氏の群像にスポットを当てていこうと思う。

■ 悲運の一族・飯坂氏シリーズ一覧

飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家-
②こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学- ← 今ココ
飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】
④鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる-
⑤分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族-
┗【資料集】中世の飯坂氏
⑥飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク-
⑦飯坂宗康と戦国時代 -その功罪-
【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
┗【資料集】飯坂宗清
┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表